幻の蝶

第1話



 −−−綺麗だと思った。

しなやかで、軽やかで、ひらりと消え入りそうに儚い。かと思えばどこか芯の強さが感じられる、力強い動き。中性的だけれど、やはり男の人だと感じさせられるその踊りに、脳を通る間もなく一瞬で。堕ちた。


 ダンスのことなんてまるで分らない。中学生の頃、当時仲良かった友達の会話に合わせるために、音楽番組や動画サイトで少し見ていたくらいだ。自分が踊ったことなど、体育の授業か、友達と休み時間にした見様見真似の適当な踊りくらいだ。これっぽっちも詳しいことは分からないが、この踊りは絶対に綺麗なんだと思った。

 少し汗をかけば透けそうな白のシースルーのブラウスに、柔らかなサテン生地の白のゆるいパンツ。色白な肌と、それに映える綺麗に色が抜かれた金髪が相まって、儚さを相乗している。公園の広場の一角にある街灯の下で照らされながら、管理棟のガラスに自分を映して踊るその姿は、あまりに綺麗で、同じ人間だとは到底思えなかった。神秘的ななにか、天使、妖精、そんな神聖な空間に存在するもの。あ、蝶だ。楽園にいるような蝶のようだ。神秘的で、かすかに弱い光で輝いていて、輪郭がはっきりしていない白いヴェールそのもののような蝶。楽園にいる蝶なんて、見たことも見ることもない存在であり、あくまで私が勝手に思い描くものだ。この世界に存在する紋白蝶のように、輪郭がはっきりしていて黄味がかった蝶とは似ても似つかない。ああ、綺麗だ。あの街灯の下の世界は、私の住む世界とは別の世界だ。決して私が踏み入って良い場所じゃない。

 



 白いレースカーテンから光が差し込んでいた。夢中になるドラマに出会って昨夜は遅くに寝たはずなのに、頭はやけにすっきりしている。おそらく今は正午頃だろうか。枕元のヘッドボードに置いてある置時計を手で探す。結局手探りでは見当たらず、のっそり起き上がって見るはめになった。振り返って見てみると、げ、三時。貴重な休みを睡眠に費やしてしまったことに、「勿体ない」と「仕方ない」が脳内で議論を交わしている。仲介に入った「どうでも良くない」が場を落ち着かせ、ようやくベッドから起き上がることができた。マグカップで水を飲み、ぼーっと窓の外を眺めていると、ふと出かける用事を思い出した。カーテンが欲しいんだった。「レースカーテンだけでも光を気にせず三時まで寝られるんだから、別に要らないじゃん」と脳内でまた議論が始まりそうだったが、最近の冷え込みと防犯面を考えると買ってもいいだろうと主人の私が言いくるめた。三時からの一人での買い物におしゃれをするのは気怠く、必殺「適当服」をクローゼットから取り出した。白いセーターにカーキーのパンツ。スウェットやパーカーほど緩くなく、程よいラインを責めていると我ながら思う。化粧も週5日抜かりなくキメている反動か、今日は何もする気になれない。料理人が休日家で料理しない話と似たようなものだろう。そんな大層なものでもないか。普段は、当たり前にしている化粧にも気力が必要なのだなと、こういう休日になると思う。髪は緩くお団子にまとめてマスクをつけ、貴重品とその他最低限の持ち物を小さいバッグに詰め込んだ。黒のコートを羽織り、マフラーを巻く。よし、準備完了。時計を確認する、3時50分。ベッドでの時間が少し長かったかと、考えても仕方のないことをだらだらと考えながら鍵を閉め、最寄りの駅に向かって歩く。くだらないことを考えられるのも、余裕があるからこそ出来ることだ。余裕がなくなるほど満たされることを羨む気持ちが無いわけではないが、私は今の生き方に満足している。この生活に幸せを感じている。

