アイトワラス

木園 碧雄

第1話 得と徳

 金盛満かねもりみつるという氏名に、いかなる第一印象を抱くだろうか?

 世間一般に浸透している「名は体を表す」という言葉に反し、彼の半生は貧困に喘ぎながら過ごしてきたようなものである。

 金盛満の父は、息子が四歳――あるいは五歳だったかもしれない――の頃に親戚から資金援助を受け、当時勤めていた会社を辞めて会社を興したが、早々に詐欺に遭い会社は倒産。

 辛うじて破産申告は免れたものの、借金の取り立てに追われ、家族四人で食べていくのがやっとという極貧生活に陥った。

 長男の満も、小遣いどころかお年玉などという有難いものを大人から貰った覚えは一度も無い。自身も中学校に進学した時点で新聞配達のアルバイトを始めて学費と給食費を稼いでいたが、その反動か、学業の方はかんばしからぬ成績となってしまった。

 朝晩のアルバイトと奨学金のお陰で高校と大学は出たものの、会社人として稼ぐ立場になったらなったで、奨学金の返済と実家への仕送りにより、決して多いとは言えない給与から、さらに吸い取られ続けている。

 金盛の勤め先は、主に企業や施設の食堂を取引相手にした業務用食品卸売の商社である。

 高校、大学時代は新聞配達のみならず調理関係のアルバイトを続けていた金盛は、能力や将来性よりも経験とコネを人事から評価され、今は営業に回されている。

 業績は可もなく不可もなしと言ったところだが、上司は揃って金盛より優秀なので、出世の道は険しい。

 奨学金も仕送りも月に定額を返済し、あるいは送っているので、唯一の例外と言える年二回のボーナスだけは、そっくりそのまま金盛自身の取り分となる。ただし金で苦労してきた金盛は、万が一の入用に備えてボーナスのほとんどを貯蓄に回しているため、ボーナスであろうと大きな品を購入することは滅多にない。

 金の無い金盛は、通勤ルートの途中にあるリサイクルショップに入り浸っては、欲しい家具を物色する休日を過ごしており、ボーナスが入った折には乏しい資金を使って、必ず一つは中古の家具を購入するのが、無上の愉しみとなっている。

 その反面、金さえあればもっと良い品、それも誰かの手垢のついた中古品ではなくピカピカの新品を買えるだろうに、と屈折した思いを抱きながら過ごしている。

 煙草も吸えるし酒も呑める金盛だが、それらに費やす金が勿体無いという理由だけで、普段は常用してはいないのだが、皮肉にもそれが彼の健康体を作り上げる要因となっているのは、先日行われた健康診断で証明された。

 もっとも、金盛が煙草を吸わない理由は、学生時代の調理のアルバイトで喫煙席の接客と清掃に苦労したという苦い過去の経験からであり、また金が無い故に、酒も一人でじっくりと時間を掛けて味わうのが好み、というだけである。

 金盛が通い続けているリサイクルショップの店名は「アマーレ」。

 ラテン語で「愛する」という意味で、命名したのは欧州生まれの奥さんだと、すっかり顔馴染みになってしまった店主に詳説されたことがある。

 愛する家具を再生させて、新たな貰い手に譲り渡しているからなのだそうである。

 本当に家具を愛しているならば、そもそも売り払ったりしないのではないか。

 率直な感想を金盛が口にしなかったのは、営業での失敗から得た経験が元になっている。

 半分どころか二割弱にまで減ってしまったボーナスの残りを握りしめながら入った「アマーレ」の店内は、薄暗い照明のせいかひと昔前、ややもするとふた昔前の店舗のような古臭い印象を受ける。ただでさえ、古物商の店としては決して広くはない店内に、それこそ買取品をぎゅうぎゅうと詰め込むように陳列しているのだから、余計に狭苦しさを感じてしまう。

 店内のカウンターには、いつも通り店主が膨れた腹を突き出しながら鎮座しているが、本日は珍しく店主の他に外国人らしき赤毛の老婆が、売り物の籐椅子に腰掛け、ちらりちらりとこちらに視線を投げかけながら一方的に店主に話しかけていた。

 最初は店主自慢の奥方だろうかと推した金盛だったが、その推測はすぐに金盛自身により否定された。伴侶相手にしては、受け答えする店主の態度がやけによそよそしいし、何よりも皺だらけの老婆と、ようやく老域に差し掛かったばかりの店主では年齢差があり過ぎる。恐らく老婆は奥方の母親か親類なのだろう。

「ああっ」

 気を取り直し店内に目を向けた金盛は、驚嘆の声を上げた。

 半月ほど前に入荷して以来、目を付けていた手動式シュレッダーが消え失せていたのである。

 先客に買われてしまったのは間違いない。

 家庭用にしてはやたらと大きいサイズで、投入口の幅も大きく、大型封筒すら易々と入りそうなわりに、手回し式なので料金も手ごろだった掘り出し物だけに、金盛以外にも目を付けた客がいたのだろう。

 昨日までは確かに商品棚に置かれていたのだから、まさにひと足違いだった。

 もちろん、狙いはシュレッダーだけではないのだが、一番のお目当て品だったこともまた事実なのである。

 電家量販店のようにカードで購入すれば、即日で自分のものになっていたのだろうが、リサイクルショップ「アマーレ」ではクレジットカードも電子マネーも使えない。

 古物商はクレジットカードが使えないところが一般的ですよ、と店主から説明を受けたことがあったが、本当のところはクレジット会社との契約は店側の損になるからではないかと、金盛は邪推している。

 また「アマーレ」のカウンターには現金一括、取り置き不可という規則を記したボードが貼り付けられているので、どうにも文句のつけようがない。

「ちょっと、良いですかね?」

 ただの空間となり果てた棚を呆然と眺めていた金盛に声を掛けてきたのは、疎らになった毛髪を撫でつけることで誤魔化そうとしている「アマーレ」の店主だった。

「何か?」

「私の叔母が、貴方に尋ねたいことがあるそうなんですよ」

 初老の店主が指さすその先で、当椅子に腰かけたままにこやかに手を振る赤毛の老婆。

「僕、英語はあまり得意じゃありませんよ?」

「ご心配なく。叔母は、儂の女房より日本語が堪能ですよ」

 言われてみれば、カウンターで店主に話しかけていた時に使っていたのは日本語だったような気もするが、金盛の懸念はそれだけではない。

 規則違反が認められないとはいえ、顔馴染みとなった店主と常連客の間柄である。

 金盛が恐る恐るカウンターへ向かうと、皺だらけの老婆は、鳶色の瞳を中央に据えた目を細め、初対面の客を店主の椅子に座るよう促した。

「あんた」

 椅子に腰かけた金盛の顔をじろじろと眺めてから開かれた老婆の口から流れ出てきたのは、間違いなく日本語だった。

「裕福になりたくはないかね?」

「そりゃあ、もちろん」

 流暢な日本語だなと感心したのは、即答してからである。

 金盛にしてみれば、自分の半生における負の面は、軒並み貧困が原因であると断定することに、なんら違和感は無い。

 金。ああ、金!

