洪水かつ渇水の泉
紙月
洪水かつ渇水の泉
小さな頃。夢を見た。砂漠の夢。砂漠なのにすごく冷たかったのを覚えている。水に浸かっているような。泉がそこには存在して、ふと見上げた空の星は輝いていた。この絵が描きたい。生まれて初めてそう思ったのを憶えている。
朝日がカーテンの隙間からスケッチブックを照らす。乾ききった砂に祝福を与えるかのように青くて澄んだ水が湧き出すオアシスが、馬鹿馬鹿しく鎮座している。また上手くいかない、失敗作だ。そう思いながらもせっかく書いた絵を破るのには抵抗があったのでスケッチブックから切り離して引き出しにしまった。これ以上何かをしようという気持ちにはなれないので、無愛想で冷え切った灰色のベッドシーツの上に横たわった。しかし、目覚ましのアラームが、木曜日の朝六時を知らせたので制服に着替えることにした。
そうして、二日ぶりに登校すると、相変わらず愛ばかり受け取って瑞々しく輝く女がいた。名前は覚えていない。私よりも成績がいい珍しい人間であることだけは覚えている。
「今日久しぶりにあいついるくない?」
薄っぺらい一枚の再生紙みたいな軽々しい響きが私を揶揄するのがわかった。成績が良くてみんなから愛されているこの女は、それでいて軽率だ。無邪気というには言葉が刺々しい。可愛らしい顔立ちをしているから可愛がられているだけだ。この女は、自分が得ているものの大切さがわかっていないのだ。こんな空気を吸ってはいられない。酸素の中の毒で息が詰まり切る前に煙でも吸ってこようと思った。
高校の中に喫煙所は屋上しかないので、定位置のパイプ椅子に腰を下ろした。ここは、階段を上がり、屋上への扉を開いてからわざわざ階段室の後ろ側に回り込まないといけないため、これまでに誰とも鉢合わせたことがない。灰皿はないが、幸いにも三つ並んでいるうちの真ん中の座面に大きな穴が空いており、そこに火を消した吸い殻を置いておくと、いつの間にか消えている。すっかり慣れた灰の味と、風の青臭い説教じみた感触に浸っているのが、登校した日の私のモーニングルーティンになっていた。
二限が終わる頃に教室に戻り、私よりはマシだがそれなりに浮いている人たちにノートの写真を撮らせてもらい、四限までは図書室で自習をする。それがいつも通りの過ごし方なのだが、今日はそうもいかないようだ。
「あの、荒谷さん。今日は美術のペアワークがあって、いつもみたいなやり方だと単位落とすって先生が」
「ありがと。また世話になるよ」
おさげがよく似合うのに浮いているのは、何か理由があるのだろうか。そう考えないことはないが、そこまで踏み込む度胸は持ち合わせていないので、彼女を置いて一人で歩いて行った。
美術室に入ると、黒板に名簿らしきものが提示されていた。近づいてよく見ると、二人一組の組み合わせが書いてある。荒谷のぞみの隣に記されている名前は、月夜水美という名前だった。聞き覚えがない。名簿の横に書いてある番号の座席に座れば良いだろうと思い座ると、正面にいたのはあのいけ好かない女だった。
「あなたの名前、なんて読むの」
「あんたの名前は読みやすくていいね。のぞみちゃん。私はすみって読むの。せっかくだしよろしくー」
相変わらず軽々しい言葉遣いだ。それでいて、多くの人から愛されているのだから、癪に触る。それと名字が「つくよ」なのか「つきよ」なのか、どちらでもない特別な読み方なのか、それが知りたかったのだ。だが再び話しかけるのも違うのでチャイムが鳴るまで黙って座っていようと思ったところでチャイムが鳴った。
「今日からはペアで一つの作品を描いてもらいます。出席日数足らない人が意外と多いので、ね」
美術の教師は、こちらの机をじっと睨むように一瞥すると、画材の説明や成績評価に関する話を始めた。美術は得意だったのでいつもは後から課題を聞いて提出しに行っていたのだが、勝手にやるべきことをやった気になっていただけだったようだ。ただ、成績にあまり興味はないので、ちゃんと授業に出席することという最低限しか耳に入らなかった。