 一番近いインテリアショップに着く頃には、太陽はもう濃いオレンジ色になっていて、沈む前の最後の力で町の人をじゅわっと赤く染めていた。お目当ては二階にあるという表示を見つけて、脇目も振らずに最短距離でカーテン売り場に向かう。向かった先には、色々な素材とデザインが組み合わされたカーテンが並んでいる。色とりどりで、まとめて見ると単体で見るより惹かれる気がした。お店側も上手く買わせようとしてくるなと、マスクの中でニヤリと口角を上げながらカーテン達を見渡した。色は寒色より暖色が良いな、生地もつるつるよりもしっとりした感じの方が良い。なんとも曖昧で、その場の商品頼みが丸見えの考えをもとに歩き進めていく。なんだかそれらしい場所に来たので、歩くスピードを緩めて少し行くと、一つのカーテンが目に留まった。そのカーテンは、純白の白にきらきらした装飾が大小散りばめられていて、とても綺麗だった。あまりの輝きに目が眩んだ。しばらくの間、気を取られて見惚れてしまっていた。これしかないと思い、手に取ろうとしたが、やめた。そして、一度深呼吸をして考え直してみた。「綺麗だけど眩しすぎやしないか、主人のゆったりした日常には似合わないのではないか」と脳内で異議が唱えられた。確かに、私には合わないかもしれないと思って、これまでずっと目を留めていたカーテンから初めて目を離し、辺りを見渡した。いやいや自分の好きなものを、という脳内の声が徐々に遠ざかり、また別の良さそうなカーテンを見つけた。黄味がかった柔らかい白色に、もこもこした素材で格子状に線が引かれたデザイン。自分らしい気がして、見ていて落ち着く。ああ、やっぱりこれだなと思い、事前に測っていたサイズと見合わせ、確認ができたので両手で抱えてレジに向かった。それ以上はもう迷わなかった。私はもう、自分に見合わないものに手を伸ばすのはやめたのだ。

 手に持った大きな紙袋には、さっき買ったカーテンが入っている。袋の隙間からちらりと覗き込んで、良い色だ、良い買い物ができたと上機嫌で最寄りの駅から家路につく。すっかり満足し顔を上げると、ぼうっと辺り一面を照らす月の明るさにおお、とつい声が漏れた。あの、全力で頑張っていた太陽はとうの昔に沈み、もう今は月が主役だ。今夜は何を食べようかと考えながら風が一気に冷たくなってきたので足早に歩く。今日は寒いから一人鍋にでもするか。白菜とえのきと豆腐と、とスーパーマーケットに寄る用事ができたので、急遽ルートを変更し、いつもはまっすぐ行くところを右に曲がった。せっかくだし買い物ついでに少し寄り道するか。この角を曲がった先には公園がある。この辺りでは比較的大きい公園で、昼間は小さい子供がワイワイ遊んでいる。遊具が多く、小さめではあるが体育館もある。また、コンクリートの広場もあり、小さな子供が帰った後には、中高生がスケートボードをしにやってくる。最近は制限が厳しくなり、場所を選んでスケートボードをしないといけないらしい。このコンクリート広場は、どうやらうってつけの場所のようだ。広場の隅に並んだベンチの一つによっと腰掛け、隣に大きな紙袋を置いた。冬の夜の公園も、寒いがまたそれが良い。荷物をずっと持っていたせいで手がだるい。夜が深まり、中高生のスケートボード軍団が帰ると公園にはたちまち静寂が訪れる。ふらっとやってきてベンチに座るおじさんや、ランニングの寄り道でやって来るお兄さん、ふうっと一服するスーツ姿のお姉さん。夜の公園には年齢、性別様々な人がやってくるが、大体皆その静寂を求めてやってくるので大人しくしている。それはそうか、実際大人であるのだから。そして私も、この公園によく来るひとりだ。特にあの夏は、ほとんど毎日来ていた。どうしようもなく夢中になってしまったのだ。綺麗で儚く、幻のように私の前から消えていった少年に。




