04_ ホワイトダーク・ダイアモンドダスト Ⅰ




 北の森ヴォラスでの暮らしは、一年を通してあまり変わり映えがしない。

 視界に映るのは、ひたすらに白い雪と黒い針葉樹林で、色彩というモノに欠けている。

 たとえ天気のいい昼間であろうと、年中覆いかぶさる分厚い雲のせいで、長老たちから噂に聞く青空などは、一度として拝めたためしが無かった。


(一面の銀世界、なんて言ってみれば、多少は聞こえが良くなるかもしれないですが)


 凍てつく冬の寒さ。

 採れる物の少ない自然。

 火を禁じられた生活に、獰猛なダイアウルフ。


 およそひとが生きていくには、あまりに厳しすぎる北の森ヴォラスでの日々。

 一日の内に日の昇っている時間はとても短く、天気が悪ければロクに周囲も見渡せない。

 ホワイトアウトは最悪だ。

 無駄に彷徨い体力を消耗すれば、容易に命を落としかねない白き死神。


 白銀の世界なんて、闇も同然である。


 十六年間生きてきた中で、ルキアはこれまで心から自由を感じたコトがない。

 自由。いや、この場合は開放感と言い換えた方が妥当かもしれないが、エルフとして生まれ、雪の牙一族の九十年間でようやく産まれた希望の若芽。

 物心つく前から、周りにいる成木たちはルキアを、そう尊ぶように呼んできた。


 厳しい暮らしの中では貴重なはずの食べ物も。

 着るのに暖かな上等な毛皮や、貴重な鉱物で拵えたナイフなど、日常に役立つ道具類。


 ──ようやく産まれた我が一族の若芽。

 ──かわいい子だ、大切に育てなければ。

 ──よく食べて、よく眠り、健やかに、そして何より丈夫になっておくれ。


 愛情深いと言えば、まさにその通り。

 愛されずに育てられるより、愛を注いで育てられる方が万倍もいいのは分かっている。

 ルキア自身、一族のことは大事だし、優しい彼女たちに報いてあげたい気持ちは当然大きい。

 彼女たちが望む自分でありたいと心から思うし、そうあるべきだと教えられてもきた。

 だが、だからこそ、自分の中の奥深く、無意識に近い場所で、密かにこう思っている自分もいる。


 ────重い。


 北の森ヴォラスでの生活も、一族から向けられる期待も。

 時代が悪いと片付けるのはすごく簡単だ。

 人間に追われ、種族古来の土地を失い、奉ずるべき守り神も消え失せた。

 今こうして目の前にあるのは、何もかもが苦しい現実だけ。


 豊かさとは無縁の厳しい北の森。

 人目を忍び、隠れるように息を潜める毎日。

 牙の神オドベヌスは生贄を求め続け、火を禁じた。


 最初からだったルキアには、正直、世界とはそういうものなんだな、で話は終わる。


 しかし、かつての時代、エルフが今よりずっと豊かに幸福に暮らしていた頃。

 成木や長老たちが語る、太陽の恵みや青い空、緑が鬱蒼と生い茂り、澄んだ水が涼やかに流れたと云う水晶樹の森。

 北の森ヴォラスとはまるで違い、彩りに満ち溢れ、まさに輝かんばかりだったという話を聞くと、


 ──ああ、彼女たちから見て、私は不幸なんですね。


 と、幾度となく思い知らされた。

 そして、だからいつも、こんなにも私は大切にされるんだ──と。


 エルフの成長は、個人差にもよるが、大抵は一定の時期まで人間とほぼ変わらない速度で成長する。

 若芽と成木という垣根は百年を基準にされるが、それはあくまで精神や教養、知識、経験といった部分で物差しを測っているためで、およそ百年は生きなければ成熟したエルフとは看做されない。大昔からの伝統と風土で、そういう文化が今も続いている。