 詐欺に引っ掛かり会社を潰した父を恨んだところで、今さらどうにもならぬことぐらいは金盛も重々理解してはいるが、己の過去を振り返り、あの時の自分に幾ばくかの金があればと悔しい思いをしたことは、一度や二度どころか、両手の指を合わせたとしてもまだ数え足りない。

「それじゃあね」

 金盛の返答を聞いた老婆は、満足げに頷いてから、背を丸めたまま当椅子から立ち上がり、隠れるようにその背面に回り込み、膝を曲げて屈んだ。

 それに合わせるかのように、「アマーレ」店内の奥で重い扉を軋ませながら開ける音が、金盛の耳朶に飛び込んできた。恐らくは、店主がシュレッダーに代わる商品を倉庫から運んできたのだろう。

「こいつをあんたに任せるよ」

 再び籐椅子の前に戻ってきた老婆が、両手で抱えていたもの。

 箱。

 コンビニエンスストアなどでたまに見かける、福引用の抽選箱をキャリーバッグ並みに大きくしたかのようなプラスチック製の箱の上部には、子供の頭程度なら裕に入りそうな穴が開いている。

「福引ですか?」

 金盛は、少し拍子抜けした。

 なんのことはない。有料福引のキャッチセールスみたいなものである。

 お目当ての品が売り切れ落胆する客に、無駄金を使わせようという魂胆なのだろう。

 当然、金盛にはそんな無駄金を浪費する余裕など、雀の涙ほどもありはしない。

 しかし金盛の問いに対し、老婆は真顔で赤毛頭を左右に振った。

「手なんぞ入れたら突っつかれるぞ」

「突っつかれる?」

 何に突っつかれるのかと問う前に、それは穴からひょこんと顔を出した。

「わっ」

 深緋こきあけ鶏冠とさか肉垂にくすい、そして黄色い嘴以外は、光沢を帯びた漆黒の羽一色に包まれた、屈強な雄鶏。

 それは、生まれて初めて箱から出てきたかのように、きょろきょろと首を忙しなく動かし、店内と老婆、そして金盛の顔を珍しそうに窺う。

 金盛は、またしても落胆した。

 任せると言うからには、何か価値があるものなのだろう。まさか金そのものではないだろうが、金盛の利になるものではないかと密かに期待していただけに、雄鶏一羽と知った直後の期待外れ感は大きい。

 おまけに雄鶏である。これが雌鶏ならば卵を産むのだから飼育するのもやぶさかではないが、雄鶏一羽では番にもならず、朝に近所迷惑な鳴き声を上げるだけでしかない。

「これっ」

 悪戯っ子を躾けるかのように、鶏冠を平手で軽く叩く老婆。

 叩かれた雄鶏は、ぱっと箱の中へと頭を引っ込めた。

「鶏……ですか」

「そう見えたのかい?」

 他の何に見えるというのか。

「この子はね、鶏なんかじゃないんだ」

 どこをどう見ても、黒羽の雄鶏じゃないですか。

 そう問い詰めようとした金盛だが、彼が声を発するより先に異変が起きた。

「その通り」

 箱を抱えた老婆の声ではない。

「聞いたかい、今の声」

 改めて耳にした老婆のしゃがれ声とも違う、滑舌の良い透き通った男の声。

「この子はね、鶏にも猫にも化ける竜、アイトワラスだよ」

「アイトワラス?」

 どうかしている。

 確かに日本なら黒羽の雄鶏は珍しがられるだろうが、それを竜などと紹介するのは馬鹿げた話である。

 この外国人は、流暢な日本語を話すものの、日本人は無知で扱いやすいと見下し、竜などという空想上の動物が実在すると吹き込み、からかっているのだろうか。

 シュレッダーが置かれていた場所に灯油ストーブを置こうとしている店主の方へと顔を向けると、金盛の視線に気づいた店主は、顔をこちらに向けてから人差し指をこめかみの辺りでクルクルと回してから、済まなそうな笑みを浮かべて肩を竦める。

(ああ、そうか)

 そのゼスチャーで、金盛は納得した。

 どうやら、老婆の奇行に付き合ってもらいたいらしい。

 箱の中から聞こえたと思い込んでいた声の正体も、老婆の腹話術か何かなのだろう。

「この子はね、飼い主と認めた相手を裕福にしてくれるんだよ」

 そういうことかと一旦納得してしまえば、話は早い。

 老婆にしてみれば、善意で行っているつもりなのだろう。

 ここは調子を合わせながら、速やかに退散するに限る。

「裕福ですか」

「そうだよ。あんただって裕福になりたいだろう?」

「代償は僕の魂かな?」

 金盛としては、遠回しに悪魔との取引を持ち出し皮肉ったつもりだったが、それに対して答えた老婆の表情は強張っていた。

「魂なんて、とんでもない。この子が欲しがっているのは、もっと直接的なもの……そう、オムレツさ」

「オ、オムレツ?」

 思わず頓狂な声を上げる金盛。

 魂から、大きく格下げされたものである。

「オムレツって、あの卵料理のオムレツ?」

「そうさ。アイトワラスはオムレツが大好物なんだ。だから飼い主を裕福にして、お礼に毎日お手製のオムレツを平らげる。お互いに損をしない、素晴らしい取引だと思わないかい?」

「はははっ」

 金盛は弾けるように笑った。

 発想が違う。相手を裕福にするなどと悪魔的な取引を持ち掛けておいて、その代償が卵料理のオムレツとは!

 実在するなら、かなりメルヘンチックな竜に違いない。実在するならば、だが。

 しかし。

「雄鶏が卵料理を食べたんじゃ、共食いになりませんかね?」

 からかう腹積もりは無いものの、不意に胸中に湧いた疑問がつい口に出てしまった。

 その質問に対し、しかし老婆は赤毛頭を左右に振ってから深いため息をついた。

「あんた、血の巡りが悪いねぇ」

「は?」

「アイトワラスは雄鶏にも猫にも化けると言っただろう?」

「はあ」

「だからね、オムレツを食べる時のアイトワラスは猫に化けるのさ。猫の姿なら、共食いにはならないだろう?」

 老婆が説明し終えると、それに合わせるかのように箱の中からニャアという猫の鳴き声が聞こえた。

 まさか、箱の中に雄鶏と猫を入れているのか。

 それでお互いおとなしくしているものなのかと驚きながらも訝しむ金盛だったが、すぐに考えを改めた。箱に入っているのは黒羽の雄鶏だけで猫は入っておらず、たった今聞こえた鳴き声も老婆の腹話術によるものなのだろう。

 とはいえ、オムレツを食べる猫の話も、金盛は耳にしたことがないのだが。

「成程」

 老婆の説明に納得した素振りは見せたものの、金盛としては未だに合点がいかない。

 金盛相手に大道芸を披露して、一体老婆は何をしたいのだろうか。

 雄鶏を引き取ってもらいたいのであれば、金盛よりも適した引き取り手がいるだろう。

 いや、それ以前に疑問視すべき点がある。

「つまり、アイトワラスという雄鶏は、オムレツを与えて飼い慣らしていれば、飼い主を裕福にしてくれるというわけですね?」

「竜だと言っておるじゃろう」

「どちらでも構いませんよ。それじゃあ、貴方もアイトワラスのお陰で裕福になれたとおっしゃるわけですね?」

 金盛の質問に、老婆はトウモロコシのような黄色い歯を見せながら笑った。

「裕福でなければ、思い立っただけでこんな辺境の地まで足を伸ばすなどという贅沢は出来ぬわい」

「辺境の地、ですか」

 言い方に棘があるものの、確かに贅沢には違いない。

 金盛は――海外はもちろん国内ですら――修学旅行や出張以外で旅行したことなど一度も無い。当然、旅行するだけの金が無いというのが理由である。

「ついでに言うと、この店が商売を続けていられるのも、私が事あるごとに金を出しているからじゃ。そうでなければ、こんなちっぽけな古物商など、とっくの昔に潰れておるわい」

 笑いながら首を傾ける老婆の視線の先には、苦々しい表情を浮かべている店主の姿。

 どうやら、老婆が「アマーレ」に出資していることだけは事実らしい。店主が老婆を邪険にしないのも、妻の親類であることだけが理由ではないのだろう。

「そんな福の神を」

「福の神?」

「えっと」

 知らない人に、それまでは常識と思い込んでいた概念を一から説明するのは骨が折れる。

「幸福を授けてくれる存在を、他人に譲り渡そうとするんですか?」

「それはな」

 老婆は、箱の側面をポンポンと軽く叩いた。

「確かに私は、アイトワラスのお陰で裕福な人生を送っているが、寿命だけはどうにもならん。亭主はとっくの昔に天に召されておるし、私もそろそろお迎えが来そうな気配がある。私の死後に、このアイトワラスの引き取り手がいない、つまりオムレツを与えてくれる者がいないというのは、この子が不憫ふびんと思うてな。残り少ない余生を豊かに過ごせる程度の蓄えは残っておるので、まだ身体が動かせる今のうちに、アイトワラス自身が認めた相手に委ねようと考えたのじゃよ」

