第3話

①現状把握



「わたし、部屋で宿題してるね」

 梓ちゃんと話してから数日、わたしはお兄ちゃんを避けるようになってしまっていた。

 お兄ちゃんのことは大切だけど、一緒に居ると蕾華や梓ちゃんに嘘を吐いていることを思い出してしまい、どうしても引け目を感じてしまう。今日もまた、スーパーで買い物が終わった後に自分の部屋に戻った。本当は宿題なんてないのに、だ。

 脱力して、ベッドに寝転んで天井を見上げた。

 梓ちゃんにも蕾華にもお兄ちゃんにも嘘を吐いて、ほんと、なにやってんだろ。だけど今更、好きが嘘でしたなんて言ったらお兄ちゃんは傷つくだろうし、これまでの意味もなくなる。

 支え合わなければ。

 お兄ちゃんの求めに答えなければ。

 そう思うものの、一緒に居ると気持ちがぐらぐらして、地震が起きたときのように足元が不安定になってしまう。足元だけじゃなくて、空も海も山も川も谷も、わたしの心の中の世界の全てがグニャグニャに混ざっていって、何もかもがなくなりそうになる。

「怖いなぁ」

 申し訳ないと思いながらもお兄ちゃんを避けてしまう日が続いた数日後。

「ね、ね。七搦さん。訊きたいことがあるんだけど」

 数回話したことがある程度のクラスメートの女子が話しかけてきた。

「七搦広務先輩って、七搦さんのお兄さんだよね?」

「そう、だけど」

 肯定すると、その娘は胸の前で両手の指の腹同士をくっつけた。

「じゃあ聞きたいんだけどね。七搦先輩って、その。付き合ってる人居るって本当?」

 この手の質問はわたしが中学一年生のときにもあった。お兄ちゃんは結構モテるのだ。お兄ちゃんが卒業してからはさすがになくなったけど、今年は何人がこういう質問に来るのだろう。そう考えながら、複雑な気持ちになりつつ答えた。

「ううん。お兄ちゃんに付き合ってる人は居ないと思うよ」

「じゃあさ、七搦先輩って好きな人とか、居るのかな?」

「さあ。そういう話、しないから」

「そーなんだ。ありがとねっ」

 片手を挙げると小気味よくそう言って、自分のグループの方へ戻って行った。わたしは軽く笑って手を振り返すと、蕾華がやってきた。

「なに話してたの?」

「ううん。なんでもない」

 胸がキュウっと締め付けられる感覚に襲われながら、そう言った。

 それから数時間後。次の授業である習字のために習字室に向かって廊下を歩いていた。

 いつもは蕾華と一緒に移動するのだけれど、今日はわたしがトイレに行きたかったので先に行ってもらった。二階の渡り廊下を進んで第二校舎に入り、階段の前で曲がろうとしたときに上の方から声を掛けられた。生まれる前から聞いていた、聞き間違えようのない声だ。

「美蓮」

 見上げるまでもなく誰かは分かり、ゆっくりと声のした方を見ると、階段を下りてきているお兄ちゃんと目が合った。第二校舎の三階にはコンピューター室があるので、お兄ちゃんは情報系の授業を受けていたのだろう。

「お兄ちゃん」

「次は移動か?」

「うん。習字、だよ」

 お兄ちゃんがわたしの目の前にまでやってきて、思わず目線を逸らしてしまった。

 トイレに行ってから習字室に向かうのではなく、習字室に習字道具を置いてからトイレに行けば遭遇しなかったのになぁ。

 ふと、そんなこと思ってしまった。それはまるで、お兄ちゃんを嫌っているみたいな考えだと気が付いて、自分自身が嫌になった。

「ごめん、行かなきゃだから」

「あ、そうだな。じゃあな」

 今、これ以上お兄ちゃんと一緒に居たらどうにかなってしまいそうで、お兄ちゃんの言葉を最後まで聞かずに急ぎ足で習字室に向かった。

 避け方が露骨過ぎだと思うけれど、これ以上の最善手は、わたしには打てない。

 だって本当に、どうにかなりそうだったのだ。

 具体的にどうなるのかは分からないけれど、もしどうにかなっていたなら、わたしはわたしを心の底から嫌いになっていた。そんな確信が遅れて湧いてきて、心臓の鼓動が速くなる。

 その焦りは習字の授業が終わるまで続いて、今日はいつもに比べて文字が乱れていることを先生に指摘された。

 最初の授業で先生が言っていた、手書きの文字には心が現れるというのは本当だった。

 その日の夜。

 晩御飯を食べ終わって自分の部屋に行こうとしたときに、やっぱりというか当然というか、お兄ちゃんに呼び止められた。

「もしかしてだけど、なにか不満が合ったりするか? 俺はさ。美蓮と恋人だってことを嬉しいと思ってる」

 お兄ちゃんはわたしに寄り添うような言い方でそう言った。けれどその表情はどこか罪悪感を抱えているようにも感じられた。

「だから、何か変えて欲しかったら言ってくれ。俺は美蓮を幸せにしたいから」

 最後だけ目を伏せてそう言ったのは、照れなのだろうか。それとも、それ以外の何かの感情によるものなのだろうか。わたしにはお兄ちゃんの気持ちがあまりにも分からなさ過ぎて、お兄ちゃんを支えるまでが遠いなぁと思ってしまう。

「不満なんて、なんにもないよ。わたしはお兄ちゃんで満たされている、から。付き合うとか初めてだから、ちょっと戸惑っているだけだよ。寂しい思いさせていたら、ごめんね」

 途中でお兄ちゃんの顔を見ていられなくなって、お兄ちゃんの足元に視線が落ちてしまった。

「美蓮は悪くない」

 断言されて顔を上げると、お兄ちゃんは優しく微笑んでいた。

「美蓮は、なにも悪くないよ」

「お兄ちゃん」

 お兄ちゃんはこんなわたしでも悪くないと言ってくれる。だったら、お兄ちゃんを支えられるわたしになるために、わたしもできる限りのことをやってみよう。

 そう思って、伝えた。

「大好きだよ」

 そう告げて自分の部屋に戻り、ベッドに寝転がってラインを開いた。

【お願いがあるんだけど】

【迷惑じゃなければ今度、蕾華の家に泊まらせてくれない?】

 蕾華にそう送るとすぐに既読が付いた。

『え、お泊り会?』

『楽しそう!』

『しよう!』

 そう返事があって、少し間が空いてから、

『お母さんもいいよって』

『いつする?』

【ほんと?】

【ありがと。いつなら都合がいい?】

『じゃあ金曜日にしよ!』

『なんなら土曜日曜も!』

 蕾華から「楽しみ」「わくわく」のスタンプが送られてきて、わたしは「よろしくお願いします」のスタンプを送り返した。




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