六話 知らないわたし


 思いがけず聞こえた声に反応し、月乃の視線がそちらに向けられる。

 

「え~」

「え~じゃない。お母さんは、両手がふさがってるんだけど?」


 向こうから、ふたつの人影がやってきた。

 買い物帰りらしい親子の姿を見て、月乃は息をのんだ。


「な……なんで……」


 並ぶ親子は、どう見ても母と――自分だった。


「わたしだって、荷物持ってるもん」

「月乃、あんたのほうが若いんだから、ちゃっちゃと行く!」

「ちぇ~。買い物手伝った娘なのに、あつかい酷くない?」

「はいはい。でも、あんただって食べるでしょ」


 母の顔には焦燥も憔悴も浮かんでいない。

 なにごともなかったかのような――普段通りの月乃の母だ。

 普段通りに、仕事が休みの娘を頭数として駆り出し、個数制限のあるなにかしらをゲットしてきた。そんな、おなじみの光景なのに、月乃は引きつった悲鳴を零す。


「――ひっ……」


 母に言われて自宅に駆け込むのは、あれは、誰だ?


「お父さんが先に帰ってたみたい。鍵開いてたから玄関に荷物置いてきた、持つよ」

「あら、ありがとう月乃」


 違う!

 そう叫ぼうとして声が出ない。

 足が震える。


 自分と同じ顔をして同じ声で喋るなにかが、当たり前のように家の中に入っていく。

 母はその後を追うように家に入ろうとして、途中で月乃と祭に気づいたようだった。


(お母さん……!)


 一縷の望みをかけて、月乃は母を見た。


(わたしは、ここだよ! わたしが、本物の月乃だよ!)


 娘がふたり。

 きっと驚くだろうが、違和感を持ってくれればいい。そうすれば、すぐに分かるはず。

 分の居場所に、自分そっくりのなにかが居座っていることに、恐怖と焦りを覚えた月乃は縋るように実母を見る。


 だが、母は月乃の顔を見ただろうになんの反応も見せなかった。

 ただ「どうも~」と笑顔と軽い挨拶をして、なにひとつ気に留めず家の中に入っていく。


「ま――」


 待って、お母さん。

 そんな月乃の声は、家の中から聞こえる何者かの「おかあさ~ん!」という呼び声に負けた。

 母は、その声に「はいはい、待ちなさい月乃」と返事をして家の中に消えてしまった。


 ――そして月乃は、その場にぺたんと座り込んだ。


「月乃ちゃん」

「……な、んで……? なんで、お母さん……?」

「大丈夫? 立てる?」


 立てるわけがない。

 力が入らない、訳が分からない、ぐるぐると頭の中を回るのは「どうして?」という疑問だけ。

 ショックだった。

 母が、見知らぬ他人のように自分をみたのが。自分の娘の顔を分からなかったのが。


「荒療治だけど、これで理解出来たよねぇ?」

「…………っ」

「泣くんじゃねぇとか、なごちゃんは言ってたけど……そりゃ無茶だよ。びっくりしたよね?」


 祭はその場にしゃがみ込むと、まともな返事も出来ず呆然とする月乃の両頬を手で挟み、いささか強引に目を合わせた。


「存在を、まるごと乗っ取られるってのは、こういうこと。今まで自分が築いてきた立場や繋がりも、全部そいつの物になる」


 乗っ取られる――あぁ、これは本当にその通りだと月乃は思った。

 あまりにも、似すぎている。だというのに、母は同じ顔である自分を見ても動じなかった。まるで、ここにいる自分が知らない人に見えているような、当たり障りない反応だったと月乃は肩をふるわせる。

 

「わ、たし……わたしが、雲野 月乃ですよね? わたしが、本物の――」


 どうしようもなく不安で恐ろしくて……言っている間にも、ポロポロと涙がこぼれた。

 

「うんうん、怖いよね? ……大丈夫。それを解決するために、おじさんたちが来たんだから。……ほら、立って? ここは、もういいでしょ。ね? 移動しよう?」


 ついっと腕を引かれて、ようやく涙が止まった月乃はノロノロと立ち上がった。

 ふらふらとおぼつかない足取りで、なんとかコンビニまで戻ると、和が車の外で待っていた。

 

「おかえり」

「――っ」

 

 開口一番、ぶっきらぼうにそんな言葉をかけられて――母に、かけてほしかった言葉だったと思ったら……月乃は一度は止まったはずの涙をぶわっと溢れさせた。


「……おい。俺は泣くなって言ったはずだぞ」

「なごちゃん、泣いている女の子に、それはないでしょうよ?」

「泣いてどうなるんだよ。どうにもならないって分かるだろ」


 あぁ、そうだ。その通りだ。

 月乃は、コクリと頷く。


(和くんの、言うとおりだ……)


 泣いたって、どうにもならない。

 だって、あそこに月乃の居場所はないのだから。

 

 ――家に帰れば両親が「おかえり」と「心配したよ」と、そう言ってくれると思っていたのだ。祭や和の言ったことなど、心のどこかで半信半疑でありえないなんて思っていたのだ。けれど、頭の片隅では不安を感じていた。


 その不安を無視できなかったからこそ、祭と和に頼ったのだ。

 ありえないと思いながらも、もしかしたらという不安を抱いて……その不安を直視したら、自分が今まで普通に歩いてきた道がガラガラ崩れてしまいそうな気がして怖くて。

 

「……ご、めな……さい……」

「あ?」

「……和くんたち、言ってたのに……ちゃんと、説明してくれたのに……わ、わたし……そんなことないって、思いたくて……! そんな普通じゃないこと、あるわけないって、思っていたくて……」


 自分が家に帰れば終わり。全て元通りになると思っていた。

 いや、月乃はそう思い込みたかった。


「……だから、泣くんじゃねーよ」


 面倒くさい。

 そう言いながら、和はビニール袋から一本のペットボトルを出した。


「ん」


 それは温かいココアだった。


「お前はもう、車乗ってそれ飲んで寝るなりなんなりしろ」

「……ぇ?」

「え? じゃねーんだよ。コンビニの駐車場で、怪しい男ふたりが、女を取り囲んでるって通報されるだろうが」


 後部座席のドアを開けながら、和は言った。


「それに、これからだろ。そんなグズグズでどうすんだ、英気を養え」

「これから……?」

「取り戻す。そいつが奪ったモンは、全部お前がこれまで積み上げた、大事なもんだ――それを強奪するなんて、なめたマネしたんだ。奪い返せ」


 車に押し込まれながら、月乃は和の言葉を繰り返す。

 奪い返すだなんて、どうにも穏やかではない。けれど、和の目は真剣で、真っ直ぐ月乃を見ていた。

 この少年は、本気で憤っている。自分のために、怒ってくれている。それが分かって、月乃は両手に持ったココアを握りしめる。


「――うん……!」

 

 頷けば、和はニヤリと挑戦的に笑った。


「よし。なら、もう泣くな。泣くのは全部、取り返してからだ」


 ああ、彼の言葉は全部、励ましや思いやりだったんだなと――月乃はこの時初めて気づいた。

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