三十八話 荷をおろせた者、悩む者

 どうして海脛の名前を残したのか?

 

 月乃が問えば、波田 栄二は戒めだと答えた。

 彼は叔父に引き取られ、普通の生活を与えられ、家族を手に入れられた。今では孫までいる。

 けれど自分があの場所の出で、あの家の血を引き、あの集落の闇を見てきた人間だということを忘れないために残したのだという。


 しかし、全てが終わった今は――もう名前を残す必要もない。若者がひとり亡くなったのだから、高原パークも閉園するつもりだと言った栄二だが、その顔は晴れやかだった。


 そんな波田 栄二に見送られ町を後にした月乃は、全員が怪我もなく無事だったことに安堵の息を吐いた。


(祭さんも人が悪いんだから。……食べられようなんて言うから、びっくりしちゃった)


 ――コテージで訳の分からないモノに襲われた時はどうなることかと思ったが、不穏なことを言う祭に抱きしめられて恐る恐る目を開ければ麓の町だった。祭いわく、マズくて追い出されちゃったみたい、とのことだったが……。ひとり残った和が心配だった月乃は、すぐに戻るのだと思っていた。


 だが、祭は予想に反した行動をとった。月乃を連れて行きたいところがあると言って、件のパークの所有者である波田 栄二を訪ねたのだ。そこで、月乃はあの土地にまつわる秘された話を聞いた。

 

 思い出したくない記憶を語ったからか、体調が悪そうな栄二につきそうように言われた月乃は、結局パークへ再度足を踏み入れることはなかった。


 再びパークへ向かう祭を見送り、不安そうな栄二を励まし続けた。そして、祭はもちろん和も無事に戻ってきて、栄二も安心し……仕事は無事に終了したのだ。

 そのはずなのだが、なにかがおかしかった。


 和は栄二が感謝している最中にふいっと外に出てしまって以降、波田家をお暇するまで顔を見せなかった。車内でも、そうだ。

 

「どこかでご飯食べていこうか~」


 もうすぐ夕方になるからと祭が提案すれば、なにかしら言う和が黙っている。

 ぼーっと窓の外を見て、心ここにあらずといった様子だ。

 さすがに、月乃は心配になった。


「和くん? 大丈夫? 車に酔った?」

「……え?」


 トントンと肩を叩けば、和はハッとして月乃を振り返るが――どこか反応が鈍い。


「わたし、持ってるよ。よかったら」

「ぁ……いや、いい。大丈夫だ」

「そう? 遠慮しないでね」

「……あぁ」


 やはりおかしい。なんというか言葉に切れがない。

 祭は和を構う月乃を見て「できた後輩ちゃんだね~」なんてからかったりと、いつも通りなのに……。


(なにか、あったのかな)


 祭が、月乃を再度あの場に連れて行かなかったということは、今の月乃では対処できない事態で役にも立てない状況だった――そう理解している。

 力量不足、経験不足、それらと心配することはまた別だ。

 そんな月乃の心情に気付いたのか、祭が笑った。


「なごちゃんは、ちょっと失敗して落ち込んでるだけ。気にしない気にしない」

「え……ぁ……」


 月乃が口ごもり和をちらりと見れば、彼の肩が一瞬はねた。だらんとしていた手が握りこまれぎゅっと力がこもる。


 ずっと窓の外を見ている和の表情はうかがえないが、彼がなにかしらの感情をこらえていることは月乃にも分かった。

 きっと、今月乃があれこれ話しかけても和には負担だろう。月乃はミラー越しに祭に頭を下げると口をつぐんだ。


 聞こえるのは流しっぱなしの音楽と、それに合わせた祭のハミング。やたらと明るいその曲調が似合わない車内の空気だった。

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