二十九話 いる?
――和の願いなど知らない月乃は、祭と共にコテージの中に足を踏み入れていた。
現場となったコテージは森に囲まれており、窓にカーテンが引かれているせいか屋内は薄暗い。
ぴっちゃん。
どこからともなく水がしたたる音が聞こえた。やけに響くそれが気になり、月乃はキョロキョロと音の発生場所を探すが――ぐにゅり、と突然床に足が沈み込む。
月乃の体重がかかったやけに柔らかいその場所は、濡れたスポンジのようにぐちゃりと水分を吐き出し月乃の足を汚す。
「ひぃ、ひぇっ、なに!?」
とっさに後退して、月乃は悲鳴を上げた。よろけた月乃を後ろから支えた祭は、小首を傾げる。
「ん~? 床が痛んでたのかなぁ?」
「そんな感触じゃなかったですよ!? ぐにゅってっ、お肉みたいに、ぐにゅって!」
鳥肌が立つ感触だったと月乃が訴えるものの、ふたりそろってのぞき込んだその場所は、傷んでいるわけでも別の素材に取り替えられているわけでもなく……なんの変哲もない床だった。まるで水でも零したようにそこだけ色が濃くなっていることをのぞけば。
「……こ、このコテージってもしかして……お化け屋敷的な……」
「あは」
月乃が恐る恐る祭を見上げると、彼は楽しそうに笑い声を上げる。
「勘がいいねぇ月乃ちゃん。正解でーす! おじさん的には、恐怖! 呪いのコテージ! みたいな感じの煽りがシンプルかつダイレクトでナイスだと思うんだけどさぁ。どう思う?」
「わ、分かりやすくていいと思いますけど、い、一回外に出ませんか? あ、足が濡れちゃって……」
ぎくしゃくと動き出した月乃が、すぐ目の前にあるドアに手をかける。
「……えっ、あれ?」
開かない。
「あっはぁ、定番だねぇ」
月乃は顔を青くするが、祭は余裕綽々といった様子で笑っている。
その鋼の神経を羨ましく思う月乃だが、逆に祭が落ち着いているからこそ自分もまだ理性を保っていられるのだと気付いた。れで祭も慌てていたら、それこそ月乃は目も当てられないパニックに陥っていただろう。
普段は笑顔でけむに巻く言動が多く、自分たちをからかいがちな上司の頼りがいのある面を見た月乃は、すーはーと深呼吸して次第に落ち着きを取り戻す。
「――よし」
「ん? 落ち着いた?」
「はい。取り乱してすみません」
「いやいや、これくらいのリアクションなんかカワイイものだよ。立て直しも早いし、やっぱり月乃ちゃんはいいね」
はて、と月乃が首をかしげる。祭はにこにこしたままだ。
褒められている?
試されている?
よく分からないが、今の行動は祭のなかでは好印象らしい。
「え、えっと……、とりあえず、電気つけますね」
しかし、ならばなおのこと、閉じ込められてこのまま入り口に留まるなんてことはできない。なにかしないと、と思った月乃は室内を明るくするためにスイッチを探した。
廊下を照らすためのものは、入り口の壁に設置されていてすぐに見つかる。月乃はそれをパチッと押したのだが……。
「つかないね~」
「です、ね……」
うんともすんとも言わない。
もしかして、このコテージには電気が通っていないのかと思ったが……人が亡くなるまで利用されていたはずだ。その前に設備のチェックはしているだろう。
だとすれば、事件の後の不具合かと月乃は天井を見上げてもう一度スイッチを押そうとして――ぐにゅっとした柔らかく湿った感触に、驚いて手を離した。
「ひっ!?」
「月乃ちゃん?」
「ま、また……!」
そこを見ても、変哲のない壁があるだけ……だけ、だったのだが……。
電気のスイッチに触れていたはずの月乃の指先は、ねちゃりとした粘つく赤黒い液で汚れていた。
「――っっ」
喉が引きつって声が詰まった。
恐る恐るスラックスの片足を見れば、そこもぐっちゃりと同じ色に汚れている。
パクパクと口を閉じたり開いたりするだけの無為な動作。なんの言葉もでてこない。
ぴちゃん。
水音がする。
ぴちゃん、ぴちゃん、ぴちゃん。
――ぴちゃんっ!
やたらと耳につくその音がすぐ近くで聞こえ、月乃の顔に雫が落ちた。
そっと手で拭った時に見えた色は、赤。
気がつけば、あちこちで水音がして、雨漏りのように雫が落ちてくる。
月乃は、この時初めて知った。
人は本当に恐怖して驚くと、悲鳴すら出せないのだと。
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