勇気を与える魔法使い

やなぎ怜

勇気を与える魔法使い

 なにかをする「勇気」が欲しい。それを、だれかから与えられたい。……人間が抱く欲求としては、それはおどろくほど突飛なものではない。


 ナナリはかつて「勇気」を与える魔法使いだった。ナナリの右手は、触れるものを黄金にするような力はなかったが、触れた相手を奮い立たせる――「勇気」づける力がある。


 しかし「だった」と言うからには今はそうではないわけで、稀有な天賦の魔法を持ちながらも今は一介の、薬草煎じの魔法使いとして村はずれの森の中で暮らしている。


 多少の薬を卸して得られる収入では決して裕福な生活は望むべくもなかったが、ナナリは今の生活に満足していた。


 ただ、他人ひとと深くかかわることはやめていた。ナナリが、「勇気」を与える天賦の魔法を使えることを知っていて、かつ彼女の家をおとなうのは、今やウィオルだけであった。


 ウィオルはナナリの異性の友人である。ナナリと違い、領主に召し抱えられている立派な魔法使いで、普段は治水や架橋などの土木の仕事に従事しているとは本人の弁である。


 薬草煎じだって他人の役に立つ、立派な仕事のひとつではあったものの、ウィオルの仕事を聞くと、ナナリは感嘆を覚えずにはいられないのだった。


 半隠遁生活を送る自分より、ウィオルのほうが社会生活にこなれているのはたしかで、ゆえにそこに引け目みたいなものも感じてしまうのだ。ウィオルは一度として、ナナリとの関係に上下など決めつけたことはない。単にナナリが勝手に及び腰になってしまっているだけだ。


 それでもナナリはときおり、己がウィオルのそばにいるのにふさわしい人物かどうか、考えてしまう。


 ナナリとウィオルは友人だったが、しかしナナリの気のせいでなければ、互いにそれとは別の、友情だけではない――恋愛感情を抱いている。


 ハッキリと、問うたことも聞いたこともなかった。ナナリは何度も気のせいだとか、思い違いをしているだけだと己に言い聞かせようとした。


 けれどもウィオルの目が、指先が、態度が、声が、選んだ言葉が、ナナリを好きだと言っている……ように聞こえた。ナナリは学生時代からずっとウィオルを見てきたから、わかってしまった。


 ナナリもまた、ずっとウィオルに恋をしているからだ。


 けれども、一歩踏み出すことはお互いにしてこなかった。ナナリも、ウィオルの感情に気づきながらも、万が一勘違いだったときの、そのあとのことが怖くて、彼の本心を聞き出そうなどとは思えなかった。


 かつては愚かにも酒精の力を借りようともしたが、なんら進展はなかった。ナナリは馬鹿みたいに血迷って酒を呷って見たものの、なにも起こりはしなかった。当然だ。ナナリはウィオルの、いつだって穏やかで理性的で、優しい部分に惹かれたのだから、ナナリの行動は極めて愚かなものだった。


 ナナリは、そうやってウィオルが一歩踏み込んでくれることを期待しながらも、どこかでそれを恐れていた。それは矛盾しているように聞こえるが、ナナリの胸中ではそのふたつは隣りあって両立していた。


 ウィオルがもし、一歩踏み込んでくればナナリは喜ぶだろう。ナナリはウィオルを恋い慕っているからだ。


 ウィオルがもし、一歩踏み込んでくれれば、ナナリは怖がるだろう。ナナリは自分の魅力なんてわからなかったし、自信なんてものを持っていないからだ。


「この袋は?」


 ウィオルは昼前にナナリの家へやってきて、袋を差し出した。いつものように穏やかな笑みを浮かべたまま、「ハンカチだよ」と答える。「高いものじゃないから」と次にナナリが気にすることを先んじて口にする。


 ナナリが、そろそろハンカチを買い替えたいと言っていたのをウィオルは覚えていたのだ。ちょうど、森へ採集に入ったときに落としてしまったり、洗濯を繰り返して端がボロボロになっているのが、今日も気になっていたので、いいタイミングだった。


 ウィオルは他人をよく見ている。それはナナリと出会った学生時代から変わらない。適切なときに、適切な手を差し伸べられるウィオルのそれは、純粋に尊敬できる長所だった。


「ありがとう。お礼になるかわからないけど、お昼食べて行く?」


 ナナリは真新しいハンカチを手に礼を言う。「高いものじゃない」と言いつつも、明らかに粗末な出来でもなかった。他人に贈るのだから当然と言えば当然ではあったものの、ついつい値段を想像してしまう思考を頭から追い出しつつ、ウィオルに問うた。


