三十五話 千依里②
千依里が大きな声で泣きじゃくれば、彼女の体からあふれ出ていた紅い液体がどんどん薄くなり透き通っていく。和はその様子を、デトックスかと思いながら見ていた。
「栄ちゃん、栄ちゃん、ごめんね。止めてくれたのに、必死に止めてくれたのに……どうしても許せなくて……!」
千依里の記憶にある波田 栄二は、幼い姿なのだろう。
現在の波田は八十を超える高齢だ。もし今回の案件に通報者がいるとすれば、それは波田 栄二以外いないだろう。
孫の友人と紹介されたお客さんが常識外れの行動を取り、結果覚えのある死に方をした。
そして、祠は壊されていて井戸も――千依里の言葉通りなら、ゴミが捨てられていたりなんなりで汚されていたとなれば、血相を変えてもおかしくない。
「波田 千依里」
「……日根さん、まだその名前で呼んでくれるの?」
「どうでもいい。――それより、同僚を返せ。お前、自分の寝床に持って行ってまだ食ってないだろ」
「……ごめんなさい、できないわ」
「……あ?」
千依里は井戸を見た。
「ここの底が私の寝床。……でも、元は神様が残した神様の領域。たしかに、最初の人はここに引きずり込んで溺れるのを見ながら魂を剥がして少しずつ少しずつ食べてやったわ。でも後のふたりには、もう少し優しくしてあげようと思ってひと思いにやるつもりだったんだけど……私が食べたはずなのに、お腹の中にも寝床にも、どこにもいないの」
「……いない?」
ごめんなさい、と千依里は繰り返す。
てっきり、千依里が保管していると思っていた和は予想外の返答に押し黙る。
「……俺は、お前をこのままにはできない。同僚ふたりの件は保留にしても、人間ひとりを食ってるんだからな」
たとえ人間に非があれど、このままさようならとはできないのだ。
「お前を、然るべき場所へ連れて行く」
「私、死んでしまうのかしら?」
「……眠るだけだ。ただ、眠るだけ」
「……そう。残念だわ」
和の答えに、千依里は肩をすくめた。長い舌がちろろっと動く。
「死んでしまえば、神様に会えると思ったの。……お会いして、ごめんなさいと言えるかもしれないと期待してしまっただけよ」
「――それは……」
寂しげな微笑に、なんと返したらいいのかと和が言葉に詰まると……。
「じゃあ、死んどく?」
かわりに空気を揺らしたのは、脳天気な声だった。
場違いで腹立たしいほどに、気負いない一声。
それが和の耳に届くと同時に、ぶつっと音がして千依里の体が横に傾き――半透明になった液体が側頭部から噴き出した。
ぶしゅぶしゅと飛び散る、紅く色づいた半透明の飛沫。右の側頭部から噴き出したそれは、地面を汚し祠をも濡らした。
「……ぁ、ぇ?」
「人に非ず、されど神でも非ず、姿形の妖しきものの境界を乱すもの、これすなわち害悪――お望み通り、死ぬといい」
状況を読めない千依里が戸惑うようにかすれた声を零すと、答えるように穏やかな声が森に響く。
きょろり。縦長の瞳孔が動き、千依里が声の主の姿を認識する。
すると、彼女はぐらぐらと体を不安定に揺らした。
「おい……!」
「〝動くな〟」
慌てて駆け寄ろうとした和だが、たった一声で足が止まる。
「――祭っ!」
声のするほうをにらみつけて、和は怒鳴りつけるようにその名を呼んだ。
「だって~汚れちゃうでしょ、なごちゃん?」
車を降りたときとなんら変わらないスーツ姿の祭が、手の上で黒い石を転がしながら笑っている。
「お前はっ、なんで、こんなっ……」
「人殺しの化け物なんか、お国のためにも殺したほうがいいでしょ。本人も死にたがってるなら双方合意で、問題なし!」
からからと明るく笑う祭は、そのまま掌で転がしていた黒い石を指で弾いた。
千依里の体に、次々と穴が開き壊れた水道のようにそこから水しぶきが上がる。
そんななか、縦長の瞳孔がさまようように動き、呆然と立ち尽くし和をとらえた。
ゆっくりと、その目が細められ――。
「……ぁ、ひね、さん……どうりょ、か、た……ぶじ、で……」
ふわりとした笑い方は、波田 千依里のものだった。
半透明だった飛沫はやがてどんどん濃い赤になり、縦長の瞳孔がぐるりと一回転して人間の目に変わり――濃い血臭が立ちこめる。
裂けた口も、ぬらつく足も、全てが人の形に変わり――やがて体に開いた穴からだらだらと血を流すだけになった体は、その場に倒れ込んだ。
「よかったねぇ、食った神様の力は今ので全部吐き出したから、きみは人として死ねるよ。あの世で神様に会えるかもね」
とことこと千依里のそばに近づいて、彼女を見下ろした祭は笑顔でそんなことを言った。
それを聞いた千依里は、苦痛や無念……怒りを見せることもなく、安心したような笑みを浮かべ……。
「……わた、し……これで、ゆる……――……」
それっきり、なにも言うことはなかった。
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