二人で一つの作品を描く。そういう画家がいることは知っているが、自分でやろうとは思わない。
「水美さん。まずは何をやる?」
「なんか、お互いのことを描き合う? みたいなのでもいいらしーよ」
「ペアデッサンってことね。なにも聞いてなかったけどそれで出席問題が解決するならいいよ」
「ってかさ、あたしのことはすみでいいよー? あたしものぞみちゃんって呼ぶし」
「むしろ名字で呼びたいんだけど」
「すみちゃんは名字呼び禁止なので」
軽やかに喋る女だな、と思う。けれど、教室で遠巻きにされているときに盗み聞きして得た印象とはなかなかに違う人物なのかもしれないとも思わされる。距離を詰めるのが異常にうまい人間なのだろう。
「まあいいよ。水美さんはデッサンできる? 私はすぐできるから先に終わらせてよ」
私の言葉に対する返事の代わりに、スケッチブックを開き、イーゼルに立てかけた。
「すみでいいし、むしろすみさんはやめてよ。すみちゃんもちょっと嫌なのにさんとかもっとやだ」
そう言いながら、水美は鉛筆をスケッチブックに走らせる。側から見ているだけで、とんでもない蛇行運転をしているのがわかる。だからあの先生は私を水美と組ませたのだろうか。芸術家の両親の娘だからといって、才能なんか引き継いでいるわけもないけれど、それが伝わらない距離に生きているのだから仕方がない。
「やっと終わったよー」
水美がそう言って見せてきた私を描いたデッサンは、シュルレアリスムを実践しました、と言わんばかりの絵だった。鼻が富士山のような形をしているし、目は超新星爆発で宇宙が二つ生まれたみたいだ。……私には絶対に描けない絵だ。
「水美、うまいじゃん」
「ごめん、のぞみちゃんを馬鹿にしたいわけじゃなくて、鼻高いし目おっきいから頑張って描いたんだよー!」
この目も鼻も、中学生の時は何度揶揄されたかわからない。整形とか、カラコンとか、お世辞でも綺麗で大きいとかそういう言葉ばかりを投げつけられていたことを思い出す。そしてその度に、くだらない嫉妬が援軍として訪れて私の内面を否定する。
「ねえほんとなの。あたし、マジで絵が描けなくてさ。下手くそでどーしようもないからのぞみちゃんと組まされたんだと思う。ほんとにごめん」
「違うよ。初めてそんな褒められ方したから慣れてなくてさ」
私の言葉に対し、少し照れたようにはにかむ水美をみると、何故あそこまで忌々しく思っていたのかもわからなくなる。けれど、ひとまずこの課題をサクサクと終わらせてしまわねばならない。
「水美、こっち向いて」
下を向いている水美の顔をこちらに向けると、膝の上にスケッチブックを広げた。
「のぞみちゃん?」
「口動かさないで。サイズ変わるでしょ」
半開きになっていた水美の唇を指で閉じると、鉛筆を手にとった。
水美の目元を見つめる。まるっこい形を、メイクで横に大きく見せようとしており、涙袋が若干ピンクがかっていて、甘ったるい印象を受ける。どっちつかずというよりは、可愛い系と美人系のどちらの特徴も残しているようだ。鼻も口も目に比べて主張は控えめだが、それは決して形が悪いということではなく、目を主張しても違和感が一切ないほど自然に似合っている。鉛筆を走らせて、チャイムと同時にデッサンが完成した。
「水美、出来たよ」
「えーめっちゃ早いねー。見せて見せて!」
水美は小動物がケージのながで暴れるように私からスケッチブックを奪い取る。
「まってまって! あたしめっちゃかわいいじゃん! のぞみちゃんからもこう見えてるんだ」
嬉しそうに飛び跳ねる水美を横目に、やっと今日の仕事が終わった、みたいな顔で缶コーヒーを啜っている先生に声をかける。
「とりあえずこれで終わりました。これで大丈夫ですか?」