 福を授けてくれる存在のわりに、扱いは犬猫並みである。

「アイトワラスが認めた相手が、僕ですか?」

 金盛が「アマーレ」に入店してからやったことといえば、お目当ての大型シュレッダーが売り切れてしまったと知り、落ち込んだぐらいである。

 金盛のどこを見て認めたというのか、当の金盛自身にもさっぱり見当がつかない。

「まあ、それはアイトワラスに直接尋ねればよろしい」

 老婆の腹話術で、喋っているように見せかけているだけの雄鶏に、一体何を尋ねろというのか。

「それで、どうだい。アイトワラスを任せても良いかね?」

 老婆の問いに、金盛はしばし逡巡した。

 過程はどうであれ、ペットを飼うのは長年の夢の一つであることに間違いはない。

 それに鶏ならば、野菜くずを餌として与えていれば、餌代も安く済むかもしれない。

「わかりました。引き取りましょう」

「うむ。アイトワラスについて、何か聞いておきたいことはあるかのう?」

「朝に鳴かないよう躾けることって、出来ますかね?」

「鶏ではない」

「闘鶏に参加させたりとかは」

「違うというのに」



 八畳一間にバス・トイレ付き。

 同世代の社会人にとっては狭苦しく不便な住居なのかもしれないが、引っ越してきた当時の金盛にとっては常若とこわかの国、桃源郷にも等しかった。

 なにしろ風呂もトイレも好きな時に好きなだけ入り放題、全ては自分のために自由に使えるし、ひと部屋まるごとが金盛満ただ一人のためだけに存在するのだ。

 幼少の頃から自立するまで、六畳二間に四人暮らしを続けていたのだから、格段の違いである。

 もっとも、そう思っていたのは先日までの話であって、同い年の同僚が結婚しローンでマンションを買ったと聞いた辺りで、この居住環境に対して不満を持つようになった。

 それでもマンションに手を出す度胸と経済的余裕に欠け、次のステップに踏み出せずにいる金盛は、今日も外装が青一色に染め上げられた自宅に帰還した。

「ふぅ」

 出迎えてくれる人もいない玄関口で、業務の疲労とシュレッダーを購入できなかった失望感とがない交ぜになった溜め息をつきながら、金盛はまず両手に抱えていた箱を、次いで通勤用の鞄を床の上に置いた。「アマーレ」からここまで両手で抱えていたアイトワラス入りの箱は馬鹿に軽く、本当に雄鶏一羽が入っているのだろうか、実は箱の中身は空なのではないかと疑いたくなってしまうほどである。

 上部の穴から件の雄鶏が逃げ出さぬよう監視しながら私服に着替えた金盛は、覆い被さるように箱の中身を覗き込もうとして、すぐに頭を引っ込めた。

 うっかり顔を近づけて目玉を突かれては、たまったものではない。

 防災用の非常袋から取り出した懐中電灯で箱の中身を照らしてみたものの、中で蠢く影は見当たらず。箱の側面を軽く叩き、さらに前後に揺すってみたものの、内部からはまるで反応が無い。

 まさかと動揺し、箱の縁に手を掛け強く引く金盛。

 バリバリという音を立てながら、繋ぎ目から引き裂かれバラバラになったプラスチック箱の中身は、金盛の懸念通りもぬけの殻だった。

 逃げたのか。しかし、いつの間に。

 老婆から受け取り「アマーレ」を出るまでの間、箱はずっと金盛が両手で抱えていた。脱け出すための逃げ道は上方に空いている穴しか存在せず、そこさえ監視し続けていれば脱走を見逃すことなど有りうるはずがない。

 それとも、老婆から受け取った時点で箱の中身は空だったのか。

「こっちだ、こっち」

 質の悪いジョークとしてなら、あり得る悪戯かもしれないと考える金盛の背中に掛けられた声。

 ぱっと上半身を捻り背後を顧みたものの、金盛の視界に映るのは玄関のみ。

 いや。いた。

 視線を僅かに下げると、床の上にちょこんと腰を下ろし、首をくいと上げてこちらを見ているのは一匹の雄猫。

 どこからどう見ても、只の青猫。

 しっかりと手入れされた艶やかな青毛。

 その色と毛並みのせいか、ずんぐりとした印象があるものの、まるでこちらをからかうかのように金盛の周りをぐるぐると回ってみせるその足取りは軽やかなもの。

 つまり、やはり只の猫にしか見えないのである。

「猫?」

「見た目はな」

 口をぺちゃぺちゃと動かしたのは目の前の青猫だが、聞こえてきたのは紛れもない成人男性の、歯切れの良い闊達な日本語である。

「改めて挨拶しよう。我が名はアイトワラス」

 どこからどう見ても只の青猫なのだが、人間の言葉を発音するには不向きなはずの口蓋と舌先から発せられているのは、間違いなく人間が使う言語。

 腹話術を使っていたと思われる「アマーレ」の老婆は、ここにはいない。

「え……どうして?」

「背広をハンガーに掛けた時、一瞬だけ意識をそちらに向けただろう。その隙を見逃すような吾輩ではないのだよ」

 金盛が気づかぬうちに箱から脱出した手口については理解したが、首を傾げている理由はそれではない。

「猫が、しゃべった?」

「猫ではない」

 老婆が箱を抱えていた時は、彼女が腹話術を使っているのだろうと勝手に推理し納得していたので、さほどの驚きには繋がらなかった。

 今、ここには金盛の他には誰もいない。

 録音だとしても、金盛の質問を予想しタイミングを合わせて答えを吹き込むなど、ほぼ不可能である。目の前の猫に首輪は付いておらず、顎の下に超小型のスピーカーが隠されているのではないかとも勘繰ったが、スピーカーの声に合わせて猫が口を動かしてくれるなどと期待する馬鹿はいない。

 だから、これはトリックではない。

 本物なのだ。

「わっ!」

 現実を受け入れるしかないという結論が、たちまち衝撃と入れ替わる。

 跳び上がらんばかりに驚いた金盛の悲鳴に、猫もまた青い毛を逆立てて跳び上がった。

「どうした若人わこうど

「ど、どうしたって、お前」

 それ以上は言葉が続かず、金盛はじっと青猫を凝視した。

 オッドアイと呼ばれているやつなのだろう。右眼が金に、左眼が青に輝く青猫は、金盛が不意に上げた悲鳴に面食らっている様子だった。

「なんで猫がしゃべってるんだよ」

「猫ではないと言っておろう。吾輩はアイトワラス。人間に裕福を授ける竜である」

「竜?」

 深呼吸を繰り返し、金盛は改めて竜を自称する猫、アイトワラスを注視した。

「猫だろう」

「猫の姿に化けているだけだ。フランス産の微笑み猫、シャルトリューという描種だ。本来の竜の姿に戻ることもできるが、吾輩が今ここで竜の本性を曝け出したら、こんなオンボロ小屋などたちまち潰れてしまうぞ」

 夢か。

 そうだ、これは夢なのだ。猫が人の言葉をしゃべり、しかも竜を自称するなど、夢の中でしか有りえない。「アマーレ」にはまた大型シュレッダーが売れ残っていて、金盛が買い求めるのを待ちわびているに違いない。

