奇形の愛

はるのそらと

 細く長い煙。天上から落ちてきた蜘蛛の糸と見間違えそうなそれが、ふいにちぎれた。

「来ました」

 張りつめた空気の中、平坦な声がやけに響く。巫女服を着た妙齢の女は、衣擦れの音を立てながら祭壇に背を向けた。

 煙が上がる短い蝋燭は、何度も繰り返し使われたのか、溶かされた蝋が幾重にも重なり、歪な形をしている。祭壇には、人名が書かれた人型の和紙が、数枚置かれていた。

「本当ですか!」

 期待に満ちた声は、祭壇の下からあがった。色あせた藍色の着物を来た二十代後半の女は、一瞬やつれた顔に生気を宿す。

 立ち上がろうとした女に「動かないでください」と巫女服の女がぴしゃりと言い放った。

「赤子はあなたの元へ行こうとしています。それとも蹴り飛ばそうとしたのですか?」

 そう言えば、女は真っ青な顔をしてその場にとどまった。「どこ、どこなの」と女は言葉をこぼしながら視線を巡らせる。が、女の目に生後二ヶ月足らずで神の元へ戻った我が子の姿は見えない。

 ――嘘を吐いておるな。

 最初に思ったのは、目の前の光景に関する率直な感想だった。巫女服の女は、降霊術を行ったのだろう。立ちこめる香の匂いの中に、焦げ臭さが混じる。見れば、奇形した蝋燭の近くに人型を燃やした形跡があった。

「今、あなたの手の中に入りましたよ」

 巫女服の女がそう言った途端、女は声をあげて泣き出した。己の体をかき抱くように、両腕に力を込めている。

 ――なんという外道。

 ここに赤子の魂はない。そう断言できるのは、自身が彼女らと違う存在だと自覚しているからか。

 ――どうやらそれがしは、あの女に降ろされたようだ。

 過去の記憶はなく、肉体もない。誰の目にも留まっていないだけでなく、ここがどこでどういう状況なのかもわからない。だが、不思議と不安はなかった。こんこんと積もる雪を頭にかぶせた、地蔵のような気持ちだ。

「ありがとうございます。本当に、なんとお礼を申し上げればいいのか」

「いいえ。これは、ほんのひとときの奇跡です。後悔がないようにお過ごしなさい」

 茶番とも言えるやりとりを眺めていれば、女は金の入った袋を置いて帰って行った。女の足音が聞こえなくなった瞬間、巫女服の女は食らいつくようにその袋を掴み、ひっくり返す。床に転がった銭を数え終わった途端、刺すような舌打ちが響いた。

「死んだ子供に会うためなら、もっと出せるだろ。元遊女なんだから」

 ぞわり、と肉体を持たないはずなのに鳥肌がたつ。鬼のような女だと思った。

 さっさとこの場から離れよう。今にも途切れそうな煙のように、宛もなく遠くまで行こうとしたが、どういうわけか遠くへ行けない。ふと、女につながる細い糸を見つけてしまった。

 ――なんてことだ。

 中途半端に成功した降霊術は、巫女服の女と離れることを許さなかった。ただ、煙のように細く、今にもちぎれそうな糸だ。時間が経てば、自然とこの縛りが消えるのは明白だった。

 巫女服の女は、その場で継ぎ接ぎだらけの着物に着替えると、祭壇をそのままに金だけ持って外に出た。途端、体が引っ張られるようについていく。抵抗することは無駄なようだ。

 振り返って驚く。

 ――この女、まさか神を奉る神聖な場所であのようなことをしていたのか。

 鳥居を見つめながらぞっとする。決して大きな神社ではないが、修繕された跡を見るに大事に扱われていることは一目でわかった。

 祭壇も本来は神を奉るためのものだろう。

 ――なんと罰当たりな。

 この縁が切れるのを待っているのも嫌になる。が、どうするすべもない。引きずられる犬の気持ちで女の後ろをついていく。

 空を見上げれば、茜色に染まっていた。端を藍、紺と縁取った空は、もうすぐ夜が訪れることを告げていた。

 ――それにしては、人通りが多いな。

 着膨れしている人々を眺めていれば、煌々こうこうと明かりを灯した屋敷を見て納得する。着飾った女性たちが道行く人々に笑顔を振りまいていた。

 ――なるほど。ここは花街か。

 では、この女は遊女だろうかと思ったが、すぐに違うと考えを否定する。女の顔は険しく、肩をいからせるように歩く。加えて、警戒する猫のような目つきで周囲を睨みつけていた。不思議に思ったのは言うまでもない。