 亜人の中でも特に長命な部類に入るエルフにとって、時の積み重ねは同胞であっても圧倒的『差』を生んでしまうからだ。


 少なくとも、長老と呼ばれるエルフと若芽のエルフとでは、どうしたってその精神面で未熟が浮き彫りになる。


 獲得してきた感情。

 蓄え続けている情念。

 積もり積もった記憶。


 そして、エルフは種族的に子ができにくい。

 個々の寿命が長いため、種族保存の能力が生物的に低いためだ。


 すると、どういうコトが起こるだろうか。


 ルキアには両親がいる。

 しかしその両親は、誰なのか分からない。

 現在、雪の牙に生き残っている男性は十人いて、女性は七十三人ほど。


 皆、ルキアとは違って九十年以上前の夥しい惨劇をリアルタイムで知っている。


 中には直接被害に遭ったモノもいて、長老のひとり──知恵のアルフィは、人間からひどい仕打ちを受けた辛い過去があるそうだ。


 水晶樹の森で暮らしていた思い出。

 美しい女神と穏やかに過ごしていたかつての日。

 突如として奪われ、踏み付けにされ、嗤い、汚された憎悪。


 成長し、オドベヌスに認められ、神の祝福を授かる騎士になるまで、ルキアは誰にも知らされて来なかった。


 自分の周りにいる成木たちは、皆、誰も彼もが交じり合っている──。


(一族復権のため。先祖伝来の土地を取り戻すため。辛い状況を打ち破り、いつか必ず幸福な日々を再び手に入れるため)


 数の差では人間に敵わない。

 今の状況では、絶望的なまでに戦力が不足している。

 勝つためには力ある神に取り入って、その祝福を授かれる『騎士』を増やさなければ……!


 そうして生まれたのが、一族皆で夜な夜な交わり合って、何とかして新世代を作り出す試みだった。


 無論、そうした行いがひとの道から外れているのは皆んな分かっている。


 しかし、だとしてもかつての幸福が忘れられない。

 今ある現実がどうしたって不幸であると感じてしまうから、心が軋む。


 せめて新たに産まれてくる若芽には、この役目を背負わすまい。

 自分たち敗北者の世代だけが、汚れ役を担おう。


 ゆえに、雪の牙の成木たちは、誰も自らがルキアの両親であるなどとは名乗り出ない。

 母親だけは、明らかにひとりに絞られるはずだが、皆、自分たちの行いが決して親として胸の張れるものではないと分かっているからこそ、不実な親などいない方がいいとして口を噤んだ。


(べつに、そのことは気にしていません。だけど……)


 小さい時から一族の全員が親のようなものだった。

 ルキアにとって、誰が本当の両親でも関係ない。

 愛情はある。慈しみはある。優しさだってたくさんだ。

 初めからそういうものだった世界に、否定も嫌悪も湧き出るはずがない。


 ──ただ、ひとつだけ、どうしても息が詰まるように感じることがあるとすれば。


(それは、私がみんなにとって、幸せの道具でもあったコト)


 人間たちの争いが続くこの大陸で、弱者の地位に落とし込まれたエルフ。

 今の世の有り様では、エルフはどうしたって強くなければならない。

 そのため、生きていくために必要な勉強や訓練、教育は熱心に行われ、ルキアは見事、ついには神に認められるほど強くなった。


 褒められるのは嬉しかった。


 周りの成木たちが望む姿になって、将来は恩返しに自分が皆を守るのだと。


 神の騎士に選ばれた時、一族の全員が泣いて喜んで、いつも簡単には褒めてくれない長老……あのアルフィもが、目尻に光るものを零して抱き締めてくれた。


 あの瞬間、ルキアは少しだけ、ほんとうにちょっとだけだけど、報われたような気持ちになったのだ。


 だけど、


(そこから明かされた一族の秘密)


 罪の告白と、思ってもいなかった謝罪の言葉。



「これまで厳しくしてごめんなさい」

「まだ若芽なのに、本当はこんなはずじゃあなかったのに」

「情けない私たちを許しておくれ」

「おまえには、もっと幸せな生き方をさせてあげたかった」

「それなのに、それでも止められない、止まれない」

「こんな私たちを、どうか見限らないで欲しい」

「ルキア、我々の希望、我々の光」

「今ここに水晶弓を与え、あなたを女王の座に」

「辛い役目を押し付けて、ごめんなさい……」



(……どうしてでしょう? なぜなのでしょう?)