 夢と気づいて、だいぶ気が楽になった金盛は、もう一度アイトワラスを注視した。

 金盛が落ち着くのを待っていたらしいアイトワラスは、くいと小首を傾げた。

 猫そのものにしか見えない仕草に、金盛はふと子供の頃の自分が猫を飼いたいと大騒ぎしたことを思い出した。当然ながら、当時の金盛家にはそのような経済的余裕など微塵も存在しなかったが、今ならば猫一匹くらい飼うのも不可能ではないだろう。

 夢から覚めたら、一度くらいペットショップに足を運んでみるのも悪くないだろう。

「この家は」

 ずんぐりとした青猫が口を開いた。

「客人に食事を振舞うという、もてなしの基本も知らないのかね?」

 そう言われて、金盛は自分がまだ夕食を済ませていないことを思い出した。

 してみると、現実では空腹のまま寝付いてしまったということか。

「そうか、飯がまだだったな。お前は鯖缶でいいかな?」

「オムレツだ。オムレツに決まっておろう。パーシィから何を聞いていたのかね?」

 パーシィとは「アマーレ」にいた老婆のことだろう。

「そうか、そうだったな」

 夢の中でも冷蔵庫の中身は変わらないあたりが、いかにも金盛の夢らしい。

 割った卵をボウルに入れ、牛乳に砂糖と塩、それにコショウを入れてかき混ぜ、熱してからバターを多めにひいたフライパンに流し込む。

 卵が固まらないうちにオムレツをひっくり返し、手早く皿に盛る。

 ケチャップをかけたオムレツを差し出されたアイトワラスは、ひくひくと鼻を動かした。

「なんだ、只のプレーンオムレツか」

「具入りのオムレツが喰いたかったら、俺を裕福にしてみせろよ。今の俺には、急な来客へのオムレツに具を入れる余裕なんて無いんだから」

 食べもせずに悪態をつくアイトワラスに悪態を返してから、金盛は自分の夕飯に取り掛かる。

 金盛が学生時代のアルバイト先として調理関係を選んだのは、いわゆる「まかない飯」で食費が浮くという点と、レシピを習得しておけば自炊でも美味い飯を作れるという点――ついでに万が一会社をくびになったとしても、調理の仕事で食い繋いでいけるだろうという目論見からである。その腹積もりがしっかりしていただけに、特に洋食屋で働いていた期間に鍛え上げられた料理の腕前は中々のものだと自負しているが、一人暮らしの貧乏性であるがために、その腕前を誰かに披露する機会には恵まれていない。

 金盛が二つ目の皿にオムライスを盛った時には、アイトワラスは既に自分のオムレツを平らげていた。

「ふむ。高級レストランのオムレツには劣るが、中々のものだった」

 名残惜しそうに口の周りを舌でぺちゃぺちゃと舐めながら、満足そうな声で鳴くアイトワラス。

「褒めてくれてありがとうよ。しかしレストランの方が上だというなら、レストランのペットになればいいだろうに」

「猫を店内で自由にさせるレストランが、この世に存在すると思うかね?」

 収益度外視、完全に店主の趣味を優先させている店ならば、或いは存在するかもしれないが、それが何処に在るかまでは金盛も知らない。

「それに、一流レストランのシェフや料理名人を裕福にしたくはないのだよ。彼らは裕福になると仕事を放り出し、オムレツを作らなくなる。稀に、料理を作り続けることこそが裕福であると考えて生きる者もいるにはいるが、そういう傑物は既に裕福であり、吾輩が介入する余地が無い」

「そういう奴は、世間では変わり者と呼ばれるんだ」

 言いながら、金盛は自分のオムライスにフォークを突き刺した。

「そっちには具が入っているじゃないか」

「今朝の残り飯だよ。最初からオムライス用に取っておいたんだ。それに、似ているかもしれんがオムレツじゃないぞ。天丼と天ぷら盛り合わせぐらい、違う」

「その例えは良くわからんが」

 アイトワラスは、オムライスを珍しそうに眺めながら言葉を続けた。

「そのオムライスやプレーンオムレツ以外に、作れるオムレツのレシピはあるかね?」

「そうだな……スペイン風オムレツ、チーズ入りオムレツ、茸と野菜入りオムレツ、ツナを入れた和風あんかけオムレツ、じゃがいもとコンビーフ入りオムレツ。それにオムレツじゃないが、イチゴやバナナと生クリームを入れたオムレットも作れるな」

「良いな、良いな」

 アイトワラスは、目を細めながら何度も舌なめずりする。

 丸顔にこの仕草は、微笑んでいるように見える。

「それで、結局お前は何なんだ。猫なのか雄鶏なのか、はっきりしてくれ」

「どちらでもない。吾輩は竜のアイトワラスだ」

「だから、竜って何なんだよ」

「竜は竜、としか答えようが無いな。人間が、脊索せきさく動物門哺乳綱霊長目ヒト科ヒト属です、などと自己紹介するかね?」

 夢の中とはいえ、おかしな問答である。

「俺を裕福にしてくれるそうだが」

「その通り」

 誇らしげにひと鳴きしてから、アイトワラスはその図体に似つかわしくない身軽さで、ひらりとちゃぶ台の上に飛び乗った。

「吾輩の本質は、契約を交わした人間を裕福にし、その見返りとして得た手作りのオムレツを平らげるところにある」

「そこまでオムレツが好きかい」

「生き甲斐だ。しかし吾輩の手では、オムレツが作れないのだ」

 竜を自称する猫にも、意外な欠点があったものである。

「それ故に、吾輩は人間にオムレツを作らせるのだ」

「その見返りとしての、裕福か」

「左様。若人、汝の名は?」

「金盛満。なあ、本当に俺を裕福にしてくれるんだろうな?」

「そのために、まず確認しておきたいことがある」

 それまでちゃぶ台の上をうろうろと歩き回っていたアイトワラスは、おもむろに金盛の正面に座り込み、金と青の瞳で彼の顔を見据えた。

「金盛満。汝にとっての裕福とは?」

「金だ」

 即答した金盛には、戸惑いも躊躇いもない。

 自分の人生に欠けていたものは、何より金であると信じて疑わない。

「ならば、望みは金……財宝か」

「それでもいい」

 財宝だって、換金すれば金に変わる。

「了解した。それでは誓約書を作成するとしよう。紙と筆はあるかね?」

 いかに金が無い、金が無いと喚いている金盛でも、さすがにレポート用紙と筆記用具、それにノートパソコンぐらいは持っている。

 その代わり、テレビは持っていないのだが。

「ほれ」

 差し出した万年筆を口で咥えるだろうという金盛の予想を裏切り、軸に己の尻尾を巻き付けたアイトワラスは、そのまま見慣れぬ言語で二十行以上にわたる文章を書き綴り、次いでその下に日本語訳らしい文章を書き連ねた。

「読めばわかるだろうが、説明しよう。誓約内容としては、飼い主である金盛満、つまり君は毎日欠かさず朝にはプレーンオムレツを、晩には日替わりで様々な種類のオムレツを作り、吾輩に供すること……おっと」

 何か思い出したらしく、アイトワラスは書面の二か所に一文を付け加えた。

「一部訂正だ。朝には美味しいプレーンオムレツと、晩には日替わりで様々な種類の美味しいオムレツを作り、吾輩に供すること。そしてオムレツを供され続けている間は、吾輩アイトワラスは如何なる手段を用いても金盛満に裕福の根源、即ち富を与え続けることを誓い合う。何か、質問はあるかな?」

「朝はともかく、晩の日替わりは時間が難しい。作れと言われれば作るけど、残業で帰って来るのが遅れる日もある。そういう時はどうなるんだ?」

「ふむ」

 アイトワラスはひと声鳴いてから、さらに書面に文章を追記した。

「晩とは、その日の陽が沈んでから日付が変わるまでの間とする。これで構わんかね?」

「それなら、まあ」

「決定だ。それじゃあ、ここにサインしてくれ」

 言われるがままに、アイトワラスから受け取った万年筆で誓約書にサインする金盛。

 それを見届けたアイトワラスが尻尾で誓約書をひと叩きした途端、一枚の紙面はたちまち灰の塊と化した。

「おいおい。せっかくサインした誓約書を消しちまって、どうするんだよ」

「心配いらん。我々にとって、紙切れに綴った文章とサインなど、実はたいした意味を持たない。そこに書かれていた内容を理解し受け容れたと、誓約者の魂に間違いなく刻み込まれたかどうかが重要なのだよ」

