袖振り合うも多生の縁

十七話 変化

 雲野さん、最近変わったね。

 

 そう言われることが増えた。

 好意的な意味で言われる場合もあるけれど、職場では微妙な視線を向けられている。ハキハキしたねと言われているけれど、陰では「自己主張激しくてウザい」と言われていることを知っている。

 

 ――月乃は昔、学校生活でつまずいたことがある。


 中学生の頃、友だちとうまくいかなくなり、無視されるようになった。

 幸い高校ではそんなこともなく、無事卒業できたが……中学の頃は学校に行けない日も多く、気がつけば月乃はことさら人の顔色をうかがう人間になっていた。

 困っていたら手を貸す――それは一度目こそ親切な人になるが、頻繁に繰り返せば便利な奴と思われる。


 頼まれれば断れない月乃は、友だちからの頼まれ事をよく引き受けた。けれど、月乃が困ったときに手を差し出してくれた相手というのは……いなかった。


 就職してからもそれは変わらない。

 飲食店で働く月乃だが、突発で予約が入れば必ず月乃が残業になる。同僚に遅番を頼まれることも多々ある。

 けれど月乃が交替を頼むときは、誰もが「若いんだから」と言って無理してでも出るように圧がかかる。

 店長も、月乃が一番大人しくて御しやすいと思っているからか「雲野さん、悪いけど今月もうちょっとだけ頑張って」なんて言って、調整もしてくれない。

 

 それでも自分が我慢すればうまくいく。

 そう思っていた月乃だったが、ある日――雨に降られてずぶ濡れで家に帰った日から意識が変わった。


 それは違うだろうと思い、無理なことは無理と言うようになった。すると店長からは、月乃のせいで雰囲気が悪くなったといい協調性を持つように諭されたが、自分がこれまでシフトを変わったりサービス残業したりしてきたことを言えば、店長は渋い顔で黙った。

 無理なことを無理と言うようになった月乃は、便利で扱いやすい存在ではなくなり、目障りな存在になったらしい。これ見よがしに陰口を言われ、店長に怒鳴られる日々が続く。


 ――けれど、月乃は。


(強くなるんだって、約束したんだから)


 誰と?

 覚えていない。けれど、とても大切な相手だった気がする。

 あぁ、もしかして夢の中でミコに言ったのかな、なんて思って……月乃は今日も仕事をしていた。


 カランと入店を知らせるベルがなり、月乃は笑顔を浮かべて振り返る。


「いらっしゃいませ、何名様ですか?」

「――っ……ぇ、ぁ……」

「あ、ふたりです」


 明るい髪色で、人当たりのよさそうな柔和な顔立ちの青年。

 もうひとりは癖のある黒髪に、意志の強そうな目をした少年。

 最初に店内に入ってきたのは少年だったが、月乃が声をかけると目をまん丸くして言葉に詰まってしまって、後ろにいた男が答えたのだ。

 席に案内してもじっと自分を見る少年に、月乃は首をかしげる――それから。


「あっ……! あの時の……!」

「へ……?」

「二ヶ月前、雨の日に上着とハンカチを貸していただいた者です」


 言えば少年はそろりと視線をそらした。

 テーブルを挟んで座っている青年は頬杖をついてニヤニヤしていて、月乃は言わないほうがよかったかなと思い、謝って席を離れた。


「……っとに、男に媚びうる暇があったら仕事してよね」


 きつい言葉が飛んでくる。

 以前は、なんどもかわりに出て欲しいと頼んできた相手だった。けれど、彼女がかわってくれたことはない。


「必死に女出して色気アピールしても、イタいだけだから。つーか、客に色目つかうなし」


 馬鹿にした笑みを浮かべる男は月乃の先輩で、教えてあげると距離の近い人だった。 

 月乃が周りに目に見えて嫌われだすと、彼も同じように月乃にきつく当たるようになり、時にはセクハラめいたことを言うようになった。

 最悪の職場だと思う。

 元々、我慢で成り立っていた仮初めの平穏だったのだろう。月乃が少し自己主張すれば他愛なく壊れる。その程度のもの。


(次の仕事を探さないと)


 忙しなく動き回りながらも月乃は胸中で呟く。以前なら、自分が悪いのだと思い消沈しただろうが、今はもう次のことを考えている。

 両親を心配させたくないので、仕事が決まるまでは黙っているが、月乃はもうここを辞めるつもりだった。


(でも、その前に、あの子に上着とハンカチ返したいな……)


 三番テーブルをチラリと見ると少年の不機嫌そうな顔が目に入った。近寄りがたいと思わせる彼だが……。


(優しい子だもんね)

 

 いいように使われるだけだった月乃に、親切にしてくれた見ず知らずの少年。

 ――ぶっきらぼうに、手を差し伸べられた記憶が蘇り……。


(ん? あれ? 違う。普通にハンカチ貸してくれて、上着を……)


 ありえもしない記憶が浮かんで月乃は戸惑う。

 しかし、深く考える暇もなく「ちょっと雲野さん! 補充なってないじゃん!」と厨房から怒鳴り声が聞こえてきた。


 今日の補充は月乃の担当ではないので、とんだ八つ当たりなのだが――呼ばれれば無視はできないし、怒鳴り声を聞いていい気持ちがする客はいないだろう。

 ここで行かないと延々と怒鳴っていそうなので、月乃はため息をついて向かう。

 視界の端で、同僚の女性が三番テーブルに減ってもいないお冷やを注ぎに行っていた。

 声がいつもより二段高く、鼻にかかっているのは……おそらくあの柔和そうな青年が好みなのだろう。

 たしかに顔はいいけれど……なにか曲者っぽいと思う月乃と、手持ち無沙汰の少年と目があった。


(きれい。水面越しの星空みたい……)


 そんなロマンティックなことを考えてしまった月乃は慌てて視線をそらし、厨房にかけこんだ。少し浮き立った気持ちは、自分のミスを棚上げして八つ当たりしてくる調理担当者の怒鳴り声でたちまち沈んだ。

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