BaBaA-HISAに逢うまでのNIGHTMARE-
若阿夢
前半
私、若阿夢が物心ついた時、祖父と祖母は一人ずつしかいなかった。父母どちらの家でも私は初孫にあたる。もし寿命や家庭運に恵まれた家であれば、遺伝子の仕組み上、祖父、祖母は二人揃っている。そこが、私の場合は、父方:若阿家の祖父が一人、母方:坂上家の祖母が一人。このことは、私の普通の成長を妨げた。
というのは、所謂「ひよこの刷り込み」が起こった。祖父、祖母が一人、しかも別々の家に一人しかいないイレギュラーな存在を、『祖父』とは若阿家の祖父、『祖母』とは坂上家の祖母のような存在であると信じ込んだのだ。
しかし、私の幼少期、若阿家の実家は雰囲気が暗かった。祖母にあたる人は父が幼少の頃に他界しており、父には継母と腹違いの弟妹がいた。たまに訪問しても、空間に会話がなかった。祖父の思い出といえば、梨花ちゃん人形を二度くれた人というものしかない。祖父は、梨花ちゃんが違うドレスを着ているのを、別の人形だと思ったようだ。その祖父も私が7歳の頃に他界したが、今思えば、不器用な、武骨な人だったのかもしれない。
さて、若阿家の実家は、子供の目にも、通常の家庭とは違うと思った為、自然と、普通の家庭とは、坂上家のような処と考えた。
私の母方の祖父、坂上翔逸は、物理学者として、そこそこ名を馳せた人だったらしいが、私が1歳になった頃、病気で死んだ。死ぬ間際に、
「夢は、物理学者になるかしら。」
「ああ、この私の脳を、夢に、全てそのまま渡せたらいいのに。」
と言っていたと、私はほぼ子守歌か、呪いか、洗脳のように、祖母やら母に聞かされた。幼い私は、最早、心の自由を奪われたようなものである。
子供の頃に、よく投げかけられる
「大人になったら何になりたい?」
という質問は、私が覚えている限り、私は
「物理学者になる」
と答えていた。本当になりたいからじゃない。周りが喜ぶからだ。祖母の伸子は、
「物理こそ、最上の学問。」
「おじいちゃまはね、…だったのよ。」
とさらに呪いをかけてきた。
小学生の頃の私は、『祖母』には尽くすべきと思い込んでいたため、訪問するときには、自分のおこづかいからプレゼントを購入して渡したり、
「大人になったら、おばあちゃまに、私の貯金あげるね。」
などと言ったりしていた。
「何かがおかしい」と思いはじめたのは、私が小学校高学年になった頃だろうか。通学途中で友達に聞くおばあちゃん像がどうも、伸子と違うのだ。他所の家では、おばあちゃんに飛びついたり、甘えたりするらしい。普通、祖母には「優しい」というのが、形容詞として当てはまるらしいのだが、伸子にはそれがない。むしろ、「がめつい」。
その頃、会う度に
「いつ、貯金、私にくれるの。」
と催促をはじめた。小学生低学年の戯言を、50を過ぎたいい大人が、である。一方で、自分が誰もにかしづかれる価値のある人間、グレードの高い人間だと思い込んでいたのだろう、会話の端々で私の心に疑問符のつく言葉が目に余るようになった。
「下々の者たちは…」
「今度、坂上伸子賞を作ろうかしら。」
そして、そんな伸子に、母を始めとする周りの親類達はなぜか恭しく頭を下げている。
私は中学生になった。中学生になると、中間テストとか期末テストというのがあり、今もかもしれないが、成績順に順位付けされる。元々闘争心旺盛の私は、学年一位を取り続けた。余山市という田舎の市立中学だ、そう難しいことではない。しかし、それを聞いた伸子の次の台詞は、私をキレさせるのに充分であった。
「なんで、夢みたいなのが、できるのかしらね。」
みたいな、だと。何様だ。お前。
そもそも「おばあちゃま」なんてどこの人が使う台詞だ。友達の前で恥ずかしくて使えやしない。これはー、BaBaAだろ。
それから、私は伸子と直接話をすることはせず、伸子のことを示す代名詞はBaBaAを使うことに決めた。
時は、好景気、大学全入時代の手前、建前では皆、偏差値なんてと言っていながら、大学なんぞ偏差値で入った時代、余山市という田舎に住んでいた私も普通に受験戦争のレールに乗っていた。自分の興味が本当は違うところにあるのに、なまじ成績が良かった私は、当時、洗脳が解けずに、某某大学の理学部物理学科に入ってしまった。ちなみに、理工系学部の中で物理は他の科より偏差値が高いのだ。偏差値至上主義の観点からみても合格なので、はみ出しにくい。
