沈黙と恋人

深見九曜

第1話

 子供の頃に思い描いていた大人になれていると思っていた。


 少しくらいはきっと「理想」に近づけていたと思っていた。


 それはきっと間違いではなかったし、正解という物が存在しないとわかっていてもあの頃の私からすればそれは「正解」だったと思う。

 そんな幸せな状態がいつまでも、いつまでも続いていくと信じて疑わなかったし、今でも信じている。

 でも、現実は突然その幸せを破壊していったし私から全てを奪った。私達は特別な存在でもなく、ごくごく普通のありふれた日常をただ幸せに暮らしていただけなのに。

 だから、私はこの先、一体どうやって生きていけばいいのかまるで分らなくなっている。途方に暮れるというレベルではなく、いつも身体の力が入らない。

 けれども、最近やっと、少しづつではあるけれども身体が動くようになってきた。

人間・・・というより動物としての生存本能なのか。あるいは私自身の生命力が強かったのかわからないけれども、身体だけが元に戻り始めている。

 こうなってしまうと、健全な肉体に不健全な精神が宿っていることになりチグハグになる。このチグハグな状態が一番良くないことに気が付いた。

 不健全な肉体に不健全な精神であれば、マイナスとマイナスが相殺しあって結果的にプラスになるという数学の世界と同じことが身体にも起こる。力が入らなくて常に寝たきりの状態でもそれなりに健康(不健康だけれども)ではあった。

 しかし、チグハグな状態になってからは常に吐き気がするし、めまいがする。こうなると肉体が不健全なのではないかとなるけれども身体は何もおかしくない。つまり不健全な精神がせっかく健全になった身体を再び不健全な肉体に引きずり込もうとしている。だから、しんどい精神に鞭を打って、私は起こってしまった事象に向き合おうと決めた。

 ここに至るまで2年がかかってしまった。何もかもを失った私だけれども、この記録が終わる頃には何か一つでも取り戻せていると良いなって思える。

 田村宏司と出会ったのは大学生の新歓だった。入るつもりもなかったテニスサークルの新歓に入学式で出会って仲良くなった古谷奈々子に無理やり連れていかれたのだ。

「宮村さん、よかったら一緒にテニスサークルの新歓行かない?」

「え?テニスサークル?古谷さん、テニスやっていたの?」

 私は少しぽかんとしながら、奈々子に聞き返した。まだ入学式で出会ってから2週間しか経っていないのでどうにも距離感が掴めない。でも、先に書いておくと奈々子とはこの後に信じられないくらい仲良くなり、親友となる。今回起こった事の時も唯一最初から最後まで私に寄り添ってくれた数少ない人の一人になる。

「もー私の事は奈々子で良いよって言ってるじゃない」

「えっと、ちょっとまだ恥ずかしくて。でも、それなら私の事も絢で良いよ」

「うん、絢。私はね、別に高校の時にテニスをやっていたわけでもないし、すごい興味があるってわけでもないの」

「・・・じゃあ一体なんでテニスサークルの新歓に行きたいの?」

 私は奈々子の言いたいことが何となく予測できたけれども、あえて尋ねてみることにした。

「だって!大学生と言えばテニスサークルじゃない!!よくわからないけど!」

「うん、まあ、その、気持ちはわかるよ。私もそのイメージあるし」

「しかも、うちの大学のテニスサークルってちゃんと大学公認でそんな激しい練習とかはしないけどそれなりにしっかりしているみたいなの!」

「へえ・・・そうなんだ」

「うん!だから、一緒に行こ?」

 正直、奈々子の話を聞いても何も感じるところはなかった。私はサークルには特に入るつもりはなく、その時間をバイトに割くつもりでいたから。まだバイトは決まっていないけれども。

