どちら側から景色を見るか

もう何度も似たような目にあってる。

一つの物事をどの方向から見るかで、意見が食い違う話。

すべては、言葉が足りないことで起こる現象だとは思うんだけど。


ゼロから何かを創り出す。やった人しか知らない大変さ。

経験のない人に、その大変さを分かってほしいとは思わない。でも、創り出したものを作り手が大切にしていることは、理解してほしいと思うのはワガママなのだろうか?


例えば、大切な人のために一所懸命作った料理を、さらに美味しくするにはどうしたら良いか? そう模索している人がいるとする。

その人に「こうしてみては?」と提案する人と、「そこまでしなくて良いよ」と止める人がいる。


この両者の違いは何か?

提案する人は、相手の想いを見ている。

止める人は、相手の労力を見ている。


どちらも相手を気遣っている。別々の方向から。

これに正解はない。判断するのは、料理を作っている人。


私は、相手が自分から「ここまでにする」と言わない限り、見守ったり助言するタイプ。

そして、私が助言するやり取りを見てる人から言われることが、大抵以下の内容。


「なんでクオリティを求めようとするの? 店でも出す気?」


どこまで完成度を求めるかは、作り手に決定権があって、私じゃない。



上記の例から更に、条件を追加してみる。


料理の材料を無償で提供した人が、料理を作っている人の大切な人だったら?

より美味しいものを作りたい、その気持ちを尊重したいと私は思った。


でも、材料を提供した人は「そこまでしなくて良いよ」と言う。

その人が言うには「自分が材料を提供しているのだから、そこに敬意を払ってほしい」とのことだった。

要は、自分の意見を尊重してくれ、ということらしい。


ここでも、どちら側から景色を見るかで考え方や想いが異なる。


敬意を払ってるからこそ、料理を作る人はより良いものを作ろうと頑張っている。

敬意を払ってほしいから、自分の意見(クオリティを求めないこと)を尊重してくれと思う。


これね、料理を作る前に、相手に伝えるべき情報だったと思う。

「材料は提供するから、自分の考え通りに作ってほしい」

そう言っていれば、それこそ無駄な労力と時間を割く必要はなかった。


「敬意と尊重がない」


材料の提供者から言われた言葉。絶句した。


相手への敬意・尊重・気遣い……私は分からなくなった。


以前にも書いたが、私は、自分のことを「こうだ」と決めつけられるのが大嫌い。どんなに仲が良い相手でも。


視点の違いが大きすぎて、私はもう何も言えない。何を言って良いのかも分からない。

ただ黙って頷く存在であれば良いのなら、私はそこにいたいとは思わない。


私の世界は『そこ』だけではないから。


以上、本日はここまで。

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