 ルキアはただ、大好きなみんなを、心から笑顔にしたかっただけ。

 つまりは、初めから終わりまで、ただ自分のために努力を続けてきただけなのに。

 なのに、当のルキアを置き去りにして、周りは皆、ルキアを不幸だと決めつけている。


 ──その眼差しが、その憐憫が、どうしようもなく心に重い。


 まるで北の森ヴォラスと同じだ。

 白い闇に鎖された、檻のような窮屈感。

 嫌いではなかったはずの何気ない日々でさえ、次第に色を失っていく。


(──でも、だからって、志まで変わるわけじゃありません)


 一番初めに感じたコト。

 守りたいと思ったコト。

 雪の牙のみんなが笑い、朗らかに過ごせる暮らし。

 それを目蓋の裏に思い描いて。


 ああ、きっとそれは、とても〝良い〟ことに違いないと、知らずほほが緩んだ。


 なら、ルキアのやるコトだって何も変わらない。


 弓の腕で一番になって。

 水晶弓という聖遺物を預かる大役も背負って。

 神様の機嫌を損なわないよう、オオツノシカが獲れない日は、ダイアウルフの群れの中にも飛び込んで。

 森に異変はないか、人間たちの手が差し迫ってないか。

 北の森ヴォラスの哨戒だって毎日こなす。今だってそう。

 危険なのは人間だけじゃない。

 さまよいこんだ異境の神、神の気まぐれで産み落とされた超常の怪物。


 オドベヌス様は縄張りを侵されるのをひどく嫌うから、見つけたらすぐに追い払わないといけない──神を相手に力づくで追い払うことなど、当然、できるワケはないのだが。


(でも)


 パキリ、と枯れ枝を踏み、慎重にあたりを見回す。

 足跡や野営の痕跡、普段とは違うちょっとした景観の変化。そういったものが無いかを細かに検分しながら、ルキアはつい思った。


 三日前に出逢った、不思議な神のコトを。


 ──黄金。


 それは、一言で言い表せば黄金の神だった。

 この黒白の北の森ヴォラスにはまったくもって似つかわしくない、目に痛いほどの輝きを伴った太古の神性。

 豊かな長髪からは同じ女でさえ惑いかねない色香が振り撒かれ、濡れるように細められる瞳、起伏に富んだカラダ、しなやかな手足に腿の肉付き……

 およそ、この世のものとは思えない埒外の美貌を一目見れば、その女性が神であることは瞭然だった。


 金髪黄金瞳。


 とてつもなく強い存在感を発し、全身の至るところからギラギラとした光輝を漂わせ、まるでそこにいるだけで世界そのものを塗り潰してしまうような……。

 白銀の世界に反発し、自らの色を居丈高に撒き散らす堂々たる佇まい。

 あまりに超然とし過ぎていて、そして、あまりにこの北の森ヴォラスとは正反対。


 ──その断絶に。


「耳が、長いな。エルフか?」

「……っ」


 ルキアは最初、息を飲むほど心を奪われそうになった。


 背筋を駆け上がる戦慄に、心臓が弾けてしまったのではないかとも。


 牙の神の騎士としては、目の前の神に直ぐにでも立ち去って貰わなければならない。

 水晶弓から発せられる今までにない高熱も、この黄金の神が、決して安易に見過ごしていい存在でないことをハッキリ告げている。

 何より、無造作に前へと押し出された手のひら。アレからは、何か、遠目にもとんでもなくマズイことが起こると予感が迸ったほどだ。


 一族の安全を守るため。下手な騒ぎを起こして人間たちに自分たちの居場所を気取られる可能性を考えれば、ルキアが為すべき行いは一つしかない。


 ……しかし。


「神の騎士、ねぇ……それじゃあキミは、若くして一族の期待に応え、わずか十六歳という歳でエルフ千年? 二千年だっけ? ともかく、スゴい歴史の重みをおっかぶされてるってことか。ふ〜ん……それって、辛くはないのかい?」