 切れぬ縁に引きずられたどり着いた先は、花街の裏側。煌びやかで美しい女たちが豪奢な衣装で微笑む表と異なり、ここで暮らす人々は骨と皮だらけの身を薄い衣で包む。強い光が濃い陰を生むように、花街にも陰の部分が存在する。決して豊かではない、その日の暮らしで精一杯な人々が暮らすゴミだめのような場所だ。

 ――この女、裏の住人か。

 それならば、早足で戻ってきたことにも納得がいく。

 女はそんな場所にありながら、比較的丈夫そうな小屋に入った。

 その瞬間——。

「お帰りなさい、ともえさま」

 陰であるこの場所に不似合いな高く軽やかな声で女を出迎えたのは、とおになるかならないかくらいの女童。髪をひとつに結った童は、高級な屋敷の主人を迎え入れるかのように、正座をし深く頭をさげる。

 巴と呼ばれた女は、小さな体で礼儀の限りを尽くす童を無視し、さっさと小上がりに上る。

 六畳ほどの小屋の中は、女と童が暮らすには狭い。敷きっぱなしの薄い布団の上に巴が座れば、童はかめから水を掬い、巴に渡した。巴は礼も言わないどころか、目線すら合わせずそれを受け取り、一気に飲み干す。

「まったく、割に合わない仕事だった。——地味な着物を来ているから嫌な予感はあったんだ」

 巴は吐き出すように言う。よっぽど気にくわなかったらしい。人の気持ちを利用しておいて、なんという言い草か――と眉をひそめたときだ。

 目が合った。

 巴とではない。女童とだ。大きな黒い瞳は、穴があくのではと思うほどじっとこちらを見ている。

 一瞬硬直した童だったが、すぐさまかめまで向かうと欠けた茶碗に水を入れ、こちらへ差し出してきた。

「どうぞ」

 そう言った途端、巴が「なにをしているんだい!」と大きな声を出した。小さな体が、飛び上がる勢いで跳ね上がる。

「え、あ、あの――お、お侍さまに、お水を――」

「どこにそんなものがいる!」

 そう言って、童の持つ茶碗をはね飛ばした。水が童の胸を濡らす。

「変なことを言うんじゃない! 侍はいない! そもそも男に会うことを禁じているはずだ」

 ――なんと非道な。

 哀れみの眼差しを童に向ける。烈火れっかのごとく怒り散らした巴は、「さっさと寝ろ」と言い捨てて部屋の明かりを消し、床に入ってしまった。童は、真っ暗になった部屋の中で、もぞもぞと着物を脱ぐ。濡れてしまった体を拭うためだと気づき、そっぽを向こうとしたそのとき。視界に入ったものを見て、思わず声をかけた。

「お主、男か」

 この年頃の童ならば、多少の性差は生まれる。しかし、真っ平らな胸を見た瞬間、顔立ちもよく見れば男のように見えてきた。

 童は、常人には見えない存在の声も聞こえるらしく、静かにうなずいた。

「なんてことだ」

 巴という女は、子を亡くした母親から金を巻き上げるだけでなく、男児に女児の格好をさせ下女にしているらしい。顔立ち――特に目がまったく似ていないことから、二人に血のつながりがないことは明白だった。

 ――捨て子を奴隷にするか。

 静かな寝息を立てている女を睨みつけている間に、童は巴の眠りを邪魔しないよう、部屋の隅に移動すると薄い毛布にくるまりながら身を丸める。すきま風が冷たい夜だ。寒さはしのげないらしく、童は何度も寝返りを打っていた。


