キコナはキコナ

そうざ

Kikona is Kikona

 愛猫のキコナが入院した。

 何処ぞの野良猫と喧嘩でもしたのか、軽く足を引き摺りながら帰って来たのだ。

 放し飼いの常で最初は大事おおごととは考えずに居たが、一両日、姿が見えないと思ったら、酷い姿で戻って来た。

 右肩から胸の辺りまでの毛が抜け、ぷっくりと腫れ上がり、赤黒く変色していたのだ。歩行も困難な状態でやっとの事で帰り着いたようだった。


 うちの家系は代々猫好きだが、迷い猫が餌を欲しさに懐き、そのまま居付くというかたちが専らだった。同時期に何匹も飼っている事もあれば、何年も猫が居ない事もある。飽くまでも成り行き任せで、私の子供時分は猫に縁遠い時期だった。キコナは私が世帯主になってから不意に現れた迷い猫だったのだ。


 獣医の許へ連れて行くと、即手術と決まった。患部の膿を出した後、壊死してしまった箇所を切除し、皮を引っ張って縫い合わせるという。

 キコナは診察台の上で総身を強張らせていた。突然に襲った不運に、すっかり観念しているように見えた。


 キコナの居ない日々は暫く続きそうだった。もし縫い合わせた傷口が開いたりしたら、更に治療が長引いてしまう。完全に癒えるまでは預かって貰う事にしたのだった。

 こんな事があった。

 何処ぞの町を散策していると、キコナとよく似た猫に出くわした。ぐるぐる巻きにした包帯に血が滲んでいた。呼び掛けると、その猫は声を出さずに鳴いた。連れ帰ろうとしたが、一定の距離を取ろうとする。結局、見失ってしまった。

 こんな事もあった。

 朝靄の中、キコナが庭石にちょこんと座っていた。やっぱり包帯に巻かれている。病院から逃げ出して来たのは明らかだった。近寄ると、さっと逃げる。私の猫撫で声に振り返りはするが、決して距離を縮めようとしない。

 或る夜は、私が帰宅すると既に布団の上で丸くなっていた。包帯にまだ血が滲んではいたが、退院が許されたに違いないと思われた。撫でようとすると、キコナは寸でにかわし、さっさと寝室から出て行ってしまった。

 似たような事が幾度となく繰り返された。包帯の白と、血の赤と、そしてキコナの毛色とが鮮やかな印象として残った。

 全て夢の中の出来事だと気付くのに、私は存外の時間を要してしまった。

 

 獣医からの連絡でいそいそと駆け付けた私に、キコナは甘え声を上げた。

 肩から胸に掛け、縫合の痛々しい線が走っていた。周辺の毛は大きく刈られ、不格好極まりないシルエットだったが、何れは元通りになる。怪我の完治に勝るものはなかった。

 帰宅したキコナの最初の仕事は、方々に頬を擦り付ける事だった。私の向こう脛にも飽きもせず何度も激しく頭突きをました。必死に元の日常を取り返そうとするその姿に、私の目頭は熱くなった。


 ただ、微かな違和感があった。

 黄粉きなこを思わせる毛色が、以前よりも暗くなった気がするのだ。

 何本か黒い鬚が交じっている。以前は全部が綺麗な白だった筈だ。

 尻尾はもう少し長かった、目はもうちょっと大きかった、鳴き声はもっと可愛かった――際限なく疑問が湧いてしまう私が居た。

 獣医に問い合わせると、入院生活の影響だろうと説明された。環境や体調に因って変化するのが生き物、そういうもんです、と言い含められた。

 今更、室内飼いという訳には行かない。キコナは私の起床に合わせて目覚め、屋外へ出掛ければ三回に一回は獲物おみやげくわえて帰り、餌にがっついた後は素知らぬ顔で寝入ってしまう。

 以前と何も変わらない猫がそこに居た。日常が戻った事は確かなようだった。


 或る時、キコナが夢で言った。

 ――お前は余が本物のキコナではないと疑っているな――

 私は首を振る。

 ――いいや、お前は疑いに囚われながら日々を過ごしている――

 私は激しく首を振る。

 ――疑えば全てが消え失せるぞ――

 全てとは、と訊ねる。

 ――猫の居る風景、猫と共に流れる時間、猫という概念、そしてキコナとの掛け替えのない人生――

 夢は獣医からの電話で破られた。

 術後の経過が芳しくない、もしもの時の覚悟を決めておいて欲しい、との事だった。


 もう目を瞑っても眠れない。

 包帯の白、血の赤、キコナの毛色。夢を見ようと努めれば努める程、眠る事さえ出来ない自分に気付く。

 連絡が怖い。次の一報で全てが変わってしまうかも知れない。

 寝返りを打つ度に涙が溢れ落ち、ひりひりとした痛みが頬に走った。


 ――じょり、じょり、じょり――


 眠りを解いたのは、ざらついた猫の舌だった。黄粉のような毛色が朝の光に輝いている。

「……やっと還って来たね」

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