「────はい。辛くはありません。皆が幸せになれるなら、それはとっても良いことだと思います」


「…………そっ、か。そりゃまた、スゴいな。今の俺には理解できないけど、キミがそう言うなら、たしかにそういうコトもあるんだろう。──ところで、頭を撫でさせて貰ってもいいかな? なんだか無性にキミを甘やかしたい気分なんだが」


「えっ、ええ!? そ、そんな! あ、いや、は、はい! わ、私ごときの頭でよろしければ、ど、どうぞお撫でください……!」


「──いや。やっぱり止めよう。なんだか無理強いしてるみたいだ。また今度。いつか必ず。絶対に。近い内に……」


「ぇ、あっ、はい…………」


(ふふ)


 思い出すと今も笑いが零れ出る。

 会ったばかり。初めて言葉を交わした。

 それなのに、あの神はひどく親しみやすかった。

 ルキアはオドベヌス以外の神を知らないが、通常、神とはもっと厳かで、気高い存在だと知っている。

 神は下々に対して気遣いなどしないし、慮るコトもない。そう、長老たちからも聞いている。


 しかし、黄金の神はどういうワケだか非常に言葉の感触が軽く──悪い意味ではない──どこか同じヒトを相手にしているような錯覚さえ感じられた。


 そのせいか──いや、十中八九気のせいだとは思うが──ルキアのコトを、本当に真摯に想いやってくれている気がしたのだ。


 途中、こちらの頭を撫でたい、甘やかしたい、などと。

 およそ神だとは信じられない言葉で動揺を誘われもしたが、それも恐らく、あの神なりに話の雰囲気を和らげようとしたのだろう。

 もしかすると、ルキアの中にある小さな不満……弱い部分を見透かされて、それゆえの発言だった可能性だってある。


(私としたことが、気の緩みですね。主神ではないとはいえ、いえ、主神ではないからこそ、警戒を解くべきではないのに)


 ただ認められた。

 自分の頑張りを、内心の努力を、それは褒めるに値する。報われて当然の人生だと。

 会ったばかり。見ず知らずの異境の神様から。

 それでも、ずっとどこかで欲しがっていた言葉を貰えて。


 別れ際、「またな」なんて。手さえ振って。


 次会った時は、今度こそ、この命を懸けてでも、退散を乞い願わなければならないというのに……


「…………ハァ」


 正直に言えば、気が重い。

 ルキアは仕える神をすでに戴き、祝福すらも賜る騎士の身だ。

 主の意向には一番に従わなければならない。

 本心では望まぬコトも、一族を想えば率先してやり遂げる義務がある。


 牙の神、オドベヌス。


 北の森を縄張りとし、その正体は巨大な牙を持つ剣歯虎けんしこにも似た白き豹王。

 司る権能は『霜天の牙』と呼ばれ、霜の立つ厳冬、大地から逆立つ霜の柱が、まるでオドベヌスの誇る巨大な牙のように、〝串刺しの雪原〟を具現化させる様から、その名がついた。

 オドベヌスは自らのその権能を用いて、かつて数多の神を屠ったのだと云う。

 性格は冷酷で、冬の厳しさがそのままカタチになったかのように生命への慈悲が無い。


 エルフを庇護下においたのは、単純に、エルフが美しかったからだそうだ。


 獣の姿をした神と言えど、エルフが一般的に優れた容貌をしているのは分かるらしく、九十年前、オドベヌスは希少な宝物でも集めるようなつもりで、今の雪の牙を自身の手元へ置いた。

 普段は長老か、自ら騎士に認めたルキアとしか言葉を交わさず、生贄を寄越せと牙を剥いて唸るばかり。

 機嫌が酷い時は、本当に咬まれるコトもある。


 特に酷かったのは、五年ほど前の冬。


 誤って川へと転落し、体温の低下から命の危機に陥った仲間がいたのだが、オドベヌスはその時でさえ火を許さなかった。

 毛皮をたくさん集めてくるめてやればいいだろうと一点張りで、自身の嫌いな火を絶対に許さなかったのだ。


 普段ならばそれも耐えられる。


 しかし、あの時は仲間の命がかかっていて、ルキアはどうしてもそれが許せなかった。


(結果、私はオドベヌス様の怒りを買い、お腹にひどい裂傷を)


 ──ふざけるな。断じて許さん……ただでさえあの水晶の弓を認めてやったというのに、そのうえ火まで認めろというのか……? 思い上がるなよ小娘!


