03_ プロローグ Ⅲ
曇りの空にも種類はある。
嵐が来る前の空模様は、大抵黒ずんだ鈍色をしているが、穏やかな日の曇天は陰鬱な気配を伴わない。
白くて退屈な、色の少ない一日。
ほとんどの人は、それを「パッとしない」なんて言葉で飾るだろう。
しかし、目の前に跪く一人の少女。
狼の毛皮でできた厚手の
まるで、頭のてっぺんから足の爪先まで、自らは無骨な北部民族であると訴えて止まない見事なまでの出で立ちでおきながら──透き通るように美しい。
雪深い森の奥地。
乱立する黒い木立。
周囲は依然、ちっとも冴えない光景を映し出しながらも、少女の登場によって、世界には劇的な変化が訪れている。
……少なくとも、そう錯覚せざるを得ないほどに、その瞬間──
「────……」
不覚にも、俺の目に、少女は非常に価値あるモノとして映り込んでいた。
先の尖った長い耳。
精巧に造られた、彫刻美術をも想わせる貌。
片手に
俗な一言で表せば、とても──そう、とても透明感のある美少女だ。
だから、一目見てすぐに悟った。
「耳が、長いな。エルフか?」
「っ」
俺はきっと、コイツのことが好きになってしまうに違いない、と──
◇ ◇ ◇
少女の名はルキアと言った。
北部の森に隠れ棲むエルフたちの騎士のひとりで、この辺り一帯に古くから潜み続ける亜人。
雪の牙という一族を率いていて、普段はオオツノシカやダイアウルフを狩ったり、森の数少ない糧を得て細々と暮らしている。
ファーストコンタクトを経て、しばらく。
あれから、ひとまず呼びかけの内容的にこの場で権能を使用するのはマズそうだと判断した俺は、ゆっくりと両腕を広げ、自分が無害な存在であることを少女へとアピールした。
「……すまないな。別に
「ぇ──ぁ、は、ハハ! ご厚情、感謝いたします!
……しかし、申し訳ございません!」
「ん?」
「お、御身におかれましては、私ごとき
「別にそんなコトはないが」
「ッ! すべては私の思い上がり! 神に意見した不遜は、やはり償わなければなりません!
ですが、この咎は我が一族には何の由も無いコト! どうかこの首ひとつで、何卒ご寛恕のほどをお願いしたく……!」
お望みとあらば、今ここにただちに自刃いたしますので、と。
少女ははじめ、自らの首に短刀を添えるほど大袈裟なリアクションを取ってきたのだが、俺が一言「その必要はない。やめろ」と告げると、微かだが明らかにホッとした顔で短刀を帯へと戻した。
そして、次に俺がジッと視線を向け続けていると、
「──ハッ、も、申し遅れました。先ほどの問い……私はたしかにエルフと呼ばれている亜人種です。名はルキア──北の森ヴォラスに潜む、雪の牙一族のルキアといいます。担いし役目は『騎士』を、僭越ながら務めさせていただいております」
そう、玲瓏と響くハッキリとした声で素性を明かした。
(真面目そうな雰囲気といい、
感心感心。
出会い頭に最悪な印象を刻みつけてくれた龍の國の男どもとは違い、非常に好感が持てる。
見てくれも最高に近いし、異世界初のグッドコミュニケーションが築けそうな予感に、俺の心はワクワクピョンピョンと兎のように飛び跳ねかけた。
──しかし、冷徹な神としての視点が、俺の脳裏にこの時点ですでに、幾つもの引っ掛かりを突きつけてもいた。
(おうおう。出るわ出るわ、固有名詞の雨あられ)
知っていて当然みたいな空気感だが、こちとら生まれてホヤホヤの新米ゴッド。
集めた情報など、高次存在から与えられた最低限の知識を裏付けるモノ──龍の國関連──を優先していて、他はまだまったく押さえられていない。
どのくらい無知かというと、ヨーロッパに行けばとりあえず英語さえ喋れれば何処だって話が通じるんでしょ? と思い込んでいるバカヤロウ程度には恐らく無知だ。
なにしろ、雪の牙だの北の森ヴォラスだの明らかな固有名詞はさておき、まず亜人──エルフが存在するコトすら知らなかった。
……神話世界ゆえに、エルフが存在しても何の不思議もない。
が、俺はてっきり、この世界は人間が主立った世界で、神を除けば他の知的生命体は何となく存在しないものだとばかり思い込んでいた。