 二年前の夏、アルバイトで面倒な客に散々クレームを言われた後、店を出てから無性に腹が立ち、公園に寄り道をした。なぜ当事者でもなく、そして何の責任もない店員に対してあれほどまでに狂気じみて怒鳴りつけることができるのか。私は何も悪くないのに、という思いを自分の奥に必死に押し込んで、ただひたすら頭を下げた。アルバイト代のために、生活費を稼ぐために、私はしたくないことをする選択肢を選んだ。何とか店長が駆け付けて事態は収まったが、私の怒りは全く収まらなかった。コンビニエンスストアで一番安い発泡酒を買って公園へと向かった。家で一人むしゃくしゃするより気が紛れるだろうと思ったのだ。公園内でも一際静かなコンクリートの広場に向かい、隅にあるベンチにドスンと座った。座るなり、今出せる限りの大きなため息をついた。買った発泡酒を人目も気にせず盛大に開け、豪快にごくごくごくと3口、喉で飲んだ。そもそも人目なんて無いがと、下ばかりに向けていた目を上に横にと動かすと、右斜め前のうす暗がりの中で動きを捉えた。油断した、人いたんだと少し恥じらったが、私のことは目に入っていないようだったので、逆にしばらく見てみることにした。街灯の下に移動し、明るみに現したその姿は一言で、美しかった。距離があるので、顔立ちまでははっきり見えなかったが、おそらく綺麗な顔をしているだろう。顔立ちの議論をするまでもなく、姿かたちや纏う雰囲気が別格の美しさを放っていた。見惚れていると、その子は軽く飛び跳ねて、そしてぴたと止まった。私もつられて動きを留め、瞬きもせずただその子を見た。すると、その子は指先から肘、腕に、そして肩、おなか、腰、膝、足首へと波を伝導させた。言葉にすると一部位ごとに途切れてしまうが、本当にその動きはなめらかで一切の邪魔が無かった。その後も次々と繰り出される表現に圧倒され、私は目も口も閉じることを忘れていた。鳥肌が止まらなかった。美しく眩しく煌めいているその姿は、自由に楽園を羽ばたく蝶だった。自分の知っている世界から、完全に飛び出していた。アルバイト漬けの日々で何の希望も持てず、明日のご飯のためだけに必死になって働く私とまるで違った。あまりに別世界過ぎて、嫉妬も羨ましさも抱かなかった。自分が踏み入って良い世界ではないと、本能的にそう感じた。だから、話しかけようとか後を付けてみようとかは一切思わなかった。そんなことは起こらないと自分の中の全部分が私に言った。その日、少年は一時間ほど舞うとすっと姿を消し、私も少し間を置いてから帰った。本当に、純粋な気持ちだけで没入できた。初めて抱くこの感じをどうしてもまた体験したくて、あの日から毎日同じ時間、同じ場所に、アルバイトが終わると店を飛び出して向かった。あの日は何かの幻で、もう二度と会うことは無いかもしれないのに、いつかまた会えるかもしれないというわずかな希望で、ベンチで発泡酒を一本飲んで毎日待ち続けた。そうして二週間がたった。まだ鮮明に少年のことは覚えているが、やはり全瞬間はさすがに思い出せなくなってきた。ああ、私はまたバイトで必死に生活を繋ぐ生活に戻るのかと、悲壮感にずぶずぶと飲み込まれ、沼の中で足を動かすように重い足取りで、それでもいつものベンチに向かった。ビリッと体に一発大きな衝撃が走った。あの日、少年がいた同じ場所に踊る影がある。消えてしまわないように、目を離すことなく早足でベンチに向かった。見つけた瞬間から分かっていた。あれほどまでに綺麗なものは今まで見たことがないのだから。鼓動が太鼓のように大きく鳴っているが、逃げてしまわないように出来る限り静かに近づいた。息をまともにするのを忘れていて、下手くそな息遣いでただひたすら少年を見ることだけに専念した。

—―ああ、もうなんて綺麗なんだ。

数分前まで自分を取り巻いて身を固めていたもの達が一瞬で失せて、私は何の余念もない、綺麗な世界に浸っていた。浮遊感と共に、意識が朦朧としていく。



「お姉さん、こんなところで寝ない方がいいよ。」


凛としているが、どこか感情が読めない声。怒っているのか、心配しているのか。まあ何でも良い。夏の夜の風は、一日浴びた熱を冷た過ぎない風で冷ましてくれる。今夜は、特に気持ちが良い。ずっと待っていた少年を見ることができたのだから。


