熱さも飲まねば分からない

位月 傘

「好きならどんな我儘でも叶えてくれるのが普通でしょ?あたしのことなんて本当は好きじゃ無いってこと?」


 返事もしないうちにまくし立ててそっぽを向けば、見なくても彼が慌てているのが分かった。こうやって喧嘩——と呼べないほど一方的なものだが——をするのも何度目だろう。

 

 はじまりは些細な嫉妬心だった。いつもみんなに優しくて、人から頼まれればそれがどんな頼み事だろうが断れないような恋人が、どうにも癇に障った。今思えば、ただ私は私のことを一番好きだといって、甘えの一つでも私だけに見せてくれれば安心できたのだろう。

 

「……私たち付き合ってるって言えるのかな。これならいっそ友人に戻ったほうがいいんじゃない?」


 ただ当時そんなことに気づいていなかったから、ただ癇癪を起した。心配させてごめんね、僕が悪かった、そう言ってくれることを期待して。

 結果は想像以上だった。彼は言葉の意味を理解すると同時に、顔を真っ青にして、唇をわなわなと震わせる。口から出て来た言葉も彼の心から出たものだからか不安定に揺れていた。


「ご、ごめん、どうすれば許してくれる?何をしたらいい?何でもするよ、君のためならなんでもする。だからごめんなさい、許して、ずっと一緒にいて、別れるなんて言わないで……」


 そうやって弱々しく私に縋る彼を見れば、驚いたことに涙まで流していた。「ごめんね、ちょっと不安になっちゃっただけなの」と彼を抱きしめる私の胸には、罪悪感よりも満足感が占めていた。

 しかし弱る姿に満足したのも束の間のことで、少しすればいつも通りに男の様子に再び腹が立ってきた。そもそもなんでもするなんて言っていたけど、どんなひとの頼み事でも受け入れてしまう男だ。それならその言葉が私に向けられたとして、なんの価値があるのだろう。男にとって当然のことを、ただ当たり前に言われただけなのではないだろうか。


そうやって徐々に不信と怒りが膨らむのと比例して、数か月、数週間、数日と、私の癇癪のペースは徐々に短くなっていく。すると普段から気が大きくなっていって、彼は日常的に私の機嫌を窺うようになった。

これが『癇癪』に違いないと分かっている。それでも私のせいで困って、私の機嫌を取ろうと努力されると、例えそれが一瞬の幸福であると分かっていても、気づいたらやめられなくなっていた。


……そう、一瞬の幸福だ。きっと彼は、いつか、近いうちに私に愛想を尽かすだろう。こんな女とは付き合っていられないと。これまでよく持ったほうだ。本当はもう好きでもなんでもなくて、ただ恐ろしいから付き合ってくれているだけの可能性だってある。

別れたいわけではなかった。こんなことをしておいて今更何をと思われるかもしれないが、私は彼が好きだ。人一倍優しくて、頼みごとを断れない弱気な彼が好きだ。

だけどその性分が、どうしようもなく私を不安に急き立てる。こんなことを続けていればいつか離れることになると分かりながら、浅ましい私はこうでもしなければ彼と付き合い続けることなど出来なかった。


「本当にごめんね、僕が好きなのは君だけだから」

「そうやって言えばあたしの機嫌を取れると思ってるの!?馬鹿にしないで!」


 ぱちん、と乾いた音が鳴る。遅れて自分の手のひらがじんじんと痛むことに気が付いた。一体何が起きたのか、分からなかった。

 目を丸くした男と目が合う。私もきっと同じ表情をしていた。そこでようやく一体何が起きたのか思い至ったのだ。


「あ、あなたが悪いのよ。あなたがそう、そんな風だから……」


 咄嗟に出て来た言葉が、自分でも信じられなかった。『気まぐれで気の強い、不安定な女の子』を演じているうちに、気づかないうちにそれが私の本性になってしまったのかもしれない。

 自己嫌悪が止まらない。人をぶったのなんて、生まれて初めてだった。なんてことをしてしまったんだろう。いや、今までなんてことをしていたんだろう。今になって初めて、私は本当の意味で自分のしてきたことが恐ろしくなったのだ。


 男は昔のように泣いてはいなかった。今の方が辛いはずなのに。それとも度重なる恋人からの理不尽な怒りに、すっかり呆れてしまって涙も出ないのだろうか。ならば今すぐこの場を立ち去って、二度と帰ってこなくなってしまうかもしれない。