七つの国による宗教戦争。
百年以上続く人間同士の諍い。
普通、想像するのは泥沼と化した地獄絵図だし、権謀術数、野心陰謀、欲に罪。
人間としてのかつての記憶が、歴史を学んだ在りし日が、正直、ロクな社会状況をイメージさせなかった。
古代ともなれば尚更で、中世ですら危ういのだから、多少摩訶不思議な要素が絡んだところでどうせ同じだろう、と。
世界が変わったところで何も変わらない。
人間の人間たるがゆえの人間らしさ。
殺人、強奪、ペテンに嫉妬。
俗物である俺は当然そういったコトばかり連想したし、この異世界はさぞやステキな世界に違いないと。
そこに神の横暴や理不尽が介在すれば、いったいどんなカオスが繰り広げられているのやら、内心ウッキウキとしていたほどだ。もちろん、皮肉であるが。
だが──だからこそ、エルフなんていう、もう見るからに綺麗でしかない生き物と出くわして、少しでも興味を持ってしまえば。
(人間とは違う、どうあったって異なるその在り方に、知らず目が奪われる)
一目惚れ、と言い換えても構わない。
好奇心。興味関心。
言い方は何でもいいけど、とにかく目の前の少女が気になって仕方がない。
もしこれが転生前の世界であれば、思わず連絡先の交換を申し出たかもしれないくらいにはドストライクだ。
(……とはいえ)
だからといっていきなり、無理に距離を詰めようとは思わない。
それ以前に、気にかけるべきポイントがゴロゴロと転がっているし、また、不死身だからと言って何もかもに警戒を解いてしまうほど、俺は
たとえば、十日前の龍の國の男たちは、俺をただの
エルフには、見ただけで神を神と見分ける能力があるのか? とか。
端から見れば、単に片手を前方に押し出していただけのはずの俺を見て、どうして〝荒ぶる〟という三文字が出せたのか。
俺が気がついていないだけで、権能を使う何か予兆のようなモノがあって、それゆえに判別が可能だった?
あるいは、ないとは思うがエルフには精神感応のような能力があって、先ほどまでの俺の、ややささくれだっていた気持ちを遠距離からでも感じ取り、だからこそ慌てて駆け付けてこれたのか。
──そもそも、いったい何処から俺を捕捉していたんだ? という懸念も広がってくる。
ゆえに、俺はそこはかとなく様子を伺いながら、まずはルキアについて情報を聞き出すコトにした。
「しっかし、こんな森の奥でキミのようなエルフと出会えるとは思っていなかったな。ルキア、だっけ? ここは長いのかい」
「ハッ──私ども雪の牙は、九十年ほど前からこの地に隠れ住んでおります」
「……九十年? というと、キミは今いくつになるんだろう? 気を悪くしないで欲しいんだが、俺はエルフには詳しくなくてね。見たところ、人間でいえば十代半ばくらいかなと思うんだが、もしかして違ったりする? 良ければ教えてくれないか」
「……私の歳、でございますか?」
「ああ。失礼だと感じたなら答えなくてもいい」
「いっ、いえ! そのような事は! ご、ご推察の通り、私は今年で十六になります。一族の中では赤子も同然の若芽となってしまいますが、ありがたくも才に恵まれ、今年の春、晴れて『騎士』の任を預かった未熟者です」
「十六歳。ふむふむ。エルフと言っても、見た目は年齢相応なのか。他のエルフもそうなのかな?」
「──いえ、私どもエルフはある一定の歳までは人間と変わらない成長速度を持ちますが、何事も無ければ千年を生きると云われております。一族の長老たちの中には、すでに齢九百を超す賢者もおりますれば」
「なるほど。そこはイメージ通り長寿なんだな。……にしても、九百歳か。それはすごい。
けど、そうなるとこの辺りには、九十年ほど前に一族で移り住んだってコトかい?」
「はい。長老たちからは、そのように伺っております」
ルキアは響くように即答を重ねる。
俺はやや眉根を寄せた。
自分で言うのもアレだが、出会ったばかりの不審人物にこんなにもすんなりと情報を明け渡してしまうのは、いささか無警戒が過ぎないだろうか。
嘘をついているようには見えないし、受け答えのどこにも怪しく感じる点はない。
(やっぱ俺が、神だと分かっているからなのか?)