「はい全然だめ。デッサンは言うことないけど出席足らんからね」
「じゃあペアじゃなくていいです。一人で来ます」
「足りないのは月夜の方だよ。荒谷先生の娘さんが課題出してくれてるのにダメなわけないじゃない」
荒谷先生。両親のことだ。今も個展でどこか遠くに飛んでいる。権威主義で芸術に対する態度の判断基準まで区別したらダメだろうとは思うが、都合はいいので言わなかった。それよりも、だ。
「ならペアじゃなくて良くないですか?」
「やだやだのぞみちゃんと組みたいの。先生だってあたしの変な絵に頑張ったで賞をつけるの疲れるじゃん。説得手伝ってくださいよー」
「というわけで、よろしく頼む。月夜には君の感性に触れさせたいんだ」
水美の絵が変だとは全く思わない。下手くそだとも思わない。むしろ羨ましい。そういう言い訳が一通り脳を満たしたので、了承の返事をして今度こそ美術室を出た。もう今日はなにもしたくない。
教室に置いてある荷物を回収してから屋上で一服して空を眺めていると、チャイムの音が聞こえてきた。そのせいで、今が昼であることを強く意識した途端、眠気が私を襲うので、躊躇いなく身を委ねた。
ガチャン、という音がして、意識が戻っていく。誰かが屋上に入ったようだ。吸い殻を隠さなければ、停学は逃れられないだろう。携帯灰皿に吸い殻を全て仕舞い込んだので、あとは彼らが消えるのを待つだけだ。そう思い、そっと息を潜めた。
「好きです。俺と付き合ってください」
告白のために誰かを連れてきたらしい。どうだっていいから早く帰ってくれ。そんな甘ったるい愛を享受できる人間なんて、見たくもない。私がなんのために屋上に来たと思っているんだ。そう文句を言って殴りつけてやりたいと思った。
「ごめんなさい。なんかそういうんじゃないんだよね。ほら、田中くんってさ、明るいハッピー! みたいな感じじゃん? そんな田中くんがあたしとどうこうなったら絶対あたしの周りの空気も変わっちゃうと思うんだよね」
ごめんね、バイバイ。そう言って田中くんという人物を階段室の扉の奥に押し込んだ音が聞こえた。田中くんとやらのささやかな抵抗も聞こえたが、そのまま鍵をかけたようで、扉を叩く音は聞こえなくなった。鍵をかけた?
「ねえねえ。屋上の喫煙者さんいるー?」
声色と口調が、月夜水美という女の存在を証明していた。やはり今日は留年してでも休むべきだった。ろくな絵が描けない日は外になんか出るべきじゃなかったのだ。そう思うのと同時に、水美が視界に現れた。
「のぞみちゃんだ。聞かれちゃったかな。いやー告白ってうっとおしいよねー」
告白が鬱陶しい。この女はなにを言い出しているのか、言葉を共有しているはずなのに、まるっきり意味がわからなかった。
「私は羨ましいけれど」
「そう? のぞみちゃんはされてそうだけどなー。美人さんだし。それにさあ、告白とか恋愛とか、あたしのこと満たせないじゃん。だからいい感じに盛り上げてるけど、虚しいよね」
そうだ、私の欲しいものを全て持つようなこの女が、憎かったんだ。この女の目は、いつもフラフラしている。好きとか可愛いとか、素直にぶつけられて麻痺しているんだ。おもちゃ箱がいっぱいになっていたので中身をいくつか選んで処分して、そのくせに満たされないと泣いている子供みたいだ。
「水美ってさ。幸せだからそんなこと言えるんだよ。どうせ実家暮らしでしょ? 可愛いからいろんな人から可愛がられていいよね。愛されてるよね全体的に。その無邪気でナチュラルに失礼なこと言ったりする性格も、それを全部忘れたように人に近づける性格も、そして何よりも、満たされないって言いながら拒絶してばっか。満たされたことがあるから満たす中身を選んでいるだけ」
この女が嫌いだ。欲しいもの全部持っているところが嫌いだし、私には描けない絵が描けることが憎い。虚しいなんて、綺麗な中身が入ったことのある人間にしか語れないだろうに、それにも無自覚なのが嫌いだ。