「お姉さん、起きて。」


二回目。お姉さん。ああ私に言っているのか。頭がまだ起きていないので、言葉に素直に従うことにした。固いベンチに横になっていたせいで、起き上がると身体の節々が痛かった。首をいたたと抑えながらゆっくりと顔を上げていくと、金色のさらさらな髪から覗いた色素の薄い瞳と目が合った。あの少年が、私の目の前にいる。そして私を見ている。あの、夢にまで見た綺麗な少年が。こんなことあり得ない。それなのに、初めて見た少年の瞳がまた私をいとも簡単に惹きつけた。日の下では一体どんな輝きを放つのだろうと、まじまじと見入ってしまっていた。

「起きたね、ここで寝ない方がいいよ。気を付けて。」

それだけ言い残し、視線の先にあった瞳が一瞬で私を捨てて違う世界に向けられた。突如として、私は捨てられた女のように、まるで今まで愛されていたかのように縋った。

「ねえ!私の家、すぐそこなんだけど来ない?お礼にご馳走するよ。」

我ながら、なんて下心丸出しのナンパ常套句を言っているのだろうか。あり得ない、来るわけがないだろう、夜中に発泡酒入りのビニール袋を吊り下げてベンチで寝ている女の家になんて。ははっ、笑える。

「いいの」

あまりにぶっきらぼうに放たれたその三文字の意味を理解するまでに、少しばかり時間を要した。脳内会議を一瞬で済まし、それが‘’OK‘’を指していると判断した。こんな何かの間違いとしか思えない出来事は、正常な方向に正される前に本当にしなければ。私は、出来る限りの即答をした。もちろんだよ、と。

 家にあの綺麗な少年が座っている。とても、あり得ないことが起きている。あれだけ別世界の存在だと思っていた少年が、私の世界の本拠地で、私に染められたこの部屋で、私の手料理を食べている。こんなもの食べるのだろうかと、決して謙虚からではなく、ただ疑念に思って焼きそばを差し出してみたところ、食べた。それだけのことで感動した。少しは、同じ人間なのだなと思えた。「お邪魔します」と「ありがとう」と「いただきます」の三回だけ少年は口を開いた。それだけで良かった。楽園の蝶にも人間味があるのだと感じられた。私は、台所で何かしら手を動かしているふりをして、後ろをちらちらと見た。お風呂まではいいと断られたので、部屋に少年を残してお風呂に入った。今この瞬間までに起こった一連の流れを思い出して、嚙み締めた。別世界にいて、決して私から近づこうと思わなかった存在が向こうから近づいてきてくれた。今までにないほどの満足感と少しの優越感を覚えた。部屋に戻るとソファに少年は座っていた。日付はとうに変わり、興奮で忘れていた眠気が襲ってきた。ソファだけ借りていい、と少年に言われ、翌日まで居てくれる喜びを何とか堪えて掛布団を渡した。思えば、公園での私は、少年の人間としての素性を微塵も気に留めていなかった。私より年下であろう男の子が、こんな遅い時間にこんな女の家に簡単に転がり込んでいるのは普通ではないはずだ。親は、家は、お金に困っているのだろうか。そんなことを考えながら、また意識が遠のいていく。まあいい、明日聞いてみよう、彼さえよければずっとここに。

 翌朝、いつもよりすっきりと目が覚めた。そうだ、昨日は色々あった。少しずつ思い出しながら起き上がった。レースカーテンを開けて、窓も開けた。そうだ、今日は少年といっぱい喋ろう。昨日聞けなかったことも聞いてみよう。気分よくソファに向かい、呼びかけようとした。あれ、そういえばなんて言う名前なんだろう。今更ながらのことにふっと笑って、ソファの背もたれ側から覗き込んだ。