これは後に続くいとこ達にとっても悲劇であった。初孫で外孫の私が物理の道に行ったからと、
「誰も彼もが物理学科を受験しなければならない」プレッシャーをかけたのだ。BaBaAが。
十代で、周りの複数の大人に、妙なプレッシャーかけられ続けて、他の道選べるなんて、まず、ないわ。当時、同年代の友人は自分の意思が、とかなんとかいっていたけど、心に響かない。だって、その友人たちはその状況になかったのだから。今なら、わかる人がいるかもしれない。あれだ。棟壱教会の二世状態。うちでは「物理教」が強いられていたといえる。
いとこ達も、とにもかくにも物理学科を受験した。坂上家の内孫にかかるプレッシャーはさらに過酷で、当時は、結局数年どこも受験しなかったようだ。
私は、某某大学に入り、いろんな人を見て、自分が余計なプレッシャーをかけられていたことを知った。某某大学は余山市からかなり離れていたので、親元から離れて下宿生活を始めたのだ。
そう、「下宿生活」である。既にワンルームマンションが出ている時代に、二世代位古い下宿を強いられた。もし、貴方が、私の親に、「下宿を強いましたか?」と聞いたら、親は「全然そんなことない」と答えるだろう。これもある意味、「物理教」である。本人達の意識がなく、強制状態になるのだ。
親元を離れたことで、母が「物理教」信者であり、BaBaAにいいように使われているのが分かった。幼い私がなぜBaBaAにプレゼントを準備したり、貯金をあげるとかいったりしなければならなかったか。母がそうしなさいよ、そうしたらおばあちゃま喜ぶからね、といっていたからだ。
はー。私はため息ものである。母がBaBaAに対する反抗期を正しく持たなかったつけじゃないか、と。ただ、「年長者は敬いなさい」という道徳一般論が邪魔をしていた。
そんな折、桜桃胡(注:当て字)さんのエッセイを読んだ。家にいたおじいさんが死んだときのことを書いていた。誰も悼むことなく、死んだ顔がおかしいとか、あざ笑っていた。その人は嫌われていた。そうだよね。年長者は必ずしも偉くない。
BaBaAの今までの台詞を考察しよう。
「物理こそ、最上の学問。」→あなた、何学部ですか。え、大学行ってないじゃん。
「おじいちゃまはね、…だったのよ。」→で、あなたはなにしたの?え、何もない。
「今度、坂上伸子賞を作ろうかしら。」→どんな功績で?馬鹿じゃないの。
中身空っぽの、男にしがみついた人生を送った、ただの人じゃないですか。じいさんが死んだ以外どんな苦労があったんだか。いや、ないのだ。だって、この人の言葉は私の心に響かないもの。
BaBaA、自分で死ぬ死ぬといいながら、いつまで生きるんだと思っていたら、案外、呆気ない終幕を迎えた。好景気から不景気に転じた数年後、昭和の遺物、別荘での単独突然死だ。私は社会人になっていた。その時、体験した身近な死というのは、2回目、7歳の時の若阿家の祖父以来であったが、「憎まれっ子世に憚る」というぐらいなので、すぐには実感がわかなかった。
ただ、このBaBaAの葬式はよく覚えている。誰も泣かなかった。付き合いの短い、恐らくほぼBaBaAに出会ったばかりの若い女性だけが涙をこぼしていたが、これは、BaBaAを惜しんでではなく、一般的な死という事態に涙を流したのだと私は思った。
BaBaAに甘やかされた叔父の坂上網彦が喪主をし、その挨拶をしていたが、甘やかされ度合いが酷すぎて、文才もないのか、BaBaAを何一つ褒めることなく、
「最後まで驚かせてくれました。」
と締めくくった。
適当な写真を業者が悪趣味に色を付けた毒々しい遺影に、ただ業者が準備した、寒々とした箱物の葬式だった。
誰かが「『時が解決する』って言葉は、老害が死ぬって意味だよな」といつかいっていたが、BaBaAの死は、これ以上被害を拡大しないという意味では解決かもしれない。
しかし、母が、BaBaAに正しく対峙し、反抗期をクリアしなかったということは、私にとっては結構面倒臭いことになっている。
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