「のぞみちゃんさー。それ八つ当たりじゃん。あたしは確かに退屈なくらい平和でハッピーだけどさ、どう思うかって自由だよね。あいつらさ、いっつも決まったこと言ってくるんだよ。ずっと前から好きでした。とか、俺と付き合ってください。とかね。気持ち悪いよ。女の子だって、一人称が変わるだけで変わらない。その癖に嘘つきだもんねー。あんたさ、あたしの気持ちわからないくせに自分の基準で当てはめんなよ。そんなんだから両親に置いてかれてんじゃないの?」
気持ちがわかってないのはどっちだよ。類推できる世界で生きてるくせに、知らない世界のことを妄想で語りやがって。そんな汚い言葉が無数に溢れ出して、消えていく。
「好きで置いてかれたわけじゃないんだけど。なんなの。お前全部できるのに人のこと見下して楽しい? 私に絵の才能がないのなんて私が一番わかってるんだよ。一日一万円かかる穀潰しなのに世間体のためにって高校に入れられたのだってわかってるんだ。うるさいな」
「のぞみちゃんに才能ないわけないじゃん! みんなそうやってあたしのこと馬鹿にしてんだ。嘘ばっかついて上っ面のなんでもできるなんて聞きたくない! そもそもちょっと世間話しただけで噛み付いてくんなよ! あんたもどうせあたしの絵のこと下手だと思ってるくせに! みんなそうだよなあ!」
水美は、息を切らしながら続ける。悲鳴のような声だ。
「上っ面で水美ちゃん何でもできてすごーいみたいなこと言いながらあたしが絵を描くときだけ、震えた声で才能あるねって言って苦笑いするか、弱点も可愛いって! 弱点は弱くて醜いから弱点なんじゃん! ほんっと腹立つ。あたしのこと少しはわかった!? ……はあ。美術だって、ペア無理やり頼んじゃったけどやだったら全然いいから。美術休んでばっかなのだって結局それだし、嘘は得意だからさ」
水美は、黙って私の吸い殻が置かれていたパイプ椅子に座った。
「これさ、いっつもあたしが片付けてんだけど。お礼とかない?」
一つだけ、絶対に訂正しないといけないことがある。
「水美は、才能あるよ。私はずっと水美みたいな絵が描きたかったのに。両親の画風じゃないと誰も褒めてくれないからあんなことばっかできるようになったけど、ほんとに羨ましいんだ。どうせもう話さないと思うから、これだけは言っておきたくて。いきなり怒ってごめんなさい」
立ち上がると、水美の両手が私を無理やり座らせた。
「正直あたし今、満たされてるわ。あたしの絵を才能あるなんていう人間はだいたい信じないんだけど、のぞみちゃんに言われちゃったら納得するしかないし。それに今の言葉って全部本音じゃん。その証拠にかなりむかついたし」
「なにが言いたいの?」
「のぞみちゃんを隣に置いておけばあたしはもっと満たされるかもしれないし、のぞみちゃんが欲しいものはあたしが全部あげるよ」
「意味がよくわからないんだけど」
「あたしたち、ある意味同類じゃん。それにのぞみちゃんはどうせ一人じゃん。親切にしてくれてる名前忘れたけどあの子のことだって一線引いてるし。とりあえずお試しで、美術のペアやってる間だけでいいからさ」
「まあ、そういうことなら」
「はい決定! じゃあ寿命揃えるためにタバコ禁止!」
「ふざけんな」
「誰が吸い殻捨ててると思ってるの?」
「……すみませんでした」
「わかればよろしい!」
流されるままにタバコを奪われてしまった。水美は、私の手を弄っていて忙しいのか、立ち上がる気配もないので、そのままもう一眠りすることにした。
目を覚ましてから、とくにどうということもなくあっさりと帰宅した。チャットアプリの連絡先だけ交換して、校内では美術の時間しか関わらないという条件付けをした。向こうからは、たまにうちに遊びにきて一緒に絵が描きたいと言ってきたので、それくらいなら、と受け入れたが、一緒に絵を描くこと自体が、あまりよくわからない。
