不変的で惰性的なトゥルーエンドを。

doracre

不変的で惰性的なトゥルーエンドを。

 八月三十一日の夕暮れ。夏休みの終わりを告げる夕陽の熱の中。

 私の唯一の親友はこの世から居なくなった。


 [充光ミチミツゆめ 二〇〇六年八月二十五日産まれ 女性]享年、十五。


 私の青春が音を立てて崩れ去る。

 これがただの逆夢や凶夢であってほしいという私の願望は、火葬場によって灼き払われた。

 ゆめは、ひとときの終わりを夏休みと共に迎えたのだった。




 九月八日月曜日、冷えた朝日で眼を覚ます。

 デジタル時計は午前七時を示している。……少し寝坊した。

「んー……はぁ……」

 ため息混じりにからだを起こす。

「……今日も、学校か」

 頭痛や胃痛がやまないボロボロのからだで、好きだったお菓子さえも喉を通らないからだで、制服に着替えて学校に急ぐ。

 朝ごはんは、ゼリーひとつ。

 行き帰りの待ち合わせは、居ない。


枯狩カレガリさん」

「はい……」

 朝の出席確認。親友の名は呼ばれない。

「では、みなさん。今日も元気にがんばっていきましょう」

 担任の挨拶が終わると、クラス内は途端に賑やかになる。

 彼女の送別会からすでに五日が過ぎていた。目覚めの悪いように送別会に参加していた同一人物だとは思えないほど、みんなはすっきりとした面持ちになっていた。

 クラスで一番泣いていたあの女子も、初恋の相手だったんだと泣きじゃくっていたあの男子も、すでにきれいな顔をしている。

 送別会の終わり際、ゆめの分まで健康に生きていこうとクラスメイト全員で泣きながらきれいごとを宣っていたのは記憶に新しい。

 そのときのわたしには、ひとつも涙は出なかった。火葬場で枯れ切っていたから。

 それを見て、クラスの男子ひとりが一番の親友だったくせに薄情者だなとわたしをどついてきた。痛みはなかった。ゆめの死が一番の痛みだったから。

「…………」

 それが今では、目覚めのよさそうな表情をみんなして浮かべて、日々をのうのうと生きている。笑みもだんだんと戻ってきたクラスルームでただひとり、わたしだけが笑えていない。