いない。


すーっと血の気が引いていくのを感じた。なんで、と部屋中探してみたがどこにも少年はいない。大して広い部屋でもないので、いないことはすぐに明らかになった。なんで、なんでと私はまた捨てられた女のざまになった。私に何も言わず何も残さず、静かに消えてしまった。これは怒りではない。洗い場には、昨日少年に出した皿と箸が洗われていた。幻ではなかったことに安堵しながら、じゃあなんでと再び繰り返す。確かに私はご馳走すると言っただけだったし、そのあと泊まってくれただけでも有難いことだった。そもそも、こんなにも近づけると思っていなかった。あの少年の目に私が映ると思っていなかった。なのに、それだけでは満足できず喚く自分がいる。名前を聞いておけばよかった。連絡先も。昨日の夜、もっと話して仲良くなっておけば良かった。なんでそうしなかったんだろう、馬鹿。馬鹿、馬鹿、馬鹿。

しばらく、ソファに頭をつけて座り込んでいた。時間が経つにつれ、沸騰していた頭が冷めてきた。なんで。なんで、私は彼を手に入れられると思っていたのだろう。彼を、手に入れたと勘違いしてしまっていたのだろう。どこまでも自由な楽園の蝶を、虫かごに捕まえられた気でいたのだろう。紋白蝶のように指でつまんで、かごに入れられると思っていたのだろう。有り得ないことは、分かっていただろう。

―――いったい何様のつもりだ。すごく厚かましい。

 なぜ、自分が網を持って蝶を捕らえる側だと思っていたのか。自分の方が大きく、優勢な立場だと思っていたのか。今の自分を、完全に棚に上げている。低い給料で必死に生活を繋ぎ、余裕一つない中何とか生きている自分。自分は果たして、何をしているのだろうか。何をしたかったんだろうか。羽すら持っていない自分は、紋白蝶にすらもなれていない。幼虫からは卒業させられ、一つの木に決めて留まってみたが一向に蝶になれる気配が無い。私はこのまま蝶になることもできず死んでいくのだろうか。それでいいのだろうか。

 本当はずっと、したかったことがあった。自分の好きなもので溢れた部屋で、時間とお金に追われることなく、のんびりと映画を見ながら大好きなお酒でくつろぐ。仕事にも追われることなく程よい稼ぎと充実感を得られるようなOL生活。今の生活とはほど遠い、私の理想。


本当に今のままでいいのか。


 いやだ。25歳。まだ舞える、まだ羽ばたける。どんな色、形になるかは見当もつかない。思ってもいないほど、不細工な蝶になるかもしれない。でも羽さえ手に入れれば、また別のところへ飛んでいけるのだ。すくっと立ち上がり、数年使っていなかったノートパソコンを引っ張り出してきた。検索に求人募集とかけ、‘’正社員‘’とだけ条件を打ち込みひたすらに画面をスクロールした。何時間だろうか、しばらく見ていた。久しぶりのパソコンに目が熱を持っている。

あった。自分が蝶になれそうな未来が。




 ふうっと白い息を吐きだして、大きな紙袋を忘れないようにしっかりと持って立ち上がり、家に向かって歩き出した。あ、違う違う忘れてた、スーパーに寄らないと。本来の目的を忘れてしまいそうだった。今夜は、鍋だ。間違って行きそうになっていた方向と反対方向に体を翻して、スーパーマーケットに向かう。さっき通った道に出て公園の外堀に沿って歩いていると、見慣れないポスターが貼ってあった。こんなの貼ってあったっけと不審に思ったが、何となく気になったので見てみることにした。


『-illusion-』第15回全日本社会人ダンスフェスティバル 


ポスターの上部には、そんなことが大きな文字で書かれていた。その文字の背景に写る三人のうちの一人を、私は猛烈に知っていた。綺麗な金髪を真ん中で分け、下ろしているよりも強調された色素の薄い瞳と目が合った。高野瀬琥珀。たかのせこはく。その人の下に書かれた名前だ。ああ。かつて私だけのものだと思っていた幻の蝶は、今もどこまでも自由に羽ばたいている。でも、私はもう笑顔でそれを見ていられる。捨てられた女の気持ちにはもうならない。私も自分なりの蝶になって、今は悠々と飛んでいる。いつかうっとりするような場所に着けば、あの蝶に会えるだろうかと少し期待して、飛んでいる。


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