だが彼は予想に反して宙に浮いたままの私の手を取り、赤くなった掌をまじまじと見つめた。そして困った顔をしてこう言うのだ。


「痛くない?大丈夫?僕のせいでごめんね」


 完敗だった。私には過ぎた人だったのだ。というか、私以外の誰にとっても、きっと彼は過ぎた人だ。それに気づくのに随分遅れてしまった。本当にどうして、こんなことになってしまったのだろう。私はただ、彼のことが好きだっただけのはずなのに。2人で幸せになりたいと、確かに思っていたはずなのに。


 自分が彼の隣にいるべき人間ではないと理解できたこと、この瞬間だけだとしても今まさに己の行いに後悔しているということ、そしてこれまで間違えてなければもっと幸せになれたのではないかという幻想がよぎったこと。これらが私の中で渦巻いて、彼と付き合い始めてから一番冴えた答えにたどり着くことが出来た。


「……別れよう。もう飽きちゃった」

「ごめん、ごめんね、本当に好きなんだ。だから——」

「結局いつも口ばっかりで、行動が伴ってないんだもん。今度こそ本気だから。今日中に荷物まとめて出ていくね」


 彼はいつもの癇癪だと思っているに違いない。一過性の怒りで、少しすれば機嫌が取れると思っている。こう考えると、舐められていたのは私のほうだったのかもしれない。だからといって私の罪が消えるわけではないが。

 なおも私を想う言葉を紡ごうとする男の言葉を遮って、馬鹿にしたように笑って見せる。笑え、最後まで悪い女になり切ってみせろ。馬鹿みたいに優しい彼が、罪悪感を覚えることがないように。


「それにね、あたし、他に好きな人が出来たの」

「…………は?」


 男の冷え切った声が私の動揺を誘う。せっかく別れられる機会なのに、どうして怒っているみたいな声を出すのだろう。

 初めて聞く怒りを滲ませた声だけでなく、完全な嘘は吐くことによる緊張で、思わず身をすくませてしまいそうになる。これまでも演技をしていたことは同じだが、その時放った言葉は今にして思えば私の心のどこかで思っていたことには違いなかったから、まるっきり嘘だったわけではなかった。


「最近知り会った人なんだけど、あたしのことが好きだって言ってくれてるの。顔もタイプだし、あたしのことだけ考えてくれるって言ってるし、それに————いたっ!」


 掴まれた手が、ぎちぎちと音が鳴ってると思うほど強く握られる。思わず声を上げれば、男はにっこりと目と口元を緩めて安心させるように、しかし依然として冷たい瞳のまま私を見下ろした。


「あぁ、ごめんね。加減を間違えちゃった。君はか弱いって分かってたのに……」


 彼の言葉に耳を疑う。未だにそんなことを言うなんて思ってもみなかった。確かに私は彼に比べれば小柄だろうし、彼は同性と歩いていても頭ひとつ大きかった。だけどそれはあくまで身体に関してのみのことだ。普通自分を責め立ててきていた嵐のような存在を、か弱いなんて言わないし思わないだろう。


「だけど君も悪いとは思わない?いつもみたいに気を引こうとするのはいいけど、これまでそんな風に言ったことはなかったのに。「好きな人が出来た」、なんて……そう言えば僕を傷つけると分かっていて今まで言わなかったんだろう?今日はどうしてそんなことを言いだしたんだ?」

「ち、違うよ、今度は本気、わた——あたしは本当に別れたいの!好きな人が出来たの!分かったら手、放して!」


 手を振り払って、さっさとこの場を立ち去ろうとした。荷物はまだ残っているけれど、きっと彼も少ししたら冷静になって、別れ話も受け入れてくれるだろう。そうしてから取りに戻っても遅くないはずだ。

 しかしその予定が叶うことはなかった。振り払おうとした生白い腕は、相変わらず私の手を掴んで離さない。文句を言おうと顔を上げれば、仄暗い瞳と目があって言葉が詰まる。射殺すような視線とは正にこのような目を言うのだろう。


「相手は?」

「え?」

「最近ってことはここ数か月だと仮定すると、その間継続的に君に会っていた男は居ないはずだけど、もしかしてこっそり連絡を取っていたのか?流石にスマホの中身を見るのは可哀想かと思って触れなかったんだけど、僕は君を甘やかしすぎていたのかもしれないな。あぁ、間男だと思い込んでいたけれど、女っていう可能性もあるか。僕を恋人に選んでいるから、てっきり男しか恋愛対象じゃないと思い込んでいたよ。失敗したな……ねぇ、素直に教えてくれない?」