 気分が悪くなって、教室をあとにした。


 そうだ。ゆめの死を引き摺り続けているのはわたしだけ。

 唯一の親友で、恋人とまでは言わないけれど、それに近い存在。大好きだとお互いに言い合える存在だった。

 ──。

 ──。

 ──。

 そんな約束も、今になっては呪いだ。


 保健室。気分が悪いのだから、休ませてもらおう。

「……ああ、また来たのね」

「保健室……空いてますか……」

「ええ。 早く横になっておきなさい」

 言われた通り横になって、考えごとをする。

 もしも、ゆめとの日々に戻れたとしよう。そうなったら、私はなにをしようか。

 病気の肩代わりをするつもりはない。ゆめを中途半端に励ますつもりもしない。

 ただ、ゆめの側にいて、ゆめと同じ病気に罹って、ゆめと同じ日に、ゆめの熱と共に消えてしまいたい。

 きっとそうすれば、私とゆめは一生いっしょだ。約束も果たされる。

「ちゃんと、授業にも出るのよ?」

「…………」

「……聞いてる?」

 そんな呼び掛けを無視して、愉しい空想に身を委ねる。

 甘えん坊のゆめと、自称世話焼きの私。たとえ恋仲になっていたとしても、きっと上手くいっていただろうな。

「……あら、寝てる……」

 今日分の愉しい空想はあらかた愉しみ尽くした。だから、今日はもう寝るだけだ。


 寝ていると、いつもフラッシュバックする。

 楽しかったゆめとの日々が、今際の際の走馬灯のように。

『ゆめって、小さいわよね』

『え? いきなりなんの話?』

『いや、胸とか身長とか、いろいろ』

『なっ、成長期が来てないだけだもん。うつつだって、べつに大きくないじゃん』

『ゆめよりは大きいから。それに悪く言ってるわけじゃないのよ? 抱き締めるだけで、こうやってからだに収まってくれるから』

『ひゃっ、もーやめてよー』

『でも、好きでしょ?』

『わかってるじゃん。じゃあ今日は、ずーっとこうしてなさい?』

『ふふ、ゆめさまの仰せのままに』

 ばちばち。眼の前にノイズが走って、景色が変わる。

『うわ……体重増えた……』

『また? いいなー』

『いいわけないでしょ……』

『いやいや、羨ましいよ。だって、成長期ってことでしょー? わたし、ぜんぜん来ないからさ』

『そうは言っても、そろそろ増えてくるんじゃない? 測ってみたら?』

『んー、ならいいけど』

『…………どう?』

『変わってない。……はぁ、成長期はいずこへ……』

『そのままでもかわいいじゃない。小動物みたいで』

『な、なんだと〜!』

『まあまあ、怒らないで。さ、早くお風呂入るわよ』

『あっ、こら誤魔化すなー!!』

 ざーざー。ゆめの終わりを告げる砂嵐。

 一瞬、最後に見たゆめの笑顔が私の眼に灼き付いて、ゆめの世界から放り出された。


「……ん」

「あら、おはよう。……もう放課後よ」

「そうですか。……じゃ、さようなら」

「……明日は、授業に出なさいね」

 無視して、保健室を立ち去った。


 私たちはすでに中学生。遅かれ早かれ、誰しも成長期は訪れる。

 気付くのが遅過ぎたんだ。ゆめにだって、成長期は来ていたはず。中学生の真っ盛りに、体重が増えないだなんてありえない。

 気付けたら、早く気付けたら。

「……体重、減ったなあ」

 ダイエット成功、なんて。……明日も学校だから、早くお風呂に入ろう。




 九月九日火曜日、凍える空気の中で眼が冴える。

 デジタル時計は午前七時を示している。

「……ふぁあ……」

 伸びもせずにベッドを後にする。

「……行きたくない」