 ウィオルは柔らかく破顔して「ナナリが困らないなら」と答えた。ナナリは、自分の心が浮き上がって、体までふわふわと落ち着かない気持ちになるのが、わかった。


「……実は、今日はナナリに伝えておきたいことがあって」


 向かい合って、昼食を食べ終えようかというときに、不意にウィオルが真剣な顔をしてそんなことを言い出した。悲観的なナナリは心臓を跳ねさせて、一瞬のあいだに様々な言葉を予想する。――たとえば、「結婚する」とか。


 しかしナナリがいくつか想像したウィオルのセリフは、幸いなことに全部外れた。


「ハスピナに会ったんだ」

「ハスピナ……。……それは、わたしの知っている、ハスピナ?」

「……私たちの同級生だったハスピナだよ。今日、測量先の村で会ったんだ」


 ナナリの脳裏に、あどけなさを残した笑みをたたえる親友の顔が浮かんだ。ハスピナはたしかにナナリの親友だった。しかしもう七年は会っていない。今はきっと昔より大人びた顔をしているだろうが、ナナリはそれを上手く想像できなかった。


「『ナナリに会いたい』と言っていたけれど、君の了承を得ずに勝手に家を教えるわけにもいかないから……」

「……ありがとう、ウィオル。その……ハスピナは、どんな感じだった?」

「そのときは、息子さんをふたり連れていたよ。五歳と三歳だって。――幸せそうだった」

「そう……」


 ハスピナは、在学中に寮に退学届けと短い書置きを残して失踪した。表向きはそういうことになっているが、生徒たちのあいだでは「駆け落ちをした」ということは有名だった。


 ハスピナが駆け落ちをする直前に、ナナリは彼女に右手で触れた。親友であるハスピナの望みを叶えて、彼女に「勇気」を与えたのだ。七年前の、学生時代の話だ。以来、ハスピナからは一度だけ「無事だ」という内容の手紙が来たきり、会っていない。


 ハスピナが駆け落ちをしたのは、ナナリが「勇気」を与えたからだ。その明白な事実にナナリは耐えられなかった。歳を経るほどに安請け合いすべきではなかったと、あとから思い悩んで――。……だから、「勇気」を与える天賦の魔法を封印した。


 ウィオルにはそのことを話してはいなかったものの、聡い彼のことだから、とっくに気づいているだろう。なぜなら、ハスピナが駆け落ちして以来、今までに一度としてウィオルは彼女の名前をナナリの前では出さなかったからだ。


 それでいて、彼は決してナナリとの縁を切ろうとはしなかった。むしろナナリがやんわりと離れようとしても、彼はその手を放そうとはしなかった。ナナリはそれを複雑に思いながらも、本心では喜んでいたのが、事実だ。


「どうする? 明日また彼女のいる村には行くことになっているんだけれど」

「……わたしが、その村に出向いたほうがいいかな?」

「うーん。ハスピナは、君がいいと言うなら君の家に行きたいと言っていたよ。そんなに大きな村じゃないから、ご近所さんの目とかもあるだろうし……」

「あ、そっか。じゃあ……使い走りみたいにして悪いけれど、ハスピナにわたしの家の場所を教えてあげてくれる?」

「もちろん」

「……ありがとう」


 ウィオルにそう頼んで数日後、ハスピナから手紙がきた。七年ぶりでもハスピナのものだとわかる、懐かしい文字の羅列。それを見て、この紙一枚の向こう側にハスピナがいることを想像し、ナナリは奇妙な郷愁に襲われた。


 彼女からの最後の手紙は寮に送られてきて、現在は卒業しているために当然転居していたから、ハスピナも手紙の送り先には困ったことだろう。一方、ナナリもハスピナとは上手く連絡を取れずじまいだった。ハスピナは駆け落ちしたのだ。自らの居所を書きつけた手紙を送るわけにもいかない。


 ハスピナの両親はしばらくかんかんになって、それでもすぐに箱入り娘は頭を下げて戻ってくるだろうと高を括っていた。けれどもそうはならなかったので、しばらくすると遅まきながらに方々を捜させていたが、ハスピナはそれを今日まで上手くかわせていたようだ。


 ナナリが、ハスピナの一番の友達だったことは周知の事実だったから、ナナリもハスピナの両親にはずいぶんと詰められた。とは言えど、ハスピナが居所を伝えてこなかったのは先述の通り。ナナリは、彼女の両親に与えられる情報などなにひとつ持ってはいなかった。


 ――そういうわけで、ハスピナからの手紙を受け取るのも、実に七年ぶりのことだった。


 ……そして、同じ机を囲んでお茶をするのも。


「久しぶり」


 ハスピナが持ってきた茶菓子を木で出来たボウルに入れる。白い茶器に満たされた紅茶からは、かぐわしい香りと同時に湯気が立ちのぼっていた。学生時代はお菓子とお茶を持ち寄って、寮の談話室で他愛のない話に花を咲かせたものだ。