高次存在に曰く、この世界は神を頂点としている。
人間は神に逆らう無意味を弁え、神を絶対と崇める宗教基盤が整った世界だと。
しかし、俺は、初めからそうだったとは思えない。
人間は愚かで、ちょっとした些細なコトで、本当にすぐにでもとんでもない暴挙へ訴え出てしまう生き物だ。
神の支配に抗おうと考えるモノは必ずいるだろうし、過去、反乱や謀叛が一度として起こらなかったとは考えづらい。
であれば、恐らくその度に、神は
痛みなくして教訓は有り得ず、深い後悔なくして正しい選択もない。
叱られるな、怒られるな、と分かっていても、宿題をやらなかったり、締切を守れなかったり。
人間とは、そういう救いようのない生き物なのだ。
だから、恐らくではあるがこの世界、神から下される厳しい罰の繰り返しによって、現在のそうした風土・社会常識が出来上がったと見ていいだろう。
ルキアはエルフだが若い。
そして、見た限りかなり真面目で素直そうだ。
口ぶりから一族の長老たちへの敬意も感じ取れるし、きちんとした教えを受けて、大切に育てられている。
でなければ、このくらいの年頃をした若い娘が、これほどまでにしっかりしているはずがない。
──神には決して逆らうな。
──神を怒らせてはならぬ。
──神は必ず畏れ敬い奉れ。
端々で滲む緊張と恐れの感情も、要はそういうコトに違いない。
今のルキアからすれば、俺はさしずめ会社の怖いお偉方。ちょっとした失言でたやすく自分を海外に飛ばしたり、最悪の場合はクビにもできる相手。本来であれば会話もしたくないけど、なんとか接待をしなくちゃいけない状況。
俺だったら、とてもじゃないが
たぶん、度の越えた緊張感に頭がおかしくなって、自分でも何を言ってるのか分からない失言のオンパレード。ゲロだって吐くやもしれん。
そして、アッサリと不興を買って東南アジアの治安悪めなどっかの国で漁船に乗せられ一気に蟹工船コース。少なくとも、気分的には最悪の処遇を受ける覚悟を求められる。
十六歳だというのに、ルキアは実に大したものだ。いや、マジですげぇ。
(綺麗で真面目で素直で優等生で、そのうえ立派な少女騎士、か)
いいね。とても、いいね。
俺はニッコリと微笑んだ。
ルキアはそんな俺に、ビクリと震えて慌てて顔を伏せる。
……ああ、怯えを隠し気丈に振る舞うその姿もまた、俺にとっては非常に新鮮かつ劇的だ。
子犬とか子猫とか、なぜだか無性に小動物を愛でていたくなる感情に胸の内を掻き回される。
だが、しかし……
「悪いね、追加の質問だ。──騎士、と言うと、キミは武芸に優れているのかな。才に恵まれたと言っていたけど、雪の牙の一族では、キミみたいな若い女の子に危険な役目を任せるのが普通なのかい?」
たとえ未熟であったとしても、選ぶなら普通は男からだろう。
筋力に恵まれない女の身で、且つ古代でもあるなら、余計にルキアが騎士をやっているのは不自然に映る。
というか、『騎士』という称号自体、俺はそもそも違和感を覚える。
(そういえば、この前の龍の國の兵士たちも、自分たちを騎士だとか何とか言ってた気がするが……)
俺の思っている騎士と、この世界の現地民が口にする騎士とで、何かニュアンスの違いのようなものを感じる。
騎士と言えば、ある程度の裕福な家柄で、馬とか武器とか、戦闘職として必要なモノを自前で揃えられる身分階級のイメージだ。
だが、俺が出会ったこの世界の騎士は、粗野で下劣な
ならば、この世界の『騎士』は誰でも自称することを許される安い看板なのか、と考えてみるも……そうすると今度は一つの矛盾が生じてしまう。
ゴロツキたちは自分たちを龍の國の騎士だと如何にも自慢げに名乗り、ルキアもまた、自分が騎士であるのをさも誇らしいコトかのように話した事実だ。
なにか、この世界特有の含みがあるなと、俺は思った。
ルキアはそんな俺に、自身の不足を指摘されたと勘違いしたのか、わずかに顔を曇らせると、滔々と答え始めた。