 眠気がやまないボロボロのからだで、趣味のことすら憶い出せないボロボロの脳で、制服に着替えて学校に急ぐ。

 朝ごはんは、ゼリーひとつ。

 行き帰りの待ち合わせは、居ない。


 保健室に直行した。先生は居ないから、勝手に横になる。

 瞼を閉じて、ゆめのことを想い浮かべる。ふわふわとして、現世に居ないような感覚。

 すぐそこでゆめが私を見つめている、気がする。眼をひらけば、きっといる。

「おやすみ、ゆめ……」

 いっしょのお布団で寝たときみたいにゆめを呼ぶ。

 でも、眼をひらくことはせず、程なくしてゆめの世界へと堕ちて行った。


 今日もまた、フラッシュバックする。

『誕生日おめでとう! うつつ!』

『ふふ、ありがとう。今回はなにをくれるのかしら?』

『聞いて驚くなかれ! 今回は、なんと……わたしをプレゼント!』

『……ついに来るところまで来た感じね』

『さあさあ、今日はなにをご所望かな?』

『……じゃあ、いっしょにケーキ作らない?』

『おお! 初めての共同作業ってやつだね?』

『何回あるのよ。その

『いっしょに生きてけば、何度だってあるよ?』

『……それもそうね』

『でしょ? だから、わたしとうつつは死ぬまでいっしょ! たくさんの初めて、経験したいもんね〜?』

『ふふ、否定はしないわ』

 ざーざー。そんな雑音と共に愛しい夢幻が崩れ落ちる。

 ゆめの最期の顔が脳裏を掠めて、ゆめの世界の奈落に真っ逆さまに落とされた。


「……ん、ふぁ……」

 眼を擦って、周りを見渡す。誰も居ないから、そのまま保健室を後にした。

「なあっ」

「……なに?」

 保健室の前で、声を掛けられた。

 たしか、ゆめが初恋だったんだと泣いていたクラスメイトの男子。名前に興味はない。

「……あんたのこと、みんな心配してるんだ。 そろそろクラスに戻ってきてくれないか?」

「……やだよ」

「み、充光さんのことは、もう仕方ないだろう……?」

 ……ゆめへの恋心はそんなもんだったのか。失望した。

「…………あなた、ゆめが好きなんだっけ?」

「……それは」

「でもね、私はあなたの何万倍もゆめのことが好きだったから。……ここまで言えば、わかるでしょ?」

「…………」

「……じゃね」

 顔までも朧げになってきたクラスメイトを一蹴して、私は家路を急いだ。


 今夜は朝のニュース通りの熱帯夜だった。

 なかなか寝付けなくて、何度も今日のことを想い出す羽目になった。

『み、充光さんのことは、もう仕方ないだろう……?』

 あの言葉に呆れた。

 これが、片想いと両想いの差か。まるでゆめのことを理解していない。

 憧れという感情は、理解から最も遠い感情だと聞いたことがある。あのクラスメイトも所詮、ゆめに憧れていただけなんだろう。

「…………寝よう」

 頭上のエアコンを睨み付けてから、深く眼を閉じる。

 エアコンのリモコンは、未だに見つからない。いたずら好きのゆめに隠されたままだ。




 九月十日水曜日、張り付く汗が眠りを醒ます。

 瞼が重い。暗い室内が眩しい。

 ……そのまま、もう一度寝た。初めて、学校をサボることを思い付いた。


 フラッシュバック。じめじめしている。

『……ゆめ、昨日はごめんなさい』

『…………なんで怒ってるか、わかってるの?』

『……遊びの約束、すっぽかしたから……』

『……もう』

『ほんとうにごめんっ! 埋め合わせはちゃんとするわ……!』

『……それだけじゃ、だめだよ』

『えっ……?』

『謝るだけなんて、簡単でしょ? ほら、ここ』

『……え? し、しなきゃ、だめかしら……?』