 けれども今目の前にいるハスピナは、どう見たって学生と呼べるような年齢ではなかったし、翻ってナナリもそうだ。それにハスピナはもう二児の母である。立派な大人の顔をしていると、ナナリは思った。


「ねえ……今、どう?」


 言葉足らずなナナリのセリフを受けても、ハスピナは戸惑ったりはしなかった。


「幸せだよ」

「そっか……」

「でも、ナナリはそうじゃないみたい」


 七年前よりも大人の顔をして、ハスピナは続けて言う。


「……もう、だれにもを使ってないって、ウィオルから聞いた」

「うん……」

「それって、私のせいだよね? ……ううん、疑問形じゃなくて……私のせいだ」

「……仮にそうだったとしても、決めたのはわたしだから……」

「ごめんなさい」

「ハスピナ――」

「ナナリのせいじゃないよ。これは言いたい。ナナリにあの魔法を使ってもらうと決めた時点で、しないことで後悔するより、したことで後悔したいと思ったから。でもそのときの私にはたいそうな『勇気』はなくて……。だから、ナナリの手を借りた。――でも、今はすごく残酷なことをしたと思うよ」


 ハスピナは眉を下げて、それでもナナリからは目を背けずに言葉を続ける。


「――そうやって、悲しそうな顔をするナナリだから、手を借りたかったんだと思う。『勇気』を与えるだけ与えて、その結末には知らんふりを決め込むことだってできる。『勇気』を与えられても、なにを選び取るかはそのひと次第なんだから。でも……それができないナナリだから……そんなナナリだから、私は他でもないあなたに背中を押してもらいたかったんだね……ごめんなさい」


 ナナリは、静かに首を横に振った。


「謝ることないよ。わたしも……この天賦を持つことでいい気になってたところは、あるし」


 ナナリは、ハスピナを見た。ようやく、昔のようにまっすぐに彼女の顔を見れた、と思った。


「子供、だったんだ」

「……そう、子供だったね」


 ナナリは、他者に「勇気」を与えたことによって、どんな未来がやってくるのか、それをあまりにも楽観視していた「子供」だった。


 ハスピナは、友人の手を――ナナリの手を借りることで、ナナリが罪を背負うことになるとはまったく考えもしなかった、無思慮な「子供」だった。


 ふたりとも、いろんなところが未成熟な「子供」だった。それでいてその当時は、そんなことに気づけはしなかった。


 けれども――。


「……でも、ハスピナに幸せになって欲しくて天賦を使った気持ちは、今も変わらないって気づいた。――ねえ、もう一度聞いてもいい?」

「どうぞ」

「今、幸せかな」

「うん。幸せだよ。……駆け落ちした直後は本当に大変だったけど……私ってほんと世間知らずのお嬢様だったし。……でも、ずっとこの左肩に……ナナリの触れた肩のところに、私の『勇気』がある気がして……だから、折れることはなかったよ」

「そっか……」


 ナナリがようやく口元を緩めると、ハスピナの目元も柔らかくなった。


 口をつけるタイミングを失した紅茶からは湯気が立ちのぼらなくなっていたが、代わりとでもいうように旧交を温めることはできた。


「……それで」

「ん?」

「ナナリは、ウィオルとはどうなの?」

「え?」

「ウィオル、私がだれなのかわかってもすごく警戒してた。ま、それは当然だけど……よほどナナリのことが大事なんだなって思って」

「ええ?」


 ようやく口をつけたぬるい紅茶が、ナナリの気管に入りかけた。


「……そう見える?」

「あれ、まんざらでもないんだ。ってことはもうお付き合いはしてるの?」

「いや……だって、勘違いだったら恥ずかしいし」

「勘違いじゃないね、あれは」

「そう」

「反応薄いなあ。もしかして迷惑してる感じ?」

「そうじゃないけど……でも」

「うーん……あ、そうだ」


 ハスピナはイスから立ち上がって、机を回り込みナナリの左斜めうしろに立つ。そうしてから、不思議そうな顔をするナナリの左肩を、右手でぽんぽんと軽くたたいた。


「『勇気』が出る魔法。――私にはそんな天賦はないけれど……親友に幸せになってもらいたい気持ちは同じだから」


 ナナリは目を丸くしたあと、視線を上に向けた。そうしないと、まなじりから温かな涙がこぼれ落ちてしまいそうだったからだ。


「『勇気』を与える魔法使いが、『勇気』をもらうなんてね」


 ナナリは無理矢理に笑顔を作ってハスピナを見た。ハスピナは、それになにも言わずただ微笑み返してくれた。




 後日、ナナリは勇気を出してウィオルに気持ちを伝えることにした。けれども次の来訪時に、やにわに想いを告げてきたのはウィオルで――。


「『勇気を与える魔法使い』に会ってね」


 そう言ってはにかむウィオルを見て、その魔法使いの正体が親友のハスピナだとナナリが察するのに、そう時間はかからなかった。

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