「絵のことはあたしよりのぞみちゃんの方が詳しいでしょ」
「絵は一人で描くもんでしょ。水美が先に描いてよ」
「なに描けばいいかわかんないもん」
「私もなに描けばいいかなんて知らない」
普段は、いつか夢で見た砂漠を描いているけれど、それも再現できたものじゃない。
「うーん、じゃあ星空でも描こっかな」
窓開けていい? と口にしながら水美は窓を開いた。涼しげな風が私の頬を撫でて心地いい。そういえば、一人になってからは換気なんて意識したことがなかった。これが人とまともに関わるということだったのか。そう感動している間に、水美は一枚の絵を描いていた。そしてその絵が完成するまでに三時間がかかっていた。
みてみて! と呼びかけてきた水美の無駄に大きい声で、そういえば今は一人じゃなかったな、と思う。水美の描いた絵を正面から見つめる位置に立つと、水美は逃亡禁止、と言いながら背後から私の上半身を絵を描き終えたばかりの絵具だらけの両手でホールドした。先ほど水美は星空を描くと言っていたので、巨大な星がひしめき合うような絵を想像していたが、その予想は裏切られて、小さな星の光と東京の夜景が合わさった、星の主張が控えめな絵だった。ビルは四角形とも三角形とも取れる中身のなく光だけを持つ建物の集合になっている。星は小さいながらも輝いていて、今にも塗りつぶされそうだ。輪郭がぼやけている。
この空だ。私が夢見た空は、この空なんだ。本当に綺麗だ。
「えーっと、のぞみちゃん的にこの空は何点?」
「最高到達点」
「のぞみちゃんって、あたしの絵好きだよね」
好きというよりは、届かないものという認識だが、この空を見せられてしまえば好きというべきなのかもしれないと思う。
「ありがとう」
「え? こちらこそじゃない?」
「私の夢で見た光景は、水美にしか再現できない。だから、この関係は続けよう」
「あたしはもともとそのつもりだったよー。よろしくねー」
「よろしく」
とりあえず、彼女の発想力は維持してもらいつつ、技術的な面では美術の時間を使って上げてもらおう。そう、普段着の白いカットシャツに水色の手形が増えていく様を見て思った。
それから数日が過ぎ、美術の授業の時間が訪れた。私は、他の科目に対するやる気があるわけでもないし前よりも優秀な人がノートを見せてくれるので、予鈴までは屋上でスケッチするのが新しいモーニングルーティンになっていた。人に教えるために絵を描く、というのは不思議な心持ちがする。前まではずっと描きたいものを描けない不器用さと、劣等感とを紙の上に表現するだけだったが、今では役割を全うしているような確かな感触があり、鉛筆が紙の上を滑る音が心地よい。
今日はいつも座っていたパイプ椅子と灰皿を組み合わせた絵を描きあげる。全然混ざり合っていない、個と個の絵。水美の才能は、シュルレアリスムという分野に限定できない、比喩と組み合わせを描き出す能力なのだろうと思う。だから、私はかつて見た夢の光景を、構成要素を思い出して水美に伝えないといけない。あの日夢見た世界の、水と泉と砂漠の正体を。考えながら手を動かしていると、予鈴が鳴り響いた。私は、美術室へ向かった。
「今日は、先週の続きをやってもらおう。と言っても、デッサンを相互にやってもらって美術に対する造詣を深めてほしいと思っていたので、それが必要ない人は自由にやってもらって構わない。お互い教え合う、というのもいいだろう」
指示を出しながら、あざとくこちらを見つめる先生は、言外に、私が水美に教えてやれと言っているのだろう。こちらとしては、言われなくとも、だ。
資料として持ってきた泉の写真を、水美の目の前に置いた。
「これ、なぞったら形通りに描ける?」
「なぞったらいけるけど、見ながらだとわかんないなー」
「とりあえず、形と大きさを意識してみよう。例えば、この写真だと水の部分が画面の七割くらい。形は楕円形に近いから、薄く線で引いてみるとか」