『ん……たかが頬っぺただよ? ……へたれめ』

『……んっ……』

『……はいっ。これで仲直り。…………そして、これでおあいこ』

『……ありがと』

 ざーざー、ぱらぱら。騒がしい砂嵐に加えて、冷たい小雨が降っている。

 ……あの日、小雨の中でゆめは急に倒れて──

 突然、不快な高熱が脳を襲った。歪む視界と混濁する思考の中、雨の中で倒れたゆめがくれたあの心地よい熱のことを想い出した。


 起きて、体温を測った。……三十八度五分。

 八月二十五日、小雨の中で意識を失ったゆめが、病院へ運ばれた際に測られた体温と同じだった。

 なにも口にする気にはなれなかった。熱のせいか、ゆめのせいか、最近は空腹を感じない。

 暑い部屋の中、熱いからだで横になっていた。不思議と不快には感じていなかった。むしろ、気持ちいい熱だった。

 同じ体温なんだから、これでゆめの元へ行けるかもしれない。なんて、馬鹿みたいなことを考えて、眼を閉じた。


 九月十一日木曜日、熱は引いていた。

 市販の風邪薬のくせに、効き目は一丁前にあったらしい。それか、体質に合っていたのかもしれない。

 昔から、ゆめはインフルエンザなんかによくかかる一方、私は風邪を引いたことがなかった。昨日まで、三十八度以上の熱を記録したこともない。

 ……あの熱のままいっていれば、私もゆめのようにからだが悪くなって、最終的には早死にできたのだろうか。

「……今日も、行かなきゃ」

 制服とカバンを持って、家を出た。朝食は忘れた。


「ゆめ、会いに来たよ」

 墓標の前にしゃがんで、手を合わせる。

 学校には行かなかった。馬鹿らしかったから。

「……お水さ、毎日取り替えに来てほしかったりする? 毎日、新鮮な水の方がうれしいわよね……」

 物言わぬ墓標。反応くらい返してほしい。

 充光家と彫られた長方形の石に水をかける。九月の残暑の中だから、こういう水浴びも気持ちいいかもしれない。

「……ね? 私が死んだら、同じお墓に入っていいかしら? ……流石に気持ち悪い?」

 墓石の汚れを水とタオルできれいにしながら、花瓶の水を入れ替えながら、何度も何度も尋ねる。

 物言わぬ墓標。いつもみたいに反応もない。

「……あの世でも、いっしょに居てくれる?」

 持ってきたマッチで線香に火をつける。独特な匂いが辺りを充満する。

 最近、この匂いを嗅ぎ過ぎたからか、これを嗅ぐだけで気持ち悪くなる。制服にも染み付いているかもしれない。

 手で仰いで火を消してから、香炉に捧げる。そして、もう一度手を合わせた。

 親友に気付いてもらえるように長い時間、手を合わせた。

「…………中学生だから、毎日のようにお花は買えないわ。……週一で我慢して、ね?」

 そう言い残して、立ち並ぶ墓石の群れを背に帰路に着いた。


 ゆめが居なくなってから初めて、フラッシュバックのない日だった。

 しかし、それはただ、昼寝する機会がなかったせいと言えるかもしれない。

 でも、そうでなかったら?

 私の意識から、徐々にゆめが消えていっている。そういうことになってしまわないのか。

 ……今日は早く寝よう。今朝見つかったエアコンのリモコンを使い、室温を最適な温度に下げる。これで幾分か、寝やすくなっただろう。

「…………眠れない」

 ……そこで勘付いた。

 私が寝れないのは環境のせいじゃない。この寝具に染み付いた親友の残り香が、薄まってきているからだ、と。

 ゆめの存在を物語っていた要素ひとつひとつが、確実にこの世を去っていくように感じて、時期に似合わない寒気を覚えた。

「……ゆめ、ゆめ…………」

 ──?


