第56話 ホームポジション

太陽の日差しが部屋に差し込む。

重い体を起こして、洗面所に向かう。

おもむろに歯ブラシに歯磨き粉をつけて

歯を磨く。


目をこすって、あくびをした。


泡が想像以上に広がった。

咳をして、むせた。


「うわ、洗顔フォームだし!!最悪だ。」


翔太は慌ててうがいをして、口の中に入った洗顔フォームを洗い流した。


「翔ちゃん、どうしたの?」


後ろから、寝起きの莉華が声をかけた。


「あのさ!!

歯磨き粉の隣に洗顔フォーム

おかないでくれない?

間違って歯ブラシつけちゃったよ。」


「えー、だって、

それはつけた人の責任でしょう。

私、関係なくない?」



「……。」


何だか腑に落ちない。

複雑な気持ちだ。

今すぐ逃げ出したい。

本当ならば、夜のうちに帰る予定が

濃いお酒をすすめられて、

そのまま寝ついてしまった。

買い物帰りに送ったまま

莉華の家に泊まってしまった。

そして、寝起きで歯磨きでこの有様。

踏んだり蹴ったり。


翔太はハンガーにかけさせてもらっていた

ベージュのジャケットを着て、帰る支度をした。


「もう、帰るの?

まだいてもいいんだよ。

朝ごはんも作る。」


「いや、いい。

ちょっと用事あったから。

帰るわ。泊まって悪かったな。」


玄関で靴を履いていると、横に立つ莉華が

ボソっとつぶやく。


「……翔ちゃん。

私は、いつでも待ってるから。

過去のことは気にしないで。」


翔太は、玄関のドアを触れて、後ろ向きのまま

話し出す。


「……俺はもう、ここには来ない。

連絡はこれっきりにしてくれないか。

もう、迷惑なんだ。」


莉華はハッと息をのむ。静かに涙を流した。

何度も言ってる。何度も振られてる。

わかっていたことなのに、聞くのは辛い。

返事を待たずに、翔太は立ち去った。


コテコテのこってりラーメンのように莉華は

しつこかった。何度も断っても連絡をしてくる。会社の上司の親戚ということもあり、断りずらい状況を作られては、連絡をスルーしてもなぜか翔太にたどり着く。



(本気で転職考えようかな…。)



ため息をついて、都会の喧騒の中、歩行者信号機が青になるのを待って、空を見上げた。


こんなにモヤモヤしているのに、空は雲が全くない。悔しいくらいに快晴そのものだった。

星矢に会いたいなと考える。

いろんなことがありすぎて、本当にしたいことやりたいことに目を向けることができなかった。


ポケットに入っていたスマホを取り出して、

耳にあてる。

コールが鳴り響く。


『はい。』


「あ、星矢か?」


『先輩、どうかしたんですか?』


「今どこにいる?」


『え、ここは…えっと…あれ?』


 街中の交差点。

 デパ地下のローストビーフ丼が気になって

 買っていた星矢が、翔太のいる横断歩道の

 向こう側で歩いていた。

 星矢はまだ翔太に気づかない。


「あ、そこにいて。今行くから。」


『え?』


スマホの通話終了ボタンが押された。

翔太は横断歩道を渡って、星矢のいる歩道まで

駆け寄った。肩を軽くトンと触れた。


「あ!!先輩。

なんだ、近くにいたんですね。

びっくりしました。」


「星矢……やっとゆっくりできるよ。

今日、お前んち行って良い?」


 星矢は一つしかないローストビーフ丼のビニール袋を後ろに隠した。本日限定品で売り切れている。A5ランクの牛肉だ。同じものを買えない。ざわざわとした。


「え、えっと、それは…。」


「なんだよ、ダメなのかよ。」


「そ、そういうわけじゃないですけど。

あーーー、わかりました。

はっきり言います。

このローストビーフ丼が本日限定商品でもう売り切れなんです。だから、独占して食べたいので先輩には分けられませんよっていう…。」


「……なんだよ。別にいいよ。

思う存分食べればいいだろ。

好きなだけ食べろよ。

俺は…そうだな。

牛丼屋のテイクアウトして

帰るから。それでいいか?」


「…いいんですか?絶対分けませんよ?

すっごい高くて分けるのが

もったいないですから。」


その言葉を聞いて、ざわざわとざわつく街のど真ん中で翔太は爆笑した。


「星矢、ウケるんだけど。

そこまではっきり独占されると、

余計に食べたくなるなぁ。」


星矢は、爆笑する翔太を見て、赤面した。

ビニール袋を大事そうに抱きしめる。

翔太は、星矢の耳のそばで小声で言う。


「俺は、ローストビーフよりもっと

いただくから、覚悟しろよ?」

ふーっと耳に風を送った。

星矢は鳥肌が立つくらいに震えた。

頬を赤くする。


「え?え?え?

それってどういう意味ですか?」


久しぶりに星矢と2人きりになれることが

かなり嬉しかったようで、星矢の家に着くまで

ずっと鼻歌を歌っていた。


手にはしっかりとテイクアウトして買った

牛丼を持っていた。


玄関に入ってすぐの壁に星矢を寄せて、

翔太は首筋に顔を近づける。


「俺、やっぱ、星矢じゃないと

ダメかもしんない。」


お互いに興奮した体はほてっていた。

持っていたビニール袋は足元に落ちた。


もう牛丼よりもあんなに食べたがっていた

ローストビーフ丼よりも

熱くなるものがあった。


翔太の想いに

星矢も拒否する理由が見つからない。

気持ちがホームポジションに帰ってきた

感覚に陥った。



あたたかくてほんわかする。


一つ一つからだに触れる指先が

丁寧で安心した。


2人は会っていない時間を埋めるように

濃密なひとときを過ごした。

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