「うーん」

「ね!無理に一緒に入ろうってわけじゃなくて、新歓に一緒に行くだけでいいの。一人で行くのはちょっと抵抗があって」

「なるほどね。まあ、新歓ならきっと1年生の私たちは無料だろうし」

 私は大変申し訳ないなと思いつつも、ご飯が食べられるならと思った。

「そうそう。ご飯食べるだけのつもりでついてきて欲しいの!」

「わかった。じゃあ一緒に行くよ。でも私は入らないからね?」

「大丈夫!雰囲気みて合わなそうなら私も入らないと思うし」

 まだ奈々子の事をきちんと理解しているわけではないけれども、それでもこの2週間で『思ったことが口から出ちゃう嘘が付けないタイプ」ということが分かった。綺麗に切りそろえられたボブヘアーにふんわりとしたワンピースを着ていて、男子が見たらナチュラル化粧って思いそうな気合の入った化粧をしている。

 けれども、嘘が付けないはっきりと物を言うタイプなのでこの2週間で寄ってきた男子を悉く撃沈させていた。もう少し、『嘘も方便』という言葉の意味を理解すると、とんでもない世渡り上手になる気がする。まあ、私からは絶対に言わないけれども。

 ちなみに私は白のゆるっとしたパーカーにアシンメトリー丈のスカートとスニーカーという服装。髪の毛は大体ポニーテールにまとめている。量産型とまでは言わないけれども、それなりに似たような服装の大学生は多い。服装へのこだわりはそこまでなく、身体のラインがはっきりとわかるニット等は少し苦手で全体的にゆるっと着たいと思っている。

「奈々子、またほら本音がぽろっと口から出ているよ」

「えーこれくらいは別に隠す必要もないと思うんだけど」

「私はなんとも思わないけど、人によってはブーブー言ってくるよ」

「それはそうだけどさあ」

 奈々子は枝毛を触りながら少し唇を尖らせている。こういう所作一つを見ても私は「可愛いな」くらいにしか思わないけれども、一部の女子からはすでに反感を買っているらしい。女って群れると本当にめんどくさい。まだ入学して2週間しか経っていないのにもうそんなことになっているなんて。

「まあ、それは良いんだけど。それで、テニスサークルの新歓はいつなの?」

「ちょっと待ってね。えっとね・・・」

 スマートフォンを取り出し、予定を確認しているようだった。あれだけ行きたい行きたいと言うのだからてっきり日付くらい記憶していると思っていたけれどもそうではないらしい。

「明後日!」

「金曜日だね。なんか、いかにもな曜日」

「絢が言いたいこと、すごくよくわかるよ」

 ケラケラと私の意見にすんなり同意してくれる。この2週間、他の友人とも一緒に授業を受けたりするけれども奈々子といる時間が長い理由がこれだ。奈々子は間違いなく頭の回転が速い。でも、抜けがある。そしてその抜けは決して狙っているのではなくナチュラルボーンで抜けている。

「分かってもらえたならよかったかな。じゃあ明後日の金曜日ね。予定入れておくよ」

「ありがとう絢!本当に一人で行くのは嫌だなあって思っていたからすごく嬉しい」

「もう1回言っておくけど、絶対に私は入らないからね」

「わかってるよー。でもさ、テニスサークルだけじゃなくて他のサークルも何か興味あったら一緒に見に行こうね」

「うん、何か興味あったら奈々子にも言うね」

「よろしく!!あ、絢この後は?」

 奈々子の問いかけに私は手帳を開いた。

「うーんとね。今日は午後の授業が休講になったから特に何もないよ」

「私も!じゃあさ、喫茶店でもう少しおしゃべりしようよ」

 学食は13時を過ぎると一旦閉まってしまうので、外に出なければいけない。バイトの面接の予定もなく、本当にぽっかり午後が開いているからそれも良いかもしれない。

「いいよ。そろそろ出ないとここも閉じちゃうし」

「じゃあ早速行こう!気になっている喫茶店があってね」

 そんな風に奈々子の話を聞きながら私達は学食を後にした。この時はなんとも思っていなかったけれどもこのテニスサークルの新歓に参加したことが私が思う理想の大人というか、幸せな道筋を作り始めたきっかけだった。

 

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