 アイトワラスの返答に、金盛はある種の異様な引っ掛かりを感じた。

「魂か……まるで悪魔と取引したような気分だぜ」

「まあ、似たようなものだ。吾輩も悪魔も、決して誓約内容を違えるような真似はしない。そのうえで誓約書にサインするか否かは、誓約するチャンスを得た人間自身の判断に委ねているのだからな」

「チャンスを得た人間自身の判断、ね」

 金盛には、迷いも後悔も無い。金を欲しがるのは社会人として当然の権利であり、だからこそ労働に勤しみ給与を得ているのである。

「まあ、吾輩に任せておきたまえ。明日の朝、目が覚めた時点で世界が変わっていることを保証しよう」

 アイトワラスは目を細め、耳まで裂けた口を僅かに開けた。

 その表情は、まるで微笑んでいるようにも見える。

「まあ、せいぜい頑張ってくれ」

 熱いシャワーを浴びようと立ち上がった金盛は、大きな欠伸をした。

 どうやら、夢の中でも眠くなるものらしい。



 夢から覚めた金盛は、今までと変わらないアパートの一室、使い慣れてしまった煎餅布団から身を起こし、窓から外を眺めた。

 何も変わらない。世界に変化が起こったようには見えない。

 アラブの石油王に生まれ変わったわけでもないし、異世界の大富豪に転生したわけでもない。

 昨晩はあれだけ自信満々に語っていた青猫アイトワラスの姿も見当たらず、独りきりの空間に一抹の寂寥感を覚えないわけでもない。

 やはり、夢か。

 現実が、そう簡単に変わるわけがないのだ。

 ふと、可燃ごみの回収日は毎週土曜、つまり今日だということを金盛は思い出した。確か、プラスチック製品やその梱包ケースは可燃ごみ扱いになるはずだから、朝のうちに他のごみと一緒に出さなければならないだろう。

 そこまで考えて、まだ寝ぼけているなと金盛は自嘲した。アイトワラスが入っていた箱の破片を、シャワーを浴びる前に片づけたのは、夢の中での話である。

 会社の休業日でもある土曜日は普段と何ら変わるところはなく、ラジオを付ければいつも通りの番組が流れ、玄関の新聞受けにはいつも通りの朝刊が差し込まれている。

 やはり、アイトワラスは夢の中に限られた存在でしかなかったのだ。

 壁の如く目の前にどんと積み上げられた札束を夢想していた金盛は、ふっと自虐めいたため息を漏らした。自分の切実な願望が、あのような夢を見せたのかもしれない。

 今日も未来も、何も変わりはしないのだ。

 気を取り直し、いつも通りインスタントコーヒーを飲むための湯を沸かそうと、ヤカンに手を伸ばす金盛。

 カラン。

 音は、ヤカンの中から聞こえた。

 取っ手を握ったまま軽く振ると、カラカラと中で小石のようなものが転がる音がする。

 当然ながら、金盛にはヤカンの中に小石を入れた覚えはない。

 ヤカンの蓋を開け逆さにしてみると、中から転がり出たのは、親指の爪ぐらいはあろうかという、光り輝く紅玉ルビー

 まさか本物ではないだろう。

 何故、こんなものがヤカンの中に入っていたのか。

 独り暮らしの金盛に覚えが無いのだから、入っているはずがない。

 それとも、金盛が「アマーレ」で青猫を引き取ったところまでは現実で、その青猫が人の言葉をしゃべったところからは夢の中の話だったのだろうか。

 そうだとすれば、これは青猫の悪戯という可能性もある。

 紅玉は、青猫が「アマーレ」の老婆から掠め取った物だろう。どうせ今日も「アマーレ」に顔を出す予定だし、紅玉はその時にでも持ち主に返せば良い。

 こうなれば、猫の名前はアイトワラスにするしかないなと苦笑しながら、今度こそヤカンで湯を沸かした金盛はインスタントコーヒーの瓶を取り、次いで湧いたばかりの湯を注ぐ。

 残りの湯をポットに入れておこうとポットの蓋を開けたところで、底に何やら光り輝くものを見出した。

 まさかと思いながらヤカンを置き、ポットを逆さにしてみる。

 カラカラと音を立てて転がり出たのは、紅玉のような単体の石ではない。

 銀の台座にダイヤモンドを嵌め込んだ指輪。

「お気に召したかね?」

「うわっ!」

 おぼろげながらも聞き覚えのある声が、夢の中と同じように金盛の背後から耳朶じだに飛び込んできた。

 刹那に振り向いた先にちょこんと座りこんでいたのは、青猫のアイトワラス。

 間違いない。人間の言葉をしゃべっている。

 それとも、自分はまだ夢の中から抜け出せずにいるのだろうか?

「何を驚いているのだね。君とは昨晩、言葉を交わしたばかりじゃないか。それとも、あの誓約は夢の中の出来事だとでも思っていたのかね?」

 夢の中とはいえ一度体験しているせいか、驚きが少ないのが妙に悔しい。

 他にも問い質したいことは多々あるのだが、それらを脇に押し退けてから、金盛は紅玉と指輪を乗せた掌をアイトワラスに向けて突き出した。

「これ、本物か?」

「偽物だと思うかね」

 質問しているのは金盛である。

「そう思うのであれば、捨ててしまえばよろしい。吾輩は別に困らない」

「本物かと聞いているんだ」

「吾輩は宣誓したではないか、君に富を授けると」

 本物か。金額にして幾らになるのだろうか?

 そして――

「どうして、ヤカンやポットの中に入れたんだ?」

「それは後ほど説明しよう。それより、吾輩は君との約束をちゃんと果たしたのだ。今度は君が約束を果たす番ではないかね?」

「約束?」

「朝のオムレツ」

「ああ、そうか」

 アイトワラスに促され、さっそく台所でオムレツ作りに取り掛かる金盛。冷蔵庫を開けてみると、昨晩に使った分だけ卵が無くなっている。

 してみると、やはり昨晩の出来事は夢ではなかったのか。それとも、自分はまだ夢の中の住人でいるのだろうか。

 否。

 夢であれ現実であれ、これからオムレツを作らなければならないことに変わりはない。それならそれで、ちゃんと集中しなければ手元が狂い、オムレツ作りに失敗する。

 倹約家の金盛にとっては、たとえ夢の中で珍妙な猫に与えるオムレツであっても、失敗は許されない。

 前回と同じ手順でオムレツを作り、皿に乗せてから、金盛はケチャップへと伸ばしかけていた手を止めた。

「晩に食べたものとそっくりそのまま同じというのは、嫌だろう?」

「何か、あるのかね?」

「ケチャップの代わりに、市販のドミグラスソース」

「いただこう」

 肉料理を彷彿とさせる芳醇なドミグラスソースをかけたプレーンオムレツを前にして、アイトワラスは嬉しそうに目を細め舌なめずりした。

「気を利かせてくれたお礼代わりに、一つだけヒントをあげよう。君が目覚めてから今までの間に、触れているのに見つけ出していない財宝が二つある」

 片方に心当たりがあった金盛は、すぐさま冷蔵庫を開けて製氷皿を取り出した。

 一ヶ所だけ、氷の代わりに指輪が入っていた。

 製氷皿を元の位置に戻し、冷蔵庫の扉を閉めてから、金盛は改めて指輪を凝視した。台座に嵌められているのは大粒の真珠で、その周りには小粒のダイヤモンドがちりばめられている。