「な、何?なんのはなし?どういうこと……?」


 男は表情だけは柔らかいまま、不自然なまでに甘やかな声音で笑いながら言った。子供や恋人の我儘を、愛おし気に揶揄うみたいに。


「何って、君の話だよ」


 暗い瞳を見る。そこには間違いなく愛があった。こんなに分かりやすかったのに、どうしてこれまで見落としていたんだろう。

彼はまるで普通の恋人同士のように語り続ける。おかしな話だがこんなふうに穏やかに言葉を交わしたのは久々のことだったのに、私は次に出て来る言葉がなんであるか、これまでと違い全く予想できなかった。


「そう、君の話だ。君が僕を捨てて、他の奴と幸せになれるなんて夢想を抱いているらしいけど、それは嘘だっていう話」

「そんなこと、ない……」

「そんなって、どんな?僕を捨てようとしていること?それとも幸せになれないこと?どっちにしろ嘘じゃないよ。君は僕とじゃないと幸せになれない。そういう風に僕がした。だから君は僕を手放せない。君だって本当は分かっているはずだ。今はちょっと気が動転して思ってもないことを言ってしまっただけ、そうだろう?」


 今、私はこれまでで最も冷静になれていると考えているのに、男はそうではないという。そんなはずはないのに。目の前の男が何を考えているのか分からない。一体この男の何処にこんな熱情が眠っていたというのか。それとも見抜けなかった私の目が節穴だったのか。

 恐ろしくて腰が引ける。追いかけるように男は距離を詰めて、空いている手で私の首を撫でた。ほとんど力の入れていない、なぞるような触れ方だったのに、首を絞められているかと錯覚して息が詰まる。


「どうして?私のことなんてもう嫌いになったんじゃないの……?」


 心底理解出来ず、思わず直接的にそう問いかければ、まるでそんなことを言われるとは露ほども思っていなかったと言わんばかりに男はぱちぱちと瞬きをした。そして困惑する私をまじまじと見つめたあと、瞳をきらりと期待と愛情に輝かせた。


「もしかして、いつもみたいに心配になっちゃったってことだったの?あ、「そんなことない」って言ったのもそもそも好きな人が居るなんて言うのが嘘だって話?そうだよな?他に好きな相手なんていなくて、僕の気を引こうとしただけ、あってるよね?まさか本当に別れようとしていたんじゃないってことだったんだろう?」


 これで否を唱えたらどうなるんだろう、と頭によぎったが、男の異様な圧に押され、意思に反して頷いてしまった。男の言い分は最後以外は合っている。いや、もしかしたら全部合っているのかもしれない。彼の言う通り、これはいつもの私の試し行動で、冷静になったなんて勘違いだったのではないか。

 こちらが肯定の意を示したのを見届けて、ぱっと張り詰めた空気が緩まる。そして彼は思わずといったように、わざとらしいほどの安堵の声をあげた。


「あぁ——良かった!ついに人殺しになるかと思ったよ!」


 その言葉に絶句していると、男は場違いに困ったように首を傾げる。あまりにあどけない表情を見て、私の頭にひとつの仮説が浮かぶ。もしかして皆に優しくして誰の頼みでも聞いているように見えて、その実私の周りの人間関係を探っているだけだったのではないか……?


「……?まさか僕が君を殺そうとしたなんて勘違いしてる?あはは!そんなことあるわけないだろう!」


 的外れな笑い声をあげる男が理解できない。目の前にいる相手が知らないひとに感じて恐ろしい。残った良心を総動員した結果がこれだ。いつからこの男はおかしくなってしまったのか。

私の頭は相変わらず冷え切ったままであり、以前のように熱に浮かされた振る舞いを続けて維持していた関係には今更戻れるわけが無かった。


 やっぱりきちんと別れ話をするべきだ。そう思いながら見つめた視線の先では、男がかつてのように笑っていた。どんなことでもすると言って泣いていた時と同じ顔だった。だから、彼を否定する言葉は発するより先に溶けて消えてしまう。

 

「仲直りしよう。いつもみたいに。僕は君にどんなことでもする、だから許してくれる?」

「……うん、私も変なこと言ってごめんね」


 恋人が恐ろしい、何を考えているか分からない。きっと以前のような関係にも戻れないし、初めからやり直すことも叶わない。

私のせいでおかしくなってしまったひとの顔を、今日初めて見た。そのひとは私の好きになった男の姿をしていた。私の頭をおかしくしたひとの姿をしていた。彼は私の手を強く握り、愛を語るような温度で囁いた。


「心配しないで。僕はいつだって、君の幸せだけを考えているんだから」

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