 明くる日。日の出よりも早く起きた童が、まだ寝ている巴の横を通りそっと外に出た。近くにある共同の井戸場に行くと水をくみ、顔を洗う。

「お主、なぜ逃げない?」

 そう問いかければ、童は子猫のように首を傾げた。

「どうして逃げるんですか?」

 ぐっと唇を尖らせる。

 子供がひとりで生きていけるほど、容易い世の中ではない。むろん、目の前の童がそれを理解して言ったわけではないのはわかる。

 こみ上げるものに突き動かされるまま、言葉を吐き出そうとしてやめた。代わりに大きなため息を吐く。

「お主、名は?」

 途端、沈黙が周囲を支配した。まさか、名もないのかと思ったそのとき「思い出しました」と童は言う。

「さく。確かそうだったと思います」

「あの女——巴がつけたのか?」

 童は深くうなずいた。名付け親ではあるらしいが、本人がこの調子では、滅多に呼ばれることのないのだろう。

「お侍さまは?」

 一瞬、なんのことかさっぱりわからなかった。さくにもそれが伝わったのだろう。「名前です」と言葉を付け足す。

さむらい〉と呼ばれた男は、ゆっくり首を横に振った。生前のことは何一つ覚えていない。語れることはなかった。

「そうですか」

 悲しげに目を伏せたさくに、男は「それがしは侍なのか?」と問い返す。すると、さくは不思議そうに首を傾げながら「刀を腰に差しているではないですか」と言った。

「そんな立派な刀を持って出歩く人は見たことがありません」

 それを聞いて、やはり自分はこの時代の人間ではないのだと妙に納得した。同時に、本来あるべき姿でもないのだろうと察する。

 ――この異様な状況は、時間が解決するだろう。

〈侍〉は腕を組みながら思う。ならば、この世を眺めているのもまた一興、と。


   ◇


 巴とつながってしまったえんは、一ヶ月もしないうちに解ける――そう思って二ヶ月が経った。相も変わらず細く、今にも切れそうなのだがなかなかにしぶとい。

 巴は花街の外れで占いや賭博、降霊術などを行って日銭を稼ぐ、いろんな意味で強かな女だ。相手はもっぱら花街に来た者や住む者たち。たまに遊女が自身の運命を占いにやってくるが、もはや変えることができない運命を背負った彼女らが、占いを本気で信じているのかはたまた気晴らしの遊びなのかは、端から見ている者にはわからない。

 客のほとんどは夜に来るため、巴の生活は夜起きて朝眠る。ただし、仕事のない夜は巴もする事がないからか、さっさと家に帰り寝る。家事はいっさいしない。

「巴さま、朝食の準備ができました」

 日が昇る前からかまどに火を入れ、小さな手で研いだ米を炊き、井戸まで行ってくんだ水で湯をわかす。巴の身の回りの世話は、すべてさくが行う。この二ヶ月間、巴だけでなくさくのことも見ていたが、さくは自身が不当な扱いを受けている自覚がないのか、不満を口にすることは一度もなかった。

「お前は今年、十になったね」

 朝食を取りながら、巴は言う。

 きょとんとした表情で見返すさくに構わず、巴は言葉を重ねた。

「井戸場の向こうへ行ってもいい。ただし、今までと同じように男とは言葉を交わすなよ」

 途端、端から見てもわかるほどにさくの表情が喜びで溢れかえった。春が来て、一気に花がほころんだようだった。

 よかったな、と胸の内でさくに話しかける。時折、さくは井戸の向こうがどうなっているのか聞いてくる。花街の説明をさくにするには少々荷が重い。言葉を濁し、その場をやりすごしていたが、どうやら誰かが説明するよりも実際に見て感じることになりそうだ。

 それでいいと思う。子供とは好奇心で失敗を繰り返し、大人になるものだ。だが、さくは律儀に言いつけを守り、一度も井戸の向こうには行ったことがない。まるで鳥籠の中にいるようだ。