「この身が未熟であるのは……承知しております。きっと、神であらせられる御身の眼には、私の至らぬ部分がありありと映し出されているのでしょうね」
「…………いや、そんなコトはないが」
「……フフ。ありがとうございます。しかし恐れながら、騎士として任じられようと、私はやはり未熟です。貴方様はお優しい神なのですね。こんな私を気遣ってくださる」
ですが、
「私自身、弓の腕に自信はあります。一族の中では一番だと認められてもいる。
掟に則り、一族の
外の世界に出れば、自分など足元にも及ばない、立派な騎士たちが大勢いるだろう。
「加護を授けてくれたオドベヌス様にも……日頃から、たくさんのお叱りを受けてしまいます」
神の使徒たる騎士として、これほど力不足な者も恐らく他にいないでしょう──
ルキアは自嘲げに、小さくそう笑った。
◇ ◇ ◇
夜になると吹雪になった。
ルキアとは別れ、俺はひとり森の中で移動もせずに立ち止まっている。
吹き付ける風は凶暴で、ビュウビュウという音が耳朶を震わした。
長い髪に雪の花がまとわりつく。
神でなければ、とっくの疾うに凍傷まみれになっているだろう。
それほどまでに厳しい冬の光景が、ビッシリと視界を埋めていた。
「────」
俺は黙々と考え込み、これからのコトに想いを巡らす。
あの後、ルキアとは結構な時間を話した。
雪の牙の日々の生活。
オオツノシカやダイアウルフを狩る難しさ。
武器の上手な作り方に、どんな木の実が美味しくてマズイだとか。
日常の些細な事柄から、ルキア自身が何を思って過ごしているのか。
出会ったばかりだというのに自分でも驚きだが、何であろうと聞けば響くように答えてくれる反応のせいで、つい長く引き留めすぎてしまった。
ルキアの話し方が思いのほか上手かったというのもある。
途中から、俺は自分の無知が露呈するのも気にせず、いろんなコトを矢継ぎ早に訊いてしまった。
そのせいで、ルキアからはクスリと笑われてしまったほどだ。
「フフ、貴方様はとても知りたがりの神様なのですね。私、貴方様のような神様ははじめてです」
「──ん? そうか。あ、いや、実を言うと俺は記憶喪失の神なんだよ」
「え? そうなのですか?」
「……嘘だ。本当は長いこと召喚されていなかったから、世間が様変わりしていて驚いているんだよ」
(ギリ嘘じゃない)
「ああ、やはりそうなのですね。私も、このあたりにたしか、とても古い神殿があるらしいと聞いたことがありまして。貴方様は、もしやそこで祀られていらした太古の神性なのでは、と思っておりました」
「──ん。まぁ、間違いではないな。たしかにそんなところだ」
と。
互いに多少は打ち解け合い、緩んだ空気が漂いもした。
はじめは俺に緊張していたルキアも、俺がだんだんと危険な神ではないと分かり始めてからは、穏やかな笑みを零す余裕が出てきていた。
日が暮れ始め、天気が怪しくなってきた頃、別れ際に「またな」と手を振ったら、だいぶ迷った末に、おずおずと微笑みながらも手を振り返してくれたくらいだ。
ルキアはとてもいい子である。
──しかし、それはそれとして。
「まったく……」
いろいろと聞き出し過ぎてしまった俺は、いま、一つの迷いを得てしまっていた。
「……百年ほど前まで、エルフは水晶樹の森と呼ばれる豊かな土地で暮らしていた」
それはこの世界におけるエルフの歴史。
ルキアたち雪の牙が抱える、今なお重いリアル。
「だがある日のこと、人間たちの国の間でとてつもなく大きな戦争が始まり、燃える戦渦の拡大によって、水晶樹の森は火の海となった。各エルフの部族たちは、止むなく大陸に散り散りとなる」
それまでも小規模な争いは生じていたが、龍の國のひとりの王が、百年前、突如として他民族・他宗教への全面的侵攻・弾圧を宣言したのだ。
大陸は震撼し、人間だけでなく亜人たちの勢力圏にも、その余波は伝播した。