 九月十二日金曜日、一睡もできずに夜が明けた。

 不思議と眠気はなかった。というより、このベッドで眠ることができなくなってしまった。

「……学校は、いいや」

 これで三日連続のずる休み。

 私は悪い子だ。今ここで死んでも、ゆめと同じところに行ける気がしない。

「…………あそこ、行こう」

 パジャマからは着替えて、家を後にした。


 行き着いた先は、ゆめの家。ゆめの家はいつ見ても大きい。

 ゆめのお父さんは有名大学の教授で、お母さんの方はコンクール出場経験もあるバイオリニスト。

 そんな両親の元に産まれたゆめは、それはそれは大切に育てられた。私と居るときは少しやんちゃだけれど、根本的な育ちのよさは私よりもできている。

 温厚なゆめの両親には、ゆめの一番の親友だからとよくかわいがってもらった。

 ここはもはや、第二の我が家だ。

「あら、うつつちゃん。いらっしゃい。今日は学校じゃないのね?」

「はい。……その、ゆめのお母さん。ゆめの部屋、入ってもいいですか?」

「ええ、いいわよ」

 すると、ゆめのお母さんの顔が陰る。私の顔になにか、ついているのだろうか。

「……それはいいんだけど……ねえ、大丈夫? 眼の下のクマ、ひどいよ? それに、だいぶ痩せたような……?」

 ああ、なんだ。そのことか。

「ああ、わかります……? ダイエット、成功したんですよ……」


 ゆめの部屋に入る。刹那、ゆめの香りが鼻腔をくすぐった。

 香りに先導されて、周りを見渡す。

「……なにも、変わってない」

 ゆめの誕生日会をした八月二十五日、そっくりそのまんまだ。

 今年のプレゼントはたしか、私を一日好きにしていい権利、だったはずだ。

 その権利で、私はゆめにショッピングモールや遊園地に連れて行かれて、歩くのも疲れるくらい遊び回った。

 そしてその帰り道、いきなり降ってきた小雨にゆめは具合を悪くし、そのまま意識を失ってしまった。

「……よりにもよって、どうして誕生日に……」

 積み重ねた日々の喜びが、一瞬にして崩される恐怖。あれはもう、経験したくない。

 ……いや、ゆめが居なくなってしまったのだから、経験することは二度とないだろう。

「ねえ、うつつちゃん〜? ちょっと降りてきてもらえるかしら〜?」

 絶望感を遮るように響く、ゆめのお母さんの声。

「……わかりましたー」

 待たせるのは悪いだろうと、名残惜しくもそそくさとゆめの部屋を後にした。


「うつつちゃん、よかったら食べて」

 下に降りると、ゆめのお母さんはキッチンの方で待っていた。

 テーブルの上には、おいしそうなハンバーグがあった。私のために作ってくれたらしい。

「……悪いですよ。ハンバーグなんて」

「…………ゆめのこと、気持ちはよくわかるわ。だけど、自分のからだだって大切にしなくちゃ」

 体調不良であることがバレたらしい。流石はゆめのお母さんだ。

「……すみません。いただきます」

 ひとくちサイズに切り分けて、口に運ぶ。

 溢れ出す肉汁が途端に口の中に広がる。思わず、涙まで溢れ出してしまった。

「……うつつちゃん」

「……ごめっ、なさい…………」

 ゆめの大好物、ハンバーグ。私もことあるごとにご馳走させてもらっていた。

 誕生日のお出かけの帰りも、ハンバーグをご馳走になる予定だった。

「…………ゆっくり、食べてね」

「…………は、い……」

 もう一度、ひとくちサイズに切り分けて食べる。また、切り分けて食べる。

 噛むたびに広がる肉汁のように、涙が溢れ出て止まらない。

 枯れ切ったとばかり思っていたけれど、ふとしたキッカケで涙というものは復活するらしい。

 後悔と懐かしさと愛がぐちゃぐちゃに混ざり合った気持ちの中、ただ口を動かして、ハンバーグを食べていた。


「ごちそう、さま……でした……」

「……お粗末さまでした」

 食べ終わったあとの食器を淡々と洗うゆめのお母さん。

 それらを片付け終わると、私の方を向き直って話し始めた。

「……うつつちゃん、寝てないよね?」

「…………はい」

 心が見透かされているようだ。くすぐったい。

「泣き過ぎて、疲れたでしょ? ……ゆめのベッドで、寝ていらっしゃい」

「……いいんですか?」

「ええ。しっかり、寝るのよ?」

 優しい声が耳を撫でる。あたたかい。

「…………ありがとう、ございます」

 ゆめのベッドで眠りに堕ちるのに、数分とかからなかった。


 あの日のフラッシュバック。

『今日は楽しかったわね』

『うん! お買いものに遊園地、付き合ってくれてありがとね?』

『当然よ。私がプレゼントしたのは、私を一日好きにしていい権利なんだから』

『えへへ、うれしいな。……こほ、ごほっ』

『……そういえば、さっきから咳が出てるけど、大丈夫?』

『ああ、へーきへーき。早く帰って、薬を飲めば……って、あれ……?』

『小雨、みたいね。傘もないし、急いで帰りましょ』

『そうだね………………かな……』

『え?』

『あっ、ううん。なんでもないよ。ただのひとりごとだから……』