 巴は、さくを外に出したがらない。未婚の女が子供と暮らしていることを隠したかったのか、それとも下手に知恵をつけられたら困るからか。おそらく、その両方だろう。

「よかったな」

 周囲に誰もいないことを確認し声をかければ、さくは大きくうなずいた。鳥籠が少し大きくなったようなものだが、それでも小さなさくにとっては、大きな変化だ。

 それから巴の教えもあり、さくは簡単な使いを任されるようになった。新しいことを覚え、成長を実感することは、いくつになっても嬉しいものだ。元々、よくしつけられているさくは、あっという間に花街の住人にも顔を覚えられるようになった。

「ねえ、お侍さま」

 巴が占い客の相手をしているとき、井戸のあたりを宛もなくうろついていると、食材を抱え戻ってきたさくに話しかけられた。

「なんだか今日は街がにぎやかですが、どうしてですか?」

 すっと大通りの方へ視線を向ける。見なくても、花魁道中か、はたまた身請けされた遊女の花道だろうことは察することができた。しかし、踏み荒らされる前の雪原と同じくらい無垢な童に、うまく説明できる自信はない。いずれ知ることだろうが、今はその美しく尊い心を自らの言葉で汚したくはなかった。

「めでたい日なのだろう」

 さくは、大きな瞳で〈侍〉を映す。素直で純粋な童以外、見える者はいない存在を。

 そんな熱い視線にいたたまれなさを感じながら、咳払いをひとつする。

「祭りのようなものだ。皆、はしゃいでいるのだ」

 そう言えば、さくは「まつり?」と首を傾げた。

「み、皆で祝う日のことだ」

 言葉を重ねれば、さくは理解したのだろう。「みんなで、お祝い――」と呟くと手にした食材を隣接している小さな小屋に置き、脱兎のごとく走り出した。

「おい! どこへ行く!」

 小さくなる背中に言葉を投げるが、さくは聞く耳を持たない。慌ててその後を追いかけたが、大通りに出る前に体が止まる。たるんだ糸がぴんと張ったように、前へ進めなくなった。忌々しげに体から延びる細い糸を睨む。縁に実体がないように、巴と〈侍〉を縛るこの糸も延びている箇所は決まっていない。背中から延びていることもあれば、腹や腕から延びることもある。

 どうすることもできず、やきもきしながら井戸の周りを何度も回っていると、頬を紅潮させたさくが戻ってきた。女物の着物で走ったさくは、薄い肩を上下に動かしながら必死に息を整える。ふと、そのあかぎれた手に握られた青い色の花に目が止まった。

 見たことのない花だった。透き通るように青い小さな花弁は、物語に出てくる人魚の鱗のように美しく日の光を優しく反射する。小さな花だが、泡のように複数咲き集まっているせいか、華やかで愛らしい。

