三十四話 千依里①
叫んだ千依里の口が耳の近くまでパカリと裂ける。ギラつく鋭い歯がぞろりと生えた口内が露出し先がふたつに割れた長い舌がにょろりと垂れてきた。
和をにらむその目は、爬虫類を思わせる縦長の瞳孔に変化しており、眦と口の端からは血を思わせる紅い体液がダラダラと止めどなく流れ出る。
「わたしのせいじゃないぃぃっ!!」
絶叫とともに千依里は和の体を押す。
ずるずると地を滑るように動いた千依里は、井戸のふちまで和を追い込んだ。
――ぴちゃん。
錯乱したように喚き頭を大きく振る千依里から流れ出た体液が、跳ねて井戸の中に落ちて、反響する。
(あぁ、なるほどな。ミハギ様に通じる道ってのは、あながち嘘じゃなかったのか!)
この土地すべてがミハギ様――土地と一体化しているならば、どこだろうとコレは現れる。どこにだって、出てこられるだろう。
コテージの中だろうが例外ではなく、自在に己の通り道にしてしまえる。
ならばこの井戸は?
(どいつもこいつも陸で溺死したって? ……身から剥がされるだって? つまりは、この井戸の底がコイツの本拠地なんだろうさ!)
ぐらりと体が傾ぐ。千依里が笑う。早く落ちろと言いながら。
泣いているような怒っているような悲しんでいるような、下手くそな笑いかただ。
「お前は結局、なにがしたかったんだ」
様変わりした千依里は紅い体液で顔中をべとべとにしながら叫んだ。
「わたしのせいじゃない!」
「またそれか。……そんなの知るか! 助けて欲しかったのか、人類皆殺しにしたいのか、どっちなんだよ!」
和も負けず劣らずの声量で怒鳴りつければ、千依里はこうなって初めて和の声が聞こえたようにハッとして……。
「――たすけて、ほしぃ……わたしを、たすけて……――」
「…………」
「お腹がすいてたまらないのぉぉ!」
ぶしゅぶしゅと体中から紅い液が噴き出して、下半身がぞろりと長い蛇のものに変わる。やけにヌメヌメとしているのは、表面に滲む紅い液のせいだろう。
「……膿を剥ぐ、か。……散々、負を押しつけられて、名前のあるなにかになれたってのに……」
「復讐しないと、たくさん食べて、復讐するのよ。お祖父様もお兄様も、お姉様も、みんなが望んだわ。あの男に神の罰をと――だけどミハギ様はあの男を罰してくれない! だから私が、私こそが、新しい神様になるべきだと!」
「……そうかよ。なんでこんなに汚れてるのか、よく分かった。原因はお前だ、波田 千依里。……お前は自分が信じてきた神様とやらを、食ったんだ――だから、呪われた」
千依里も、この土地も、人も、裏切りの代償に呪われたのか。
そして奇跡の水は絶え、千依里たちの企みに手を貸さなかった一部の者だけがかろうじて生きながらえたけれども、不毛の地では暮らしていけず……結局、海脛という名前は消えてなくなり――人に非らざる身となった千依里だけが残った。
私のせいではないという叫びは、こんなはずではなかったという後悔。波田 千依里という人間が残した悔恨だ。
問題は、なぜ今なのか、だ。
これは昨日今日生まれたモノではない。
神になったモノを食らった人間の成れの果て――それがどうして今、いきなり活性化したか分からない。
(いや、待てよ。生贄になった奴の足跡があったな……。あの祠にも荒らされたような形跡が……――)
壊れたように笑い吠える異形の女。そのぬるつく手を、和はぎゅっと握った。
とたん、驚いたように千依里が身を固くし、力を緩める。
「……そうか。分かった。お前は、無理矢理起こされたんだ」
森林は立ち入り禁止。けれど、一部の網が破られていた。
井戸の側にある小さな祠は、一度めちゃくちゃにされた痕跡がのこっている。
だから、コレは被害者を言葉巧みに操りここまで誘い込んだのかと思った。だが、この土地と同化しているのならば、そんなまだるっこしいことは必要ない。
逆だったのだ。
室内で溺死した被害者は、この場所に入り込んだからこそ死んだ。
この祠は、信仰ではなく鎮魂のためのもの。
井戸の中で眠っているはずだったモノを、祠と井戸を荒らしたことによってたたき起こした。
千依里だったモノがこうなった原因――彼女を突き動かすものは怒り。
自身が信仰した神の領域とも言える井戸を穢されたことへの怒り、自身の眠りを妨げられた怒り。そして、人であった時に抱いた怒り。掛け合わさったそれが、目を覚まし暴走する引き金になった。
そして、報いを受けさせた。
神であれば、それで終わった。けれど、千依里は神を食った人間で、怒りで目覚めたショックから記憶を混濁させた。
自分がまだ人であると思い込み、すでに過去になった一族の使命にすがり、すでに故人となった男を成敗して欲しいと希望を持った。
かつて本当にいたのかもしれない――集落の老夫婦の幻を作り出し、普通の少女を装って他者を頼る。
今までの行動は、彼女の願望。
だから違和感だらけだった。都合がよすぎた。
ちぐはぐだった女は、なんてことはない呪いの代償とも言える異形の性と人の性に挟まれ振り回されていたのだ。
「で? 目が覚めたお前は、このまま腹一杯になるまで人を食い続け、昔信仰した神様を越える神にでもなるつもりか」
「だって、お腹が減るのよ? 神様を食べてからずっとずっとお腹が減るの――弟を食べてしまいそうになって、私……」
不自然に言葉が途切れた。
自分が今なにを口走ったのか確認するかのように、パチパチと数回瞬きをした千依里は和の肩から手を離す。震えた手を和がまだ掴んでいるのを認めると、縋るように握りしめる。
「私、そう私……耐えきれなくて、井戸に……ここに身を投げたのよ! 神様許して下さいって、罰して下さいって思って……――私、栄ちゃんを食べようとしたんだもの!」
「……栄ちゃん?」
「あぁなんてこと……栄ちゃん、栄二、ごめんなさい、姉さんを許して……! あんなに止めてくれたのに、お前をぶった私をゆるしてちょうだい……!」
あぁ、なるほど。
和は小さく呟いた。
「神様のほうは知らないが、栄二さんならとっくにお前を許してるだろ」
「…………」
「ほら、あの祠。お前なら、どういう意味か分かるだろ」
それまで一度も関心を持たなかった千依里は、目を見開いて食い入るように祠を見つめた。
「麓の町の名士、この土地の所有者。その人の名前は波田 栄二」
「えいじ……」
「お前の弟は、ちゃんと土地を取り戻したんだよ。それで、今までずっと守ってきた。この祠がなによりの証拠だろ」
波田 栄二の経歴は調べればすぐに出てきた。
肉親を失い、故郷を出て東京の大学まで出ていたが後に帰郷。それからは地元に貢献しつつ、すでに廃された故郷の名前を冠する施設をつくり今に至る。
「ぁ、ぁぁ……ぁあああっ」
――千依里が大きな声を上げて泣き出した。
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