 ばちばち、ざーざー。ノイズと雨が眼の前の景色を洗い流す。

『……はぁ、はぁ』

『ちょっと、息が荒いわよ? 大丈夫?』

『へ、平気……このくらい、どうってこと……』

『ゆっ、ゆめ! 大丈夫!?』

『ご、ごめん……急にフラッと来て……立てない、かも……』

『ま、待ってて! 今、だれか呼ぶからっ』

『…………もう、だめ、かも』

『な、なに言ってんの、まったく! ここでじっとしてるのよ? いい?』

『……待って。……ひとつ、だけ……いい、かな』

『こ、こんなときに、なにを──』

 体験したことのないやわらかさが、唇に襲ってくる。

『……え?』

『…………えへへ、ごめん。……だめかも、しれないし……最後に、しておきたく、て…………』

『……ね、ねえ、しっかりしてよ。ねえってば』

『……だいすき、だよ。……って、しってる、よね……えへへ…………』

『え? ゆ、ゆめ? ゆめ、起きてっ。眼、開けて? ねえ、ねえ、ゆめっ? ゆめっ??』

 最後に笑みを浮かべて、ゆめは眼を閉じた。

 硬く閉じられたその瞳は、八月三十一日の夕暮れを迎えるまで、ひらかれることはなかった。


 九月十二日金曜日、心地よい香りの中からようやく目醒めた。

 掛け時計は午後七時ちょうどを示している。

 下の階から、談笑する声が聞こえる。お仕事を終えたゆめのお父さんが帰ってきたのだろう。

 ずっと入り浸るのもよくない。私はそのまま、階下へ降りて行った。


「ああ、うつつくん。おはよう」

 ゆめのお父さんは、やはり居た。リビングに座って、コーヒーを嗜んだいる。

「おはようございます、ゆめのお父さん。……すいません、お部屋借りちゃって」

「はは、構わないよ。ゆめも喜ぶさ」

「……だと、いいんですけどね」

 そう応えると、ゆめのお父さんは真剣な面持ちを浮かべ、私の眼を見つめて口をひらいた。

「……ひとつ、聞いてくれるかな?」

「な、なんでしょうか……?」

「……実はね、ここを引っ越すつもりなんだ」

「えっ」

「ここのすぐ近くにマンションがあるだろう? そこにね」

 言葉が出なかった。

 それでも、この疑問だけはすぐさま口から飛び出ていった。

「……ゆめの想い出が、詰まっているのに?」

「それはわかっている。……ゆめとの想い出が詰まったこの家を手放すのは惜しい。だが、それよりもここに居ると私たちが苦しくて堪らないんだ」

 ゆめのお父さんは眼を伏せながら、続ける。

「ずっと、想い出してしまう……。我ながら、子どものようだと思うのだがね……」

 苦しそうにそう告げるゆめのお父さん。

 そういうことならば、私が止めに入ってもしょうがない。ゆめの想いが詰まった家が売りに出されてしまうのは、いささか辛いものがあるが。

「……ここからが本題なんだが、その関係で荷物の整理をしなくてはならない。そこで提案をしたい……」

 そう前置きを入れて、続ける。

「ゆめの私物、いくつかもらってくれないかい?」

「わ、私が、ですか……?」

 まさか、こんなことになろうとは。……もらっても、いいのだろうか。

「ああ。ゆめもそれを望んでいるだろうと、妻と話し合って決めたんだ。……もちろん、断ってくれても構わない」

「……そういうことなら、もらいます。というか、ください……」

「……そうか。ゆめも喜ぶよ」

 そう言って笑う、ゆめのお父さん。その笑顔が、どうしても痛々しかった。


「……なにをもらおうかな」

 いろいろなものが散乱している、ゆめの部屋。

 私があげたプレゼントは、そのままにしておこう。きっと、それがいい。

「……ん、なんだろう」

 机の上に、なにかが置いてあるのが見えた。紙のようなものと、重し代わりのなにかのようだ。

「……これ、おもちゃの指輪」

 重し代わりのなにかは、おもちゃの指輪箱だった。中には、おもちゃの指輪が入っている。

 これは、私が物心がついてから初めて渡したプレゼントだ。今の今まで大切に持っていてくれたらしい。

 これだけは、持って帰ろう。私とゆめの、始まりの想い出だから。

「……こっちのは、お手紙? ……なにかしら」

 おもちゃの指輪と箱をポケットに仕舞い、次に指輪箱で固定されていたお手紙を手に持つ。

 ゆめのことだから、私宛てだろう。勝手に読むのは気が引けるが、大切な形見かもしれない。

 意を決して、洋封筒の中から手紙を取り出した。

 二つ折りにされた薄桃色の便箋をひらいて、中身を見る。

「…………これ、って……」

 書かれた文字を最後の最後まで読む。余すことなく、読む。

 途端にひとすじの涙が頬を伝った。


『親愛なるうつつへ

お元気ですか? わたしはお元気です! 突然ですが、これはラブレターです。私も十四歳になったし、そろそろ次のステップに進みたいなって思います。というわけで、わたしとお付き合いしてください! 断るにしても、ずっと親友で居てください!! うつつのお返事、待ってます。あと、お手紙をしたためたのは、想いを伝えるのが恥ずかしかったからです。笑わないでよね?