 残る一ヶ所は、どこか。

 まさか、金盛が寝ていた布団や枕ではないだろう。

 とっくに冷めてしまったコーヒーに口をつけた刹那、ちゃぶ台にマグカップを置いた金盛が飛び付いたのは、インスタントコーヒーの瓶。

 長めのスプーンを突っ込み、底をぐるぐると何度も掻き回すと、明らかに粉末とは異なる硬い感触。

 スプーンで掬い上げた財宝の正体は、外国の金貨だった。

「なんとも、まあ」

 嬉しさよりも、自分が暮らしている住居から出てくる財宝の数々という状況に、むしろ呆れかえってしまった金盛の腹の虫が、タイミングを合わせたかのようにグゥと鳴った。

 パックご飯とレトルトの味噌汁、目玉焼きで簡単な朝食を済ませる金盛。卵以外は全て金盛の勤め先で拝領した、新製品のサンプルである。こういうところも、金盛が食品卸売りのサラリーマンを勤め続けている理由の一つになっている。

「それにしても」

 後片付けを済ませた金盛は、アイトワラスの正面に胡坐を掻き、布巾の上に並べた宝石やアクセサリーを指さした。

「どうして、わざわざポットや製氷皿に隠したんだ。まとめてポンと枕元にでも置いてくれれば、こっちだって素直に頭を垂れて、ありがとうございますって言えたんだぜ?」

「確かに、君に富を授けると誓いはしたが、いかにして授けるか、その手段についての取り決めは行われていないはずだぞ?」

「それはそうだが」

 そもそも、そんな細かいところまで気に掛けるような人間がいるだろうか?

「それに、富を与えられる側にも必要最低限の労力を費やしてもらわなければ、割りが合わんだろう」

「それは、オムレツを作ることで相殺されるんじゃなかったか?」

「先程もそうだが、君のオムレツの供し方は、自分の食事の支度のついでにしか見えぬのだ。これでは吾輩の方が苦労しているように思える。不公平だ。その不満の解消策として思いついたのが、これだ。吾輩としては、こうして君が富を求めて部屋の中を探し回っているところを眺めるのが、非常に愉しいのだ。これからも改めるつもりは無い」

「明日もまた、同じように探し回って見つけ出さにゃならんのか」

「何を言っておるのだ」

 大きく伸びをしてから、背を丸め屈みこむアイトワラス。

「まだ四つしか見つけていないくせに。宝はまだまだ隠されているぞ。今日一日、頑張って探すことだな」

「えっ」

「心配せずともルールは設けてある。外には隠しておらん。隠したのは、あくまでも、この部屋の内部に限られておる。但し、君が自発的に外へ持ち出した場合は別だがな」

 膝を浮かせるや可燃ごみの袋に飛び付く金盛。

 竜を自称するこの性悪な青猫ならば、考えられる隠し場所である。

 案の定、プラスチックケースの破片に紛れて放り込まれていたペンダントが見つかった。すぐに気づかなければ、そのまま可燃ごみとして袋ごと捨てていただろう。

「あのなぁ」

「どうした、まだまだ隠してあるぞ」

「マジかよ」

 家宅捜査を続けながら、厄介なことになったと金盛は僅かに後悔した。

 これからは、朝起きてからすぐにゴミ箱や台所の三角コーナーの中身をあらためないと、うっかりごみを捨てることすら、ままならなくなってしまったらしい。

 アイトワラスが語っていた通り、金盛の部屋のいたるところに、宝物と呼ぶだけの価値がある数多のジュエリーが隠されていた。

 宝石がついたネックレスが四つ。ペンダントとブローチが二つずつ。

 指輪が十六。台座に小粒のダイヤモンドがちりばめられた逸品ばかりである。

 様々な国の金貨が、合わせて十二枚。

 そして単体の宝石が二十個以上である。

 おまけに流しの下と下駄箱からは金のインゴットまで出てきたし、トイレットペーパーの芯の裏側には金箔が貼りつけられていた。

 良くも悪くも徹底し過ぎである。

 最初は積極的に見つけ出そうとしていた金盛だったが、さすがにこれ以上は出てこないだろうと思って休憩に入ろうとしても、食事やトイレの最中にも金銀財宝が見つかってしまうので、休むに休めない。

「これで全部かな」

 聞こえるようにわざと大声を出してみたものの、当の青猫アイトワラスは、金盛愛用の座布団を占拠してからというもの、じっと目を閉じたまま微動だにしない。

 運が良いことに、その日の朝刊に挟まっていたチラシの中に、宝石店の売り尽くしセールの広告が入っており、割り引かれる前の基本価格が載っていた。これでジュエリーの値段については、ある程度の想定ができる。

 さらにノートパソコンを起動し、検索した宝石買い取り専門店による具体的な買い取り価格を確認する金盛。

 ジュエリーは元より、金貨の買い取り価格も一枚につき、おおよそ十万円前後と悪くない額である。

 さらに詳しく調べてみたところ、宝石単体での買い取り価格は期待してたほど高額ではないものの、数があるので総額にして五百万円は下らないだろうという概算になった。

 ジュエリーと貴金属をすべて売却できれば、一千万円を超えるかもしれない。

 しかも、これから毎日、同じようにアイトワラスが金盛に授けてくれる約束になっているのだ。

 授けられる富について、札束が降ってくるかと宝くじに当たるとか、いかにも夢の中の出来事らしい授け方を期待していた金盛だが、これはこれで心躍るやり方である。

 唯一の懸念は、買い取ってもらう際にトラブルが生じるかもしれないことくらいだろう。

 見つけ出した財宝のうち、指輪やネックレス、ブローチの大部分は、台座に大粒の宝珠を据え、その周囲に小粒のダイヤモンドをちりばめているか、あるいは一つのテーマを具象化した台座に同サイズの宝石を敷き詰めたデザインの品である。

 ジュエリーの一つ、サファイアらしきペンダントを手に取り、玩具のように弄ぶ。この一品だけで二十万円は下らないというのだから、返済と仕送りのためにあくせくと働いている金盛にとっては、笑いが止まらない話である。 

 金盛の指先がペンダントの台座に強く触れた。どうやら、その部分が押しボタンか留め金になっていたらしく、サファイアを抱えた台座が大きく跳ね上がった。

 いわゆるロケットペンダントだったようだが、その中身をちらりと覗き見た金盛は、あっと声を上げて凍りついた。

 ロケットの中に収められていた写真には、生まれたばかりの赤ん坊を抱き慈母の如き優しい笑みを浮かべている女性が映っている。

 ロケットの蓋の裏には、「二十年後も変わらぬ愛を、亡き妻と娘に」と刻まれていた。

 このペンダントは、個人の所有物なのだ。

 それも、大事な思い出の品に違いない。

「あ、アイトワラス!」

 眠っているところを起こし、機嫌を損ねてはいけないと、今まで声を掛けることすら慮っていた金盛だが、もはや暢気に構えてはいられない。

「どうしたんだね」

 大きな欠伸をしてから立ち上がったアイトワラスの眼前に、タオルの上に並べられた五十品以上の金銀財宝を突き付けた金盛は、唸るような声を上げた。

「まさか、これ、盗品じゃあるまいな?」

 きょとんとしながら、アイトワラスはさも当然とばかりに答える。

「盗んできたのだが、何か問題でも?」

 冗談ではない。

「盗品だとは聞いてないぞ」

「盗んできましたと、いちいち言えとは決められてなかったぞ」

 目を吊り上げた金盛に対し、クイと顎を上げて反論するアイトワラス。

「心配いらんよ。吾輩が失敬した富のほとんどは、個人の所有物だ。急に消えたとしても、持ち主は自分がどこかに置き忘れたか、あるいは自邸のどこかに隠れていると信じ込んでいるであろう。まあ、それらしい店に忍び込んで頂戴したものも、無きにしも非ずではあるが……なに、連中が吾輩の存在を否定し続ける限り、決定的な証拠は挙げられぬよ。猫がガラスのショーウィンドウをすり抜け宝物を咥えたまま逃げ去りました、なんて馬鹿げた話を信用する時代でもあるまい?」

