第4話 いざ行かん花街に

午後、小さな鞄に必要最低限の物を詰める。

龍一の写真を襟裳にそっと挟む。


母の形見分けで貰った指輪に柘植の櫛、

そして祖父の形見だと母が大切にしていた腕時計を鞄に納める。


後は、お財布に少しばかりのお金1円を忍ばせる。1銭あればあんぱんが一個買える。


逃げ出すつもりは毛頭ないが、

何かの役に立てばと思う。


部屋の掃除をしながら迎えを待つ。


大事にしていたぬいぐるみは龍一にあげようと思い立ち、お昼寝をしている弟の所へ持って行く。


お別れは辛いから旅立つ時までどうか目を覚さないでね。

そう思いながらそっと枕元にクマのぬいぐるみを置く。


龍一の寝顔をしばらく見ていると、


ピンポンと玄関の呼び鈴が鳴る。


「お嬢様…、お迎えが来られました。」

マサが顔を出し香世を呼びにやって来た。


香世は一息吐いて立ち上がる。


「マサさん龍一の事、よろしくお願いします。」

そう一礼して玄関を出る。


最後に一目見ようと我が家を振り返る。


姉も玄関に出て来て、

大事にしていた白いレースのハンカチを香世に握らせる。


「これ、香世ちゃんにあげる。大事にしてね。」


「ありがとう、お姉様。」


「体に気を付けてね。思い悩むと香世ちゃんは直ぐに熱を出すから…深く考え過ぎちゃダメよ。明日は明日の風が吹くだわ。」

姉がそう言って香世を励ます。


「そうね、ありがとうお姉様。行ってきます。」

2人抱き合い、別れを忍ぶ。


マサも涙ぐみながら手を振ってくれる。


香世は泣きたいのを我慢して笑顔で手を振りかえす。


さようならとは言いたくなくて、


「行ってきます。」

と言う。


「行ってらっしゃい。」


「行ってらっしゃいませ。」


2人に別れを告げ、人力車に仲買人と共に乗り込む。


空を見上げれば今にも雨が降りそうな、

どんよりした灰色だった。


さようなら。


人力車の上から頭を下げる。

動き出す人力車から小さくなって行く我が家を見つめ続ける。


そうよ……。


せめてお嫁に行くんだと思って

ハレの気持ちでいなくちゃ沈んでいても何も変わらない。

香世は灰色の空を見上げそう思った。


街を抜けると、急に大きな赤い門が道を遮る。


ああ、ここからが花街なのね。


ぐるっと赤い柵で覆われたその場所は、

柵の向こう側はまるで別世界のように、

着飾った女達が昼だと言うのに男と腕を組んで歩いている姿が見える。


人力車は門で一旦止まり、

仲買人が通行手当てを門番に見せる。


門番は香世を下から上まで舐めるように見て来る。


香世は背筋がゾッとするのを感じる。


両手をぎゅっと握りしめ香世はその目線に耐える。


「これはまた、上物だなぁ。

いくらになったんだい。」

門番と仲買人はしばし話し出す。


「200円だよ。破格だろ?

落ちぶれた公爵家の御令嬢だ。

今夜からでも部屋を取るだろうから、

あんたも金があったら買ってみるといい。」


下品でいやらしい話しを本人を目の前にして男達は話し出す。


香世はぎゅっと握りしめた手のひらに意識を持っていき、泣かないように真っ直ぐ前を見据える。


私の価値はたった200円…


いいえ、200円あれば高級車が買えるわ。


私の家族がその200円できっと一年生き延びる事が出来るはず。


悲観してはダメ、心を強く保つのよ。

自分自身をそう励ます。


パカパカ パカパカ パカパカ……


遠くから馬の蹄の音がする。


「そこの人力車、しばし待たれよ!」

その声で、そこにいた誰もが振り返る。


栗毛の馬が2頭、

香世の乗っている人力車目掛けて駆けてくる。


何事だと、門番も仲買人も目を凝らし

その馬に乗る人物を仰ぎ見る。


見れば黒の軍服に身を包んだ男が2人、

土煙をあげながら駆けてきて香世の乗る人力車の前に止まる。


「これはこれは、軍人さんが昼間からこのような場所に何用ですか?」


仲買人はそう言って大袈裟に笑う。


「自分は帝国軍第一部隊所属、

中隊長の真壁聡と申します。

そちらにお見受けするは我中尉殿の許嫁、

樋口香世様でございますね?」


確かに、私は香世だけど…許嫁?

私に許嫁なんて居たかしら?

と香世は首を傾げる。


じっと馬の上から見て来る見ず知らずの軍人を香世も見つめる。


「…はい。私が、樋口香世ですが…。」

戸惑いながら答える。


何かの間違いでは?


許嫁なんて生まれてこの方いた試しがないのだから…。


真壁はホッとした表情をして、

はぁーと息を一息付く。


「良かった間に合って。」


そう言って、馬からヒラリと舞い降りる。


もう1人もそれに従い馬から降りて、

香世に頭を下げてくる。

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