 驚いていれば、「今日はおめでたい日なんでしょう?」とさくが無邪気な笑みを浮かべた。

「綺麗な花があるだけでも、特別な気分になれるから」

 それは自身のことだけではなく、巴のことも思っての発言だとすぐに察した。さくにとって、生活の中心は巴だ。自身の利になることがあっても、さくは巴を優先させる。

「——さくよ。なぜそこまで巴に尽くすのだ?」

 心からの疑問を口にすれば、さくは出会った頃と同じように首を傾げる。

「つくすとはなんですか?」

〈侍〉は一度口をつぐむと、そっと息を吐いた。

「——優しくすることだ」

 そう言えば、さくは理解したと言わんばかりに表情をゆるめる。

「巴さまが、優しいからです」

 今度は〈侍〉が首を傾げた。どう見ても優しいとは思えない。

「巴さまは、わたしを拾ってくれました。それに痛いこともしてきません」

 たしかに、巴がさくに手をあげる場面は見たことがない。だが、そこに愛情を感じることはなかなかに難しい。

 ふと、さくの愛らしい笑顔に陰りが差した。長い睫毛が陰を作る。どうしたのかと眉根を寄せると、さくは小さな声で言う。

「巴さま、喜んでくれるでしょうか」

 胸に突き上げる温かな感情を人は〈愛おしい〉と呼ぶのだろう。小さな頭を触れられないことに空しさを覚えながら、言葉を尽くす。

「心配することはない。巴が人の心を持っているならば、お主の気持ちは十分に伝わる」

 しかし、さくの心は巴に届かなかった。

「なんて汚い花だ」

 巴は、さくが飾った花を見た瞬間顔を歪ませる。そのとき、さくがどんな顔をしていたのか。直視することができなかった。

「こんな無駄なことに労力を割くんじゃない」

 巴がぴしゃりと言い放った瞬間、さくは涙を堪えながら飛び出した。

「お前には人の心がないのか!」

 届かないとわかっていても、叫ばずにはいられなかった。食料庫の角でうずくまり、静かに涙を流すさくの隣に座る。

「お主はなにも悪くない」

 だが、どんなに言葉を尽くしても、さくが泣きやむことはなかった。

 それからさらに一ヶ月後。葉桜の瑞々しい緑を風が贅沢に揺らす季節に、さくは巴に呼び出された。そして――。

「今日からこの人がお前の面倒を見る」

 巴の横に座る初老の女は、年の割に厚めの化粧をし、鮮やかな色の着物を上品に身にまとう。遊女屋の女主人だと一目でわかった。女がぼろ衣のような巴の隣に座ると、世の中に存在する越えることのできない壁というのを嫌というほど感じる。

 女は無表情でさくを見つめる。その視線は、物を品定めしているようだった。

 さくは青白い顔をしていたが、感情を読みとることはできない。

「さくよ、お主はまだわがままを口にすることが許される。遠慮などするな」

 思わず声をかけたが、さくはなにも言わず手を床に着き、頭を深く下げた。

「おせわに、なりました」

 誰の目にも映らず、声も届かない存在にできることはそう多くない。これは彼が決めたことだとわかっていても、己の無力さを痛感する。

「考え直せ、巴!」

 しかし、当然のことながら巴に声は届かない。

 さくは老女につれられ、巴の元をあっけなく去っていった。その後ろ姿を追いかけたかったが、細くとも縁がつながっている今、〈侍〉が巴の元を離れることはできなかった。


   ◇


 それから一年後、巴は町外れの小さな神社にこもっていた。そこは約一年ほど前、巴が降霊術を行い、嘘偽りを述べ金を稼いだ場所だ。

 歪な蝋燭にもう長さはなく、溶けきった蝋しかない。それでも、巴は何度も人型に名を書いた。

〈さく〉と。

 さくが死んだという話が巴の耳に入ったのは、桜が満開になる手前。日差しが暖かく朗らかな気持ちにさせる季節がやってこようとした頃だった。

 それからというもの、巴は来る日も来る日も降霊術を行っている。

 そのことを知るのは、たったひとつの存在。さくから〈侍〉と呼ばれた者は、目元を歪ませ痛々しげな表情で巴を見つめている。

 巴との縁が切れたのは、今から約半年前。晩秋の頃だった。それからずっとさくの周りにいたので、〈侍〉はさくの死に際を知っている。

「——どうして」

 巴は何度めかわからない言葉を吐く。

「あの子の目が青いなんて、あたしは知らない!」

〈侍〉は、唇をきつく結ぶ。

 さくの瞳は、透き通るような青色だった。


「実は、ほんの少しだけ母さまの記憶があるのです」

 再び会いまみえたとき、さくは人目を忍んで語った。遊女屋に引き取られたさくの顔は青白く、目には深い陰が差し込んでいた。人形のようだと思いながら、小さな唇が紡ぐ言葉に耳を傾ける。

「今思えば、母さまはいっしょうけんめい、わたしを愛そうとしたのでしょう。——でも、できなかった」

 神社で待つよう言われたさくは、ずっと母の迎えを待っていた。けれども、どれだけ朝が来て夜が巡っても母が迎えに来ることはなかった。衰弱しきったさくを助けたのが巴だ。

 ただでさえ異人の子は迫害される。

 自分を生かすのに精一杯なこの時代において、捨て子を哀れむ心はあっても、自身の命を脅かしてまで助けようとする者はまれだ。

 だが巴は、消えそうな命の灯火に手をのばした。

 保護する者がいたとしても、簡単に消えてしまうのが子供だ。巴は、もう戻ることはない故郷の習慣にのっとって、男の子であるさくに女装をさせた。しかし、ここは花街。欲望の塊が多方面からいやというほど集まる。だから巴はさくを家に閉じこめ、男と言葉を交わすなときつくしつけた。