 その傷は今でも残っている。人にはとても見せられない。長老たちの懸命な取り成しがあり、そのおかげで何とか大事には至らなかったが……あの時は本当に、終わったかと思った。

 自分の体が幾つもの牙に挟まれて、内蔵が貫かれ、骨ごと噛み砕かれると感じた恐怖心。

 たくさん叱られ、たくさん痛い日が続いた。あれはもう……二度と味わいたくない。


 ──だから。


「いっそ、話などしなければ良かった」


 そうすれば、単に追い払うべき厄介者としてしか、あの黄金の神を見ることもなかったはずだ。

 求められるままに質問に答え、いたずらに時間を多く費やしてしまった。

 これが裏切りだと謗られれば、ルキアには反論の余地がない。

 言い訳もムダだ。

 なにせ、三日経った今でさえ、ルキアはオドベヌスへ報告していないのだから。


 ──見知らぬ神が顕現し、この北の森ヴォラスで何か権能を使おうとしておりました。


 そう、たった一言告げるだけの忠誠すら無いのかと、オドベヌスは間違いなく激昂する。

 言い出せなかったなどの弁明は余計に怒りを買うだけだろう。

 下手をすれば騎士の資格も剥奪され、命を奪われてもおかしくはない。

 ルキアに情状酌量の余地があったとすれば、それは黄金の神と邂逅したその日の内だけだった。


 オドベヌスとて、神の絶対性は分かっている。


 ルキアや他のものが神に立ち向かったところで、待っているのは血のあがないだ。


 ただ、龍の國の王──龍神プロゴノスの騎士。


 神が神を殺すのではなく、ひとが神を殺した恐るべき偉業。

 水晶樹の森の女神、デラウェア。消滅したエルフたちの神。

 オドベヌスは今も考えている。

 龍神にできたならば、己にもできるはずだと。

 祝福を与えたエルフの中から、いつか神を殺し得るモノが現れるかもしれない。

 そうなれば、自分だけの信徒を集めて、いずれ神殺しの尖兵を山のように抱えることも。


 だからこそ、オドベヌスはルキア己が武器に必ず一度は戦うことを命じた。


 ──たとえ神や怪物が相手だとしても、我が騎士ならば使命を果たせ。霜天の牙の名を知らしめろ! 逡巡は許さぬ。見つけたなら挑め。それができずば、今度は貴様だけでは済まさんぞ……!


 ゆえに。


(今の私にチャンスがあるとすれば、それは今からでも行動を為すこと)


 武器を手に取り、立ち向かう。

 黄金の神は「またな」と言った。

 ならば、三日経った後とはいえ、未だ北の森ヴォラスには留まっているはずだ。

 ルキアには水晶弓もある。

 危険な存在が近くにいれば、熱を持って所有者に知らせてくれる聖遺物。

 これを、コンパスのように利用することで、黄金の神を見つけ出せばいい。


 もちろん、ただでは済まされないだろう。


 黄金の神は優しそうな神様だったが、だとしても、神であるコトに変わりはない。

 下等な存在から刃を向けられれば、間違いなく怒りを露にするはずだ。


 恐らく、ルキアはかなりの罰を覚悟しなければならない。


 そして、端から勝てるなどとは思い上がってはいないし、本気で挑んだとしても容易く一蹴されるのが関の山。ならば、せめて潔く罰を受け入れよう。


 それが、今現在のルキアの考えだった。


 問題はコトが終わった後。

 ルキアは相当に痛い目を見ているか、あるいは死んでしまっても何らおかしくない状況にいるだろう、という点。

 だが……それもオドベヌスの不興を買って、一族を危険に晒す可能性と比べれば、なんてことはない。


(私は皆の幸福のために望まれ産まれてきました)