「犯罪行為は問題外に決まっているだろ!」

「そんな取り決めをした覚えは無い。吾輩の契約内容と宣誓した内容は、あくまでも手作りのオムレツと引き換えに、君に望み通りの裕福を授けることであって、その手段についての制限は設けられてはいない」

「法や常識というものがあるだろうよ」

「そんなものは、人間がコミュニティという狭い箱庭の中で築き上げた概念に過ぎない。竜である吾輩、アイトワラスには適用されぬ。なんらはばかるところはない」

「俺が憚るんだよ!」

 金盛の半生は、確かに貧しかった。

 しかしそれは経済的、金銭的な貧しさである。盗みや強盗、そして詐欺のような不法行為を働くような真似だけは行わなかった。

 金盛の家庭が貧困のどん底に落ち苦しんでいたのは、父が会社の運営に失敗したからであるが、さらに原因を追究するならば、会社を立ち上げて早々に詐欺に引っ掛かったからである。

 それだけに金盛家は犯罪に敏感で、特に人を騙して金品をせしめる真似だけは、徹底的に嫌悪された。

 逆に言えば、経済的に困窮しても盗みを働くところまでは追い詰められておらず、貧しい生活でも犯罪を嫌悪し、同時にまだそこまで追い詰められてはいないのだと自らに言い聞かせることで、最後の誇りを保ち続けてきたようなものである。

「よいかね、若人。ショーウィンドウや自宅の引き出しに仕舞い込んでいる貴重品などというものは、高価で美しくはあっても、実はそれ以上の価値は無いのだ。せいぜいが己の見栄と自尊心を保つための小道具であって、持ち主はそれを見失ったとしても、必死になって連日にわたり探し出そうとする気概など持ち合わせてはいないのだ。たとえ探し始めたとしても早々に諦め、そのうち別のものを探しているうちにひょっこり姿を見せるだろう、ぐらいにしか思っておらぬ。ならばそれらを拝借して金銭に換えたとしても、特に困るような事態は起こるまい?」

「お前が困らなくても、受け取る側の俺が困るんだよ。他人さまから盗んでまで、金が欲しいというわけじゃないんだ。いいから、盗んできたものは全部元の場所に戻してきなさい」

「無茶を言う」

 鼻の頭をひと嘗めしてから、青猫アイトワラスは言葉を続ける。

「盗んだものを返すなどと、誓約書には書かれていなかっただろう。それに富を返そうにも、どこから持ってきたものかなど、吾輩は一々覚えてはおらんよ。何処で何を持ち出したのか一つ一つ思い出すのも面倒だし、返しに行くのはそれ以上に面倒だから、拒否させてもらう」

「お前が勝手に持ってきたんだろうが」

「富の返却は誓約に入っておらんぞ」

 それを言うなら、盗品を富として授けるという説明も、誓約には入っていない。

「お前に返すつもりが無いというのなら、俺が返すか処分するしかないのか」

 まさか、盗品をそのままアパートに隠しておくわけにもいかない。

 単体の宝石や金箔は、売るしかないだろう。持ち主の突き止めようが無い。

 インゴットもやはり売るしかないのだが、こちらは売却内容がそのまま業者から税務署に報告され課税対象となるので、確定申告の際に漏らさず記入しなければ、税務署に目をつけられてしまう。

「なあ。犯罪なんて割に合わないんだから、もっと別の方法で富を授けてくれよ」

「吾輩はアイトワラスだ。犯罪などという、人間が作り上げたちっぽけな概念に竜たる吾輩が囚われるいわれはないし、人間の法律ごときで吾輩は裁けぬ」

「飼い主の責任ってもんがあるんだよ」

「猫や雄鶏が、主人の命令に従って金銀財宝を盗み出してきた。人間の裁判とは、このような与太話を真面目に受け取って行われるものなのかね?」

 無理だろう。

 普通の猫や鶏は、そこまで賢くはない。仮に宝石を咥えたり呑み込んだりしたとしても、動物の無知が引き起こした事故、という形で処理されるに違いない。

「それに、誰かが富を得るということは、即ち誰かが富を失うということなのだよ。この世界における富の量は、常に一定なのだから。誰かが君個人に対して富を手渡しでもしない限りは、盗むか奪うかしかない。吾輩は、これでも穏便な手段を選択しておるのだよ」

「それでも、泥棒をしてまで裕福になりたいとは思わない」

 本来の所有者に知られぬまま宝石や装飾品を持ち出して売り捌くのは、不法行為である。相手に理不尽な損害を与えている以上、金盛の家庭を貧困のどん底に突き落とした詐欺師たちと、やっていることはそう変わりないのだ。

「こんなものは裕福でもなんでもない。ただの惨めな悪党だ」

 その言葉を聞いて立ち上がった青猫アイトワラスは、ひらりと台所の流しの上に飛び乗り、胡坐あぐらを掻いた金盛の顔を見下ろす。

「それでは改めて問うが……金盛満。汝にとっての裕福とは何かね?」

 金だと言いかけて、そうではない、それだけじゃないと躊躇し口をつぐんだ金盛は、頭の中で言葉を推敲しながら口を開いた。

「少なくとも、盗んだものを売りながら暮らすのは、裕福とは言えないな。いつ誰に尻尾を掴まれるか、逮捕状を手にした司法関係者が乗り込んでくるかと怯えながらの生活を、楽しいと感じる人間は、そうはいないだろう」

「吾輩は、それでも別に構わないが?」

「そりゃそうだろう。狙われるのも逮捕されるのも、お前じゃなくて俺なんだから」

 疑われず傷つかない立場の者は、なんとでも言える。気楽なものである。

「それに、この世界における富の量は決まっているとお前は言ったが、それは昔の話だろう。今は銀行の口座預金や仮想通貨、電子マネーが幅を利かせている時代だ。誰も損をしない形で財を増やす方法だって、それなりにあるんじゃないか?」

「おやおや。人のものを盗むのは犯罪行為なのに、通帳や仮想通貨の残高改竄かいざんは犯罪にならないのかね?」

「ぐっ」

 正論を返されて言葉に詰まる金盛。

「それに、いきなり根拠もなく金額が増えてしまっては、不審に思われるだろうさ。第一、こちらが正体を見せなければ、そのまま銀行や会社が改竄の被害をこうむることになる。結局のところ、それもまた誰かが損をせず君が裕福になる方法になりはしないのだよ」

「そうか。電子関係にチョッカイをかけるのが苦手というわけじゃなかったか」

「正直、それもある」

 照れ隠しのつもりか、青猫は前足で自分の耳の辺りを何度も撫でた。

「とにかく、犯罪行為が前提になるとは説明されていなかったからな。知らなかったとはいえ、盗品を売り捌いて暮らしていくような真似はできない。他の手を考えない限り、誓約は無効だ。お前にオムレツを作ってやるわけにはいかない」

 金盛の言葉に、アイトワラスは大きな目を見開いた。

「そんな無茶な。吾輩は、見ての通り君に富を授けて裕福にしたではないか」

「まだ受け取っていないだろう。これをすべて元の場所に返してきたならオムレツを作ってやるし、もっと穏便な手段で金持ちにしてくれたら、これからもオムレツを作り続けてやるよ」

「両方とも、不可能だ!」

 耳まで裂けた口を大きく開き、抗議するアイトワラス。

「先程も言った通り、吾輩は富を持ってきた場所をいちいち覚えておらぬし、宝石や装飾品のどれをどこから持ってきたかも覚えておらん。しかも吾輩は、即物的な手段でしか人間を裕福にはできぬ。これでは約束を全うできず、オムレツが食べられないではないか!」

