ぶつかりおじさんに奇声をあげさせた話

こまき

反省はしていない


 『ぶつかりおじさん』、その言葉が使われ始める前から、奴は棲息していた。


 JR大阪駅。関西最大のターミナル駅である。

 通勤ラッシュ時は、基本的にどの線も混み合っているが、やはり一番の混雑具合を見せるのが大阪環状線だろう。


 当時、わたしは朝4時半に起き、5時15分に家を出る通勤生活を送っていた。

 もう少しゆっくり家を出ることもできたが、そうすると電車には絶対に座れないので、苦肉の策で始めた各駅停車通勤だった。新快速の倍はかかる通勤時間。朝焼けの雲の薄紫をぼんやり眺めているうちに朝日が昇り、その暴力的な眩しさに逆らって二度寝をかます……そんな生活を送っていた。


 さて、大阪駅で乗り換えを行うのは7時過ぎ。

 ラッシュのピークに差しかかっている。

 環状線のホームは突き当りの1番・2番乗り場なので、連絡通路を使用する。途中から道幅が細くなり、混雑やトラブルを避けるためにか「左側通行」の明示があった。

 その日も普通に歩いていた。

 構内にあるコンビニエンスストアへ寄った後だったので、降車した人たちの波は途切れており、わたしの近くに人はいなかった。

 もちろん、左側を歩いている。

 ――明日の朝は、阪神まで足を延ばして、ミックスジュースを飲んでから事務所へ向かおうかな、なんてのんびり考えていた。ラッシュを避けるあまり、職場へ着くのが始業開始時刻の1時間近く前になっており、たいていどこかで暇をつぶしていたのだ。


 と、いきなり、通路の壁が目の前にあった。

 なぜかわたしは壁に手をついている。反射的に顔を庇ったのだと分かったのは冷静になってからだ。

 何が起きたのかすぐには理解できなかった。

 理解、できない。

 ただ、誰かに跳ね飛ばされた。

 誰だ。

 今、すれ違った親父だ。50代前半。中背、小太り。

 あいつ、体当たりしてきた。

 まばらに道行く人が、わたしを見ている。

 声をかける人はいなかった。

 それはどうでもいい。

 どうでもいいのだ。ただ。

 しばらく放心しているうちに、男の背中が遠くなっていく。悠々としたその後ろ姿に、頭のどこかが切れた。誰かが「追いかけろ!」と叫んだ。わたしの声。わたしの頭の中のわたしが。

 わたしは、助走をつけるように走り出した。

 あれだ。走り幅跳びだ。学生の時の。足の遅さは学年で2番目だった。運動神経なんて切れている。

 でも、その瞬間、たぶん理性も切れていた。

 男が曲がりきる直前で、わたしの射程範囲に入る。

 その無防備な背中に思いきり体当たりをかました。(ただ、捕まるのは嫌なので手心は加えてしまった)

 男がよろめく。奇声をあげる。みんながわたしたちを見た。大丈夫、ほかに誰も巻き込んでいない。

 同じように跳ね飛ばせなかったのが残念だ。

 やっぱり女は体力的には不利だ。それに加えて、おとなしそうな見た目をしていると舐められる。今日のように。「おとなしそう」が、本当におとなしいとは限らないのに。

 反動を殺さないまま、まだ続く奇声をバックミュージックに、わたしは環状線のホーム上まで駆け上がった。

 あの雄たけびはクシコス・ポストよりも効いた。今までの徒競走で一番の記録を出したと思う。

 男は追ってこなかった。


 職場につき、憤りが収まらないままに今朝の出来事を話したところ、たいがいの人にはドン引かれたが、直属の上司だけはわたしを褒めてくれた。

 197センチある元ラガーマンの彼の趣味は、「歩きスマホをしている人が向かい側から来た時、そのまま避けずに前進し、ぶつかってよろめかせる」というものだった。


 それはちょっとどうかと思う。








 

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ぶつかりおじさんに奇声をあげさせた話 こまき @maki01171

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