 そんな自分が、皆をさらなる不幸に追い込むなど、これ以上の悲劇は存在しない。


「────うん」


 そこで、ルキアは小さく頷き、「ほぅ」と息を吐いた。

 今日はいつもより心なしか気温が低い。

 オドベヌスの加護によって寒さには多少の耐性があるものの、こんな日は耳の先がひどくかじかんでしまう。

 ルキアは火が具体的にどんなものなのか知らないが、成木たちが言うには、とても暖かで明るいモノらしい。


 いつか本物の火を見てみるのが、ルキアの夢だ。



「──と、熱っ……」



 水晶弓がおもむろに発熱した。

 緊張が全身に行き渡る。

 目に見える範囲で危険な存在は見当たらない。


 しかし、確実に何かがいる。


 神か怪物か、あるいは人間か。

 雪化粧の加護は働いている。

 ルキアは矢を番え、そっとあたりを警戒しながら、熱の強まる方へゆっくり進んだ。


 すると、


(あっ、あれは……!?)




「おい。奴らはまだ見つかんねぇのか」


「ん? なんだよ、隊長。盗賊あがりの連中のことか?」


「ああ。偵察に出るとか行って、全然帰ってきやしねぇ。あのバカども何処行きやがった」


「知らねぇなぁ。ああ、でも、たしか古い遺跡がどうたらって話をしてた気がするぜ」


「遺跡、だぁ? クソっ、これだから盗賊あがりは……任務だっつうのに物見遊山かよ」


「ははっ、北部先遣部隊の隊長サマにおかれましては、低脳の部下たちに悩まされてるようですなァ」


「オメェもその一人だっつー自覚はあんのか? てか、マジ笑ってんじゃねぇ! ここは北の森ヴォラスだぞ。噂じゃ『霜天』がいる」


「クッククッ、なんだ。盗賊あがりどもの心配か?」


「アホ。下手な行動されて気取られたくねーって話だ。俺らの祝福じゃ、まだ神殺しには届かねえ……」


「ハッ! まぁ、そうだよな。しかし、今日でもう結構な日にちだろ? どこぞで凍死でもしてんじゃねーのか?」


「……仮にもプロゴノス様の加護を授かってる。そいつは有り得ねぇだろ」


「じゃあ……おい。マジで殺されてんじゃね? 敵は件の霜天か? フゥ! 楽しくなって来たなァ!!」


「バカ野郎ッ、面倒くさくなっただけだろうが!!」




 木立を抜けた先。

 雪被る倒木の陰に隠れるようにして、男たちの声があった。

 数は十、二十、いや……少なく見積っても五十はいる。

 全員、鈍色に光る鉄の剣を腰に佩いていて、驚くほど体格がいい。

 隊長と呼ばれている男などは、ルキアの四倍はありそうな巨漢である。


 そして、


(あ、ああっ、アレは! ……!!)


 男たちが着込んでいる鎧。その肩から翻る厚手のマント。

 真ん中には、もはやこの大陸で知らぬ者などいない龍の意匠が、ありありと縫い付けられていた。


 ──すなわち。



(龍の國の騎士たち! ついにやって来た! この北の森ヴォラスにッ!)



 全身から血の気が引いていく。

 長老たちから聞かされてきた悪夢のような昔話がフラッシュバックする。

 逃げなければ。知らせなければ。このままでは、皆が危ない。

 ルキアは全速力で走ろうとした。


 ──だがしかし。



「おっと! せっかく来たのに、どこに行くのかなァ、お嬢ちゃん?」

「ぐ、んんっ?!」



 背後から、別の男がルキアを捕まえ、口元をなにか甘い香りのする布で押さえ込んだ。


(そんなっ!? 加護はちゃんと効いてるはずなのに……!?)


 咄嗟に息を止めるも、男は無理やり口の中に布を捩じ込み離さない。


 意識が、急速に、遠く、な、る……



「ヒッ──ヒャヒャ! 女ッ! 若いッ! しかもエルフッ! 隊長ォォ!! 最高の知らせがありますぜ!!」



 ルキアの記憶は、そこで、完全に途絶えるコトになった。



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