「ああ、確かにそれはいるかも! 頭いい!」
素直に、鉛筆で線を引いている姿を見ると、こんなまっすぐに見える水美も内側に空虚を抱えて生きているのが不思議に思える。人は見かけによらぬものというけれど、心からの振る舞いと外見を持っていて見えたものを評価する際に、予想と違う内面をしていたことに対してギャップなんて言葉一つで思考停止する態度がふさわしいとは思えない。
「待って、模写むずすぎるんだけどー」
私は、水美からどう見えているんだろう。なんて、気にしていても仕方がない。
「私たちの絵に模写は使わないから大丈夫。ただ、水美の技術が少しでも上がれば、絵を描くのが楽しくなるでしょ」
「えーのぞみちゃんせんせーやさしー!」
「そこ二人、少し静かになさい」
水美の声が大きいだけな気もするけれど、少しだけ声を小さくしてみた。水美は、声だけじゃなくて鉛筆の動きも小さくなっていた。
美術の時間が終わり、まっすぐに家に帰ると、水美は真剣な顔で椅子に座ることを促した。ここは私の家だが、とは言わずに座ると、水美は私の正面に座った。
「あたしの絵が、のぞみちゃんに求められるものであるうちに、描きたいから、夢の話を聞かせてよ」
まだ、話すのが怖い自分はいる。けど、水美はもっと怖いはずなんだ。
「わかった」
私は、その日、水の中にいた。砂漠で、星が綺麗だけど月は見えない。オアシスのような場所があり、特に泉があったのを憶えている。ひんやりとした感触に包まれていた。風はない。そこに私はいた。そんな、夢の話をした。
「わかった。描くよ。今からね」
水美は、私がなにをいう前にイーゼルに画板を立てかけ、画用紙を勝手に取り出して描き出した。私が絵を描くときにやることはなに一つやらず、まるで踊るみたいに絵具で手や服を汚しながら、キラキラした笑顔で画用紙に色をのせていく。水美は、可愛らしい顔立ちと思っていたけれど、今ばかりは綺麗な人に見えた。一瞬も迷うことなく、水美は筆を走らせた。そして、水美はこちらを振り向いた。
「ねえ、みてみて!」
水美が描いた絵は、私の話したイメージとは全く違った。けれど、その絵は私の夢の通りだった。砂漠は水浸しで、空の星は大きく一つ、けれどそれをぼやかすビルの光で構成された空。少しの空白がある。そして、真ん中には大きく黒い空洞があった。これが泉なのだ。私が水の中にいたのに、泉が見えていたことの答えは、これだったんだ。そして、その空洞にも、空白があった。
「この空白はなに?」
「初のコラボ作品的な感じじゃん? のぞみちゃんの隣にあたしを描いていい? あと星が一つだと寂しいから満月もいいと思って」
「いいじゃん」
視界が、うっすらとぼやけるのを感じる。声は震えていないだろうか。私の空洞が、初めて満たされそうです、神様。なんて柄にもなく報告してしまいたくなる。
「はい、かんせい!」
水美は、私の元に飛び込んでくる。
「服汚れちゃうって」
「いいじゃん。汚しちゃおうよ」
「……うん。そうだね」
長い間求め続けた夢の光景が、やっと見られたけど、それよりも今が綺麗だなと思った。
汚れた服を洗濯しつつ、交代でシャワーを浴びて出てくると、水美はおもむろに言った。
「この絵のタイトルさ、のぞみちゃんの夢、とかになるのかな?」
「いいや、かっこつけよう。私の両親は、私と同じ感じでいわゆる、リアリスムってやつなの、だからそれの反対みたいな感じでさ」
泉以外水浸しの砂漠なんて、私一人じゃ絶対に描けなかった。だからこの絵のタイトルはそこになるべきだ。
五年後、二人組の画家が個展を開くこととなった。その個展の名前は、彼女らの処女作のタイトルを取って、「洪水かつ渇水の泉」と名付けられた。
洪水かつ渇水の泉 紙月 @sirokumasuki_222
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