水晶樹の森──エルフたちは、その最中、信仰していた種族古来の神を龍の國の騎士たちによって殺され、故郷も尊厳をも奪われてしまう。
種族古来の神──デラウェアは、森の恵みと清らかな水を司る、とても美しい女神だったが、残念なことに戦う力は何一つ持たず、敢え無く消滅したらしい。
信仰と加護を失い、生きる場所も失った。
ルキアたちの親世代は、そうして様々な部族ごとに四方八方へと散りながら、大陸に残る僅かな異境領域へと潜伏を強いられるコトに。
「雪の牙という部族名は、
旧き名は水晶の民。
その名の通り、透き通るような美しさで知られた亜人種であり、エルフは昔から、男だろうと女だろうと、大層人気が高かった。
「戦利品、労働力、愛玩、奴隷」
人権などという概念が生まれるべくもない古代では、見目麗しいヒトガタの生き物は悪目立ちして仕方がなく。
「男たちは人間と戦い、多くがその命を落としてしまった。そのため、今現在は遥かに女の方が多い」
種族的に長命なこともあり、子どもができにくい体質が祟って人口も激減。
より希少性を増したエルフを狙って、今でも人間たちからトロフィーのように狙われている。
各部族の長は、そんな自分たちエルフを守るため、一族で最も強い者が選ばれるらしい。
そして、
「ルキアたち雪の牙は、純血のエルフその最後の末裔であり、水晶弓──あのクリスタルの弓──は、かつての故郷から手放さず、唯一継承を続けられた宝具でもある」
神が製造した聖遺物であり、危険な存在が傍にいると熱を放出し、所有者へ警告する機能を持つ。
俺が神であると分かったのはそのおかげで、権能を予知できたのも熱の上がり具合から分かった。
一族の長として、北の森で下手な騒ぎを起こさせるワケにはいかない。
人間に見つかれば──特に、大陸制覇も近い龍の國の兵士たちに見つかれば、九十年前と同じ惨劇……殺戮と辱めの地獄へと落とされてしまう。
「──ゆえ、俺のもとへやって来た。
最悪、神の怒りに触れ、殺されるやもしれない覚悟で」
七大国、七宗教。
人間の築き上げたどの枠組みにも収まらず、先祖伝来、異教とされた自分たちの神を祀り、人間たちからまつろわぬ民として見なされようと、エルフとしての誇りを貫き通す。
自分たちを守るため、その命を散らした気高き先祖のためにも。
女神が愛してくれたエルフという存在を、遥か先の未来まで、残し続けていくためにも。
北部の暮らしは辛くて厳しいものだが、耐えられないほどじゃない。
頑張って頑張って、ちょっとイジワルな神様にも従って。
「毎月求められる生贄……オオツノシカやダイアウルフを狩り続ける。そうしなければ、守ってもらえないから」
騎士とは、神の祝福を贈られ特別な加護を得たモノ。
信仰する神によって授けられる奇跡は異なり、龍の國の騎士の場合、生命力や生存本能の活性化、肉体の頑健性が向上する。
ルキアは、牙の神オドベヌスから、雪化粧の祝福を授かり、そのチカラで気配を隠せるらしい。
突然現れたように感じたのはそのためで、雪深い白銀の世界では完全と言っていい領域でその背景と同化する。
ルキアは、自分だけでなく一族全体にもコレを行っているそうだ。
だが、如何に特別なチカラを得ようと、毎月などという高スパンでは獲れるモノも自然減っていく。
むしろ、九十年もよく獲り尽くさずに済んだものだ。
「生贄がなければ、オドベヌスはエルフを見限り、庇護の約束を破棄するだろう。神の加護を失った雪の牙は、北部先遣──遠からず龍の國の騎士たちに見つかり、蹂躙される」
女と見れば舌なめずりし、下劣な欲望を隠そうともしなかったあのクソ野郎どもが、エルフを──ルキアを、その汚らわしい指先で余すコトなく撫でくりまわすのだ。
あの美しい存在を。
あの美しい生き物を。
あの美しい清純な乙女を。
ただ浅ましい欲望を満たしたいがためだけに手垢をつけ、泣き叫ぶ顔を嘲笑って踏み躙る。
「オイ────オイオイオイ。なんだ、それは」
想像しただけで、吐き気がするじゃないか。