「じゃあ、どうする?」

「……誓約は、無効になる。吾輩は、他にオムレツを作ってくれそうな人間を探し求めるしかあるまい」

 人の言葉をつぶやきき、アイトワラスは窓の方へと顔を向ける。

 大きく開かれた口から発せられた声は、しかし人のものでも猫のそれでもなかった。

 電子機器の警告音を彷彿とさせる甲高い音色が部屋中に響き渡り、誰も触れていない窓枠のクレセント錠がひとりでに動き出し、クルリと半回転した。

「待てよ」

 とぼとぼと窓の前まで移動したアイトワラスを、金盛は呼び止めた。

「どうせなら、晩飯を食ってから行け」

 振り向いて、金盛の顔を見つめながら首を傾げるアイトワラス。

「しかし、吾輩は君との約束を台無しにしたのだぞ?」

「家主が食って行けと言っているんだ。それに、日本には別れの盃という言葉がある。別れのオムレツというのも、悪くはないだろう?」

 立ち上がり台所へ向かった金盛は、冷蔵庫から最後の卵二個とピザ用ミックスチーズを取り出す。

 プレーンオムレツと同じ要領でかき混ぜた、チーズ以外の材料をフライパンに注ぎ、ある程度固まったらすぐさまチーズを放り込み、焦げつかないうちに形を整える。チーズを入れるタイミングが非常に難しく、早すぎると中のチーズが上手く溶けないし、遅すぎるとそれに加えてオムレツに焦げ目がついてしまう。

 慣れているはずの金盛でも、三回に一回は失敗してしまう料理である。

 今回は上手くいったと上機嫌になりながら、粗挽きコショウをふりかけたチーズ入りオムレツを皿に乗せ、アイトワラスの前に差し出す。

「さあ、冷めないうちに召し上がれ、だ」

「すまない」

 金盛を裕福にするという約束を果たせなかった負い目もあるのだろう。

 急にしおらしくなったアイトワラスは、金盛にペコリと一礼してからチーズ入りオムレツを食べ始める。

「チーズ入りか……これは」

 ひと言つぶやいてから、まるで干物を貪る猫のように、一心不乱にオムレツを食べ続けるアイトワラス。

 皿を空にしてからも、青猫は名残惜しそうに口の周りを舌でぺろぺろと嘗め回す。

「美味かった。やはり料理名人の作るオムレツは珠玉の御馳走なのだと、吾輩は改めて実感したよ。新鮮な喜びだ」

「それは良かった」

「こんなに美味いオムレツを二度と味わえないのは、残念だ」

 金盛もまた、名残惜しさはあった。自分の手料理を誰かに振舞うのも、その腕前を褒めてもらったのも、久しぶりの体験である。

「多分、やり方が不味かったんだと思うよ。俺は確かに富を欲したけれど、他人を不幸に陥れてまで求めてはいなかった。俺にとって、その手段で築き上げた生活は決して裕福とは言えないんだ。最初にそれを把握しておけば、ひょっとしたら、お前も盗み以外の手段を思いついたかもしれない」

「裕福という概念について、しばらく吾輩なりに研究する必要があるのかもしれんな」

 もしアイトワラスが只の青猫で、宝石や金貨を盗むのではなく拾い続けていたとしたら、金盛はそれらを落とし物として警察に届けつつ、アイトワラスを猫として飼い続けていたかもしれない。

「別れの時だ」

 アイトワラスは猫の声でひと鳴きし、窓へ向かう。

 窓は、アイトワラスがチーズ入りオムレツを平らげている間に、金盛が開けておいた。 

アイトワラスが立ち去ると言っている以上、引き留めようがない。

 青猫は、ぴょいとひと跳びしてアパートの外へと躍り出た。

 それを追うように窓から身を乗り出した金盛だが、外の地面に青猫の姿は見当たらない。

 おやと思った刹那、金盛の視界が薄闇に包まれた。

 上空に浮かぶ巨大な物体が、夕暮れの陽光を遮っているのだと気づいた金盛は天を見上げ、あっと声を上げた。

 空一面を覆い尽くさんばかりの巨大な影。

 長く伸びた頸に、太く短い四肢。

 ずんぐりとした胴体から生えている、トカゲのような尻尾。

 胴の中心から左右に広がる、コウモリのそれに似た一対の翼。

 爬虫類のものと思われる鱗と腹を持った巨大な竜は、金盛のアパートどころか町内丸ごとを暗闇に変えながら、まるで夕映えのさなかに放たれた紙飛行機のように滑らかな動きで、すぅと雲の彼方へと消え去っていった。



 それから数か月が経ち、金盛の人生には大きな変化が起きていた。

 残された金銀財宝の処分に困った金盛は、黙って捨てるよりはと覚悟を決め、まず宝石やインゴットといった足がつきにくそうなものを売り払い、得た金を元に築き上げた闇ルートでジュエリーのほとんどを手離した。

 その収益は億に届くほどの額だったが、用心深い金盛は国内外の大企業の株を買えるだけ買い、それによりもたらされる多額の配当金だけで生活できるようになった。

 勤めていた会社を辞め、配当金の一部を頭金にして高級マンションを買い、働かずとも生きていける身分となった金盛は、果たして裕福になれたのであろうか。


 否。


 行楽日和の晴天続きだというのに、彼はマンションの自室に閉じこもったきり。

 快適なはずの自室には最新の家電が並び、新生活に無限の彩りを与えているものの、羽毛のように柔らかなソファにゴロリと寝転がっている金盛の意識は部屋の片隅、豪勢な室内には似つかわしくない、素朴なキャビネットに偽装した金庫に釘付けになったままである。

 金庫の中、暗証番号と個人認証装置によって封じられた鋼鉄製の扉の奥には、あの日アイトワラスが盗み出してきた、個人の所有物であるジュエリーが五点入っており、正統な持ち主の手に戻る日を今か、まだかと待ち望んでいるのだ。

 資産家となった金盛は、人を雇い盗品の本来の持ち主を探し出そうと、出来る限りの手を尽くしてはいるものの、入手した経緯が経緯だけに、返却どころか持ち主の発見に至ったことすら一度も無い。

 本来の持ち主に返してやりたいという善意よりも、とにかく一刻も早く手離して、知らなかったとはいえ窃盗を命じた過去を忘れてしまいたいという罪悪感からであったが、時が経てば経つほどに後ろめたさと焦燥感が重石のように圧し掛かってくる。

 ジュエリーの持ち主探しだけではない。

 足がつかないであろう品々を売り捌いた時も、一店舗を相手に一度に売ってしまったのでは怪しまれてしまうのではないかと用心し、何十という店に区分して売るという手段を使ったのだが、それでも買い取り先からの疑惑を免れたとは思えずにいる。

 金を得たことで、人間関係も崩れた。

 学生時代の奨学金はまとめて返済できたのだが、息子の変化を知った実家から請求されるようになった仕送りの額は倍以上に跳ね上がり、裁判を経て今は絶縁状態である。

 自室の金庫にジュエリーが存在する限り、アイトワラスのように常識が通じない泥棒が盗み出すのではないかと恐れ続け、外出中でもそれが気掛かりでろくに行楽を愉しめない。

 また泥棒でなかろうと、誰かにジュエリーの存在を感づかれてはならじと、アパートに居た頃のように友人知人を自室に招くようなことは激減し、人付き合いもめっきり減ってしまった。

 警戒するところから始まる花嫁探しなど、当然成功するはずもなく、資産家でありながら不本意な独身生活を送り続けている。

 陽が昇ろうと沈もうと気の休まらぬ生活を送り続けなければならなくなった金盛は、今日も金庫とにらめっこを続けながら、自嘲気味につぶやく。


 ああ、俺は悪魔に魂を売ってしまったのだ……と。



                                  (了)


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