あなたのことが一番大好きなゆめより』


「……ぐす、ゆめ、ゆめぇ…………」

 ……ゆめがここに居てこれを書いたという事実が、文章からひしひしと伝わってくる。

 そうか。ゆめ、私のことが好きだったんだ。

 それがもっと早くわかっていたら、今ここで、こんなにも後悔しないで済んだのかもしれない。

 きっと、勇気を出せば済んでいた話だ。あそこまで距離が近かったんだ。例え告白が失敗しても、険悪な仲になるわけなかったのに。

 告白したかった。告白されたかった。あの日、あんなことが起きさえしなければ。

 ああ、どうして。どうして、──?

 涙が止まらない。声を殺して、枯れるまで泣き続けた。


「……じゃあ、私はこれで」

「夜道に気をつけるんだよ」

「しっかり食べて、しっかり寝てね」

「……はい」

 ポケットの中の、指輪箱を握り締める。

 手紙は、残してきた。気持ちはちゃんと伝わったから、ここに残しておくのがいいと思った。

 それと裏面には、ゆめ宛てのお返事をしたためておいた。どうか、ゆめ以外のひとには気付かれませんように。

「……そうだ。最後にひとつ」

 ひと呼吸置いて、言い放った。

「…………お元気で」


「おかえりなさい」

「おお、うつつ。遅かったじゃないか。どこに行ってたんだい?」

 珍しい。こんな時間にお父さんが帰ってきてるなんて。

「……ゆめの家に」

「…………そうか。そろそろ夕飯だし、こっちに座ってなよ」

「うん」

 おいしい匂いがする。これは、ボロネーゼかな。

「あら。うつつ、帰ってたのね。ゆめちゃんのお母さんが心配してたわよ? あまりご飯を食べてないみたいだって」

「……今日からはちゃんと食べるよ」

 そう。から。

「それじゃあ、今日は大盛りにしてあげようか?」

「い、いいよ。そんなに食べられる方じゃないし」

「代わりに僕の分を多くしてくれよ」

 お父さんったら、強欲だ。

「……まあ、そうしておくわね」

「やった。ありがとな、うつつ」

「…………どういたしまして」

 素直とも言えるかもしれない。

「それじゃあ、いただきます」

「「いただきます」」

 今日はボロネーゼに、きゅうりとブロッコリーのサラダと、コンソメスープ。

 私の好物ばかりだ。特にコンソメスープ。

「……うん。やっぱりおいしいな」

「そりゃどうも」

「本心なんだけどなぁ」

 今日も今日とて、夫婦漫才をしている二人。仲がいいのは、いいことだ。

「うつつはどうだ? 旨いか?」

「それ、あたしが言うことじゃない?」

「だれが言ってもいいだろ? それで、どうだ?」

 コンソメスープをひとくち、啜る。

 からだの中があったかい。やっぱり、コンソメスープはおいしい。

「…………おいしいよ」

「そうか。よかったよかった」

「ちゃんとサラダも食べるのよ?」

「わかってるよ。うん」

 ……親不孝、か。

「そういや、今日は星がよく見えるらしいぞ」

「へえ、そうなの〜」

「あ、興味ないのか。うつつはどうだ?」

「…………」

 ……だめだ。それは変えられない。

「ん? どうした?」

「……なんでもないよ」

 ……私はやっぱり、親不孝だ。


「「「ごちそうさま」」」

 食べ終わった食器を台所に持っていく。

 もう、これで終わりか。

「……あっ」

「ん、うつつ? どうしたの?」

「……ゆめの家に忘れものした」

「なにを忘れたんだい?」

「……とっても大切な、手紙」

 そこまで言うと、二人ともなにかを察したみたいに表情を暗くする。

 お父さんが先に口をひらいた。

「……じゃ、取りに行かないとな」

「うん。行ってくるよ」

 続けて、お母さんも口をひらく。

「うつつ、気を付けてね」

「…………うん」

 込み上げてくる、うれしさ。

 でもやっぱり、それは変えられない。もう決めたことなんだ。

「じゃ、行ってくるね」

