棺に納める
八凪 薫
棺に納める
大学の入学式は一人で行った。
学生寮に入っていたが、同じ階の誰からも声はかからなかった。会話らしい会話と言えば、席が隣だった子と少し世間話をして、式のあとで写真を1枚、撮ってもらったくらいだ。話の流れで連絡先を交換したけれど、次に会うことがあるかは、分からなかった。
式は3時間ほどだったろうか。広いホールにたくさんの学生がすし詰めになって、学長や来賓の話を聞いた。感慨はあったが、来賓の一人の滑舌がものすごく悪かったことぐらいしか記憶に残らなかった。
終了後は、Googleのマップを見ながら、足早に帰路についた。高校卒業後に揃えた真新しいスーツは、4月上旬の冷たい風をしのぐには心もとなかった。慣れないハイヒールの先は幾度も側溝にはまり、地元と違ってやたらと平坦でスケールの大きい道のりは途方もなく、足を疲れさせた。
やっとの思いで寮までたどり着き、部屋の鍵を開けた。1年ごとに住人が入れ替わるこの部屋には、見知らぬ匂いが未だに染みついていた。
歩いて、座って、話を聞いただけなのに、とてつもなく疲れていた。今すぐに布団にくるまってしまいたかった。けれどそうするには、この新品同然のスーツが邪魔だった。かと言って、脱ぎ散らかしておくわけにもいかない。きっと、数年後にまた必要になるのだから、丁寧にしまっておいた方がいい。
ジャケットを脱ぎ、スラックスを脱ぎ、ブラウスのボタンを慎重に外す。このブラウスは色味がいいが、作りが繊細すぎて、購入直後に交換する羽目になったのだ。小さなボタンは首の後ろにあるから、外すのにかなり難儀した。これが一人暮らしなのだと実感した。
先ほどまで自分が着ていたのと同じように、ハンガーにスーツを着せていく。付属品のカバーをかけたところで、納まりが悪いことに気が付いた。どうやらスラックスが邪魔をしているらしい。着る前はぴったり納まっていたはずだが、何かを間違えてしまったようだ。きっと畳み方が悪いのだろう。本来どうやってしまわれていたのかは、思い出せなかった。
スラックスを押し込んで、カバーのチャックを引き上げた。奇妙な感覚だった。入学式を終えた自分を、そこに丸ごとしまい込んでしまったような感じがした。まるで、自分自身を棺に納めたかのような。
棺。華々しい入学式の後になんてことを考えたのだろう。でも、実際には華々しくはなかったから、こういう思考だって許されるのかもしれない。
ただ何となく、うまくいかない予感がした。きっと疲れているせいもある。ただ確実に、自分は華々しさとは無縁の生活を送ってゆくのだろう、と思った。これから4年の間、あるいはそれ以上。
ここ数日の間で触れた都会的な価値観に照らしてみれば、自分の価値が見積もり以下だということは充分に察せた。けして能動的な質ではないから、居着くところに居着いてしまえばそれきりだろう。
もしかしたら、今、この時が幸福のてっぺんなのかもしれない、と思うと少し怖くなった。まだ授業は始まってすらいない。これから自分はどうなってしまうんだろう、と思った。
スーツとともにしまわれた私は、これからの大学生活のうちに起こるあらゆる物事を経験しない。勉学も、苦難も、喜びも。無知なまま、想像より地味だった入学式への、かすかな不満をひとつだけ抱えて、昏々と眠るのだ。それが少し羨ましかった。
次にこのカバーを取り去る時、私がどのような状況に置かれているのか、見当もつかなかった。
そこそこ幸福だといいなと、願わずにはいられなかった。
棺に納める 八凪 薫 @KaoRuYanagi
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