 巴の稼ぎで二人を食いつなぐことは難しい。時には外道だと思われることにも手を染めたことは用意に想像できた。

「——巴さまに会いたい」

 さくは両膝を抱え、あふれんばかりの思いを込めて呟いた。

 遊女屋には多くの人間が出入りする。暗い押し入れの中でしか、さくと言葉を交わすことができない。その現実に、〈侍〉は奥歯を噛みしめた。

「——戻ればいいではないか。巴の元に」

 しかし、さくは首を横に振った。

「巴さまは、わたしに不自由のない生活を送らせるため、ここへ引き渡したのです。——部屋から漏れる奥方様たちの会話を聞きいてしまいました。わたしは――巴さまの期待に応えたい」

「しかし! 今のお主の状態は、巴の望んだものとは違うだろう」

 花街には、用心棒をしている男や遊女の身支度や調度品を整える男など、花のような彼女らを支える男たちがいた。巴はさくにそうなってほしかったのだろう。しかし――。

青乃あおの、ご指名だよ」

 遠くから呼びかける声。途端、さくの表情が強ばる。

 青乃——それがここで与えられたさくの名。もう、彼をさくと呼ぶ者はいない。

「——いかないと」

 強ばる指先を戸の縁にかける。

「待て」

 さくを止めなければ――そう思っているのに、そうさせるだけの力を持つ言葉が浮かばなかった。

 さくは、吹雪の中に咲いた花のように、儚げに微笑む。

「お侍さま、巴さまに会ったら伝えて。——わたしはあなたに会えて本当によかった、と。あのときは頭が真っ白で、お礼が言えなかったから」

 無理だと伝える前に、さくは押し入れから飛び出した。

 追いかけたかったが、さくの気持ちを思い、その場に残った。

「——それがしの声は、お主以外には届かないのだ」

 誰にも聞こえない言葉が落ちる。

 それからまもなく、さくは死んだ。酒癖の悪い客が振るう、容赦ない暴力から遊女をかばって。


「あおってーーあおってなんだい!」

 巴の頬を涙が伝う。

 生まれたときから青色を認識できない巴に、そのことを指摘する者はひとりもいなかった。だが、それが一人の人間を救った。たとえ、つかの間のことだったとしても。

「許しておくれ。——さく」

 そう振り絞るように巴は言う。

 すっかりやせ細り、衰えた巴の元に、さくの魂はない。神社の隅に立つ奇形の桜へ視線を向ける。巴とさくは、あれとよく似ている。互いを想うあまり、まっすぐ歩み続けることができず、歪み、曲がってしまったふたりの人生に。

 そのとき、隙間風が蝋燭の炎を消してしまった。溶けてしまった蝋に火を灯すことは難しい。巴はゆっくり立ち上がると、おぼつかない足取りで外に出た。

 外のまばゆさに、目を細める。

 ふいに背後の桜の木が風で大きくしなった。さわさわと音を立てるそれに視線を向けた巴は、次の瞬間大きく目を見開く。そして飛びつく勢いで駆け寄ると、桜の根本にしゃがみ込んだ。着物が汚れるのもいとわず、両膝をついた巴は、桜の根本に咲いた花に手を伸ばす。

 青い小さな花弁の花——勿忘草わすれなぐさ

 本来、この地では咲くことのない花だが、巴はこの花を知っている。

「——さく」

 お祝いの日ならばと、さくが飾った花。巴には汚い色の花だったそれを、彼女は目元をくしゃくしゃにしながら見つめる。

「もしかして、これが青なのかい?」

 震える声で問いかけるように呟かれた声は、風に乗って消えていく。勿忘草が、肯定するように揺れた。

「さくは、お主のことを愛していた」

 届かないとわかっていても、言わずにはいられなかった。

 透き通るほど青い空を割るように、胸を裂くような慟哭が響きわたった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

奇形の愛 はるのそらと @harusora

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