頭の中、自分で思い描いたクソのような
右の掌で顔を覆い、俺は天を仰いだ。
──神様から夢のようなチカラを与えられて、異世界へと転生する。
社会の歯車。
平々凡々な小市民でしかなかった男は、そうして数多のしがらみから抜け出て、いろんなモノを置き去りにした。
対価として、今後もたらされるだろう数多の〝特別〟を自由にできる権利を手に入れ、男はいま、雪の森でとてもキレイなモノを見つけてもいる。
そのキレイなモノは、男がこれまで歩んできた道のりのどこを振り返っても見た事がない美しさで、恐らく、人間ではないからこそ目を引いた。
黄金の神性──古き神殿に祀られた名も無き神と成り果てながらも、男はそこに、たしかな『運命』を感じ取る。
少女にとっての運命ではなく、己にとっての運命だと。
ならば……
「……俺は……黄金の楽土で……富を抱き締め、眠りたい……文明の叢書を紐解いて……夢見た理想の暮らしに、溺れたい……」
自分にとってのシアワセは、それが最も重大なファクターで。
ある意味、こんな風だったらいいのにな、とプラス思考に分類される願いでもある。
「けれど、同時に……」
目の前の現実を固く縛りつけるもの。
何かをしなくてはいけない。
それをしなければ批難の嵐。
ゆえにこうするのが正しいと同調圧力を高め、頭ごなしに言う事を聞かせようとする見えないナニか。
偏見、レッテル、客観的意見。
もしくは、より物理的に自由を阻害するもの。
急いでいるのに渋滞にハマって動けない。
車両トラブルで電車の運行が止まった。
時刻表の記載通りには絶対に来ない市営バス。
束縛の強い恋人や、過干渉な毒親、ソーシャルネットワークは人々の暮らしを便利にし、何時でも何処でも誰とでも繋がる新しいライフスタイルを提供したが、その分、隣人から絶えず監視される隙のない牢獄も同然だった。
とにもかくにも行動を制限され、苛立ちすぎて息苦しさすら覚える世の窮屈性。
まるで水面から口をパクパクさせて、必死に餌を求める金魚のようだ。
心の中では誰もが少しは感じている。
ありとあらゆる
唐突に訪れる破壊衝動。
自暴自棄にも似た破滅への欲求。
日常のふとした隙間、不意になんとなく何もかもを台無しにしたくなるコトが往々にしてある。
心の中の仄暗い負の
鼻先を焦がす鬱陶しい
チロチロと燻り続け、不完全に燃え残る──
第三の権能とは、ゆえに“
自由な蝋翼の名を冠する、自らを縛り付け、また閉じ込めようするあらゆる障碍に対する強制棄却権。
約束も契約も盟約も条約も公約も法律も刑事罰も掟も取引も。
物理的な拘束や封印、施錠行為、何だろうと関係ない。
派手さはないが、その気になれば距離の概念も無視できる。
裏切りのサガの根幹、波長が適合した何よりの理由とは──まさにここだ。
「俺は、なるべくなら、キレイなモノだけ見て生きていたい」
気に入った女の子には、笑顔でいてもらった方が気分が楽だ。
可哀想なのとか、苦しそうなのとか、そういうのはうんざりする。
曇った顔なんか見たくない。
本当は自分だって辛いのに、一族からの
シアワセになって欲しいし、シアワセにしてあげたい。
──じゃあ、どうする?
俺はどうしようもなく俗悪で、基本的には自分が気持ち良ければそれでいい。
このカラダはそれを叶えるチカラを宿しているし、やろうと思えば人間など、どうとでもできる。
それに、ムカつく奴を見かけたら、やっぱ普通は思う存分、ぶん殴ってやりたいと思うものだ。
「──決めた。目的ができたよ」
霜天の牙、オドベヌス。
龍の國の先遣隊。
実験材料をどうするか、実は密かに考えあぐねていたのだが、ちょうどいい。
まずはこいつらから始める事にしよう。
第三の権能で目障りな吹雪を消し飛ばし、俺は夜の闇の中へ、そうしてトプンと身を沈み込ませた。
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