「いってらっしゃい」

「車に気を付けろよー?」

「うん。…………あと、それとね」

 しっかりと深呼吸して、続ける。

「ありがとう。大好きだよ」

 唇は強張っていた。


 行き先は、ゆめの家の真反対にある、大きな橋。

 有名な自殺スポット。なんて都合のいい噂はない。

「……今日は涼しいな」

 橋の欄干に乗り上げて、下を見下ろす。高さは充分。

 乗り出す前におもちゃの指輪を左手の薬指に付ける。これを見て、ゆめが喜んでくれたらうれしい。

 車が通らない時間を見計らって、欄干の上に乗り出す。このまま脚を踏み外せば、橋の下に転落して死ぬ。

「…………やっぱり、私にはゆめがいないとだめみたい……」

 手紙の裏にしたためたお返事を想い出す。


『親愛なるゆめへ

返事が遅くなって、ごめんなさい。もっと早く応えていれば、結末は違ったかもしれないわね。それでも、あのときにしてくれたキスは今も忘れられない。だから、喜んでお付き合いさせていただきます。あと、恥ずかしいってところの下りがなんだかゆめらしいって思って、少し笑っちゃった。ごめんなさいね? じゃ、今からそっちに行くから。今度は私からキスしてあげるから、ちゃんと覚悟しててよね?

あなたのことを一番愛しているうつつより』


 私はきっと世界一の親不孝で、世界一ゆめを愛しているんだろう。

「……ごめんなさい。お母さん、お父さん。ゆめのお母さんとお父さんも、ごめんなさい」

 涼しい風が、私を優しく撫でる。歓迎してくれているのかな。

「…………ゆめが見れないこのうつつが、もう嫌になっちゃった」

 誰に言うでもない。聞いてもらいたいわけでもない。

 ただ、眼の前に居るかもしれないゆめに向けて。

「……こんな方法でごめん、ゆめ」

 そこで見ているのなら、抱きしめてほしいな。最期にひとの感触で、ゆめの感覚を感じたい。

 それをしてくれるなら、私にはもう未練はない。

「……自分で自分を殺したら、地獄行きになっちゃうのかしら。殺人だし。……そしたら、ゆめとも離ればなれになってしまいそうね」

 虚空に向けて言い放つ。

 ゆめが聞いてくれていると信じて。

「……もう、飛ぶわね。見つかると不味いし」

 涼しい風を全身に浴びる。

 最期のときだからか、妙に心地よい。それとも、ゆめがそこに居てくれているのかもしれない。

 どちらにしろ、もう飛び立ちたい。早く、ゆめをひと眼見たい。

「…………ゆめ。今、会いに行くわ」

 もし、私が地獄に堕ちたしまっても、ゆめなら自分から来てくれるかな。私といっしょに、地獄に堕ちてくれるかな。

 ……だったら、うれしいな。

「…………じゃ、さようなら。虚しいうつつに別れを……」

 バランスを後ろに傾けて、飛ぶ。

 刹那、今までのゆめがフラッシュバックしていく。これが本物の走馬灯か。……不思議な感じだ。

 心地よい風を浴びながら、真っ黒な空を見つめて落ちていく私。

 ……ああ、お父さんが言っていた通りだ。星がとてもきれい。

 ……流れ星も、見える。…………なにかひとつ、願いごとでもしておこう。


 天のみんなに告ぐ、最期の願いごと。

 もしも、私たちがまたこの世に生を受けることができたなら、次もまた私とゆめをいっしょにしてください。

 私たちはハッピーエンドを求めていません。

 だから今度こそ、私たちに──。


 願い終えた瞬間、欄干に誰かが立っているように見えた。

 羽根と円環が付いた、ゆめに似た人物。私を見つめて、微笑んでいる。その微笑みに呼応するように羽根と円環が瞬く間にボロボロと欠けていった。

 ああ、やっぱり、ゆめはゆめだ。これで、あの世でも一生いっしょになれる。


 ありがとう、ゆめ。世界で一番よ──。


 …………………………ぐしゃッ。


  ⦅終⦆

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