白い恋人

天野和希

白い恋人

 体の右側が寒くて布団を引っ張った。何かに引っ掛かった気がして、でもその寒さと睡魔を振り払うほどではなくて、僕はまた眠りについた。

 また、体の右側が寒くて目を覚ました。布団を逆側に引っ張られた気がして、僕は重い体を動かして寝がえりを打った。

 窓から差し込む陽の光が眩しくて何度か目を瞬かせる。

 いつもと変わらないはずのその光は、部屋全体を照らしきらきらと反射している。雲一つない絵にかいたような青い空が、まるでまだ夢を見ているような気分にさせた。

「……あ、おはよう」

「おはよう」

 隣から声がして、思わず挨拶を返した。

 思考が止まる。

 綺麗な顔をしていた。真っ白な肌に生気は感じられなかったけれど、高く綺麗な形をした鼻に、少しつっている目。小さくて少しだけ厚い口は、目を引くほど赤々としていた。

 機械のように美しかった。小さな動きの一つ一つが少し怖かった。

 まさかとは思ったけれど、とうとうやってしまったか。

 そう言えば、昨日の夜の記憶がない。

 もちろんそういう経験がないわけじゃない。ただ、一応そこはしっかりと気を付けようと、思っていたと言っても今更遅いか。

 小さくあくびをして伸びをする姿さえ綺麗で、自分が馬鹿らしくなった。

「どうしたの?」

 引き込まれてしまいそうなほどに黒い瞳が僕を見る。心臓がきゅっと握られるような感触がした。

「あぁ、いや。何でもない」

 体を起こして、自分がちゃんと服を着ていることに今更気が付いた。

 少し考えて、それから勝手にベッドを出てコーヒーを淹れている彼女に向かって言った。

「……君は、ごめん。誰だっけ」

「んー? わたし?」

「思い出せなくて。ぼく君に何かしたっけ」

「思い出せないんじゃなくて、知らないのよ」

「……は?」

 自分の家のようにコーヒー豆を探し当てて、慣れた手つきで分量を量りドリップコーヒーにセットする。

 嗅ぎなれた微かなコーヒーの匂いが鼻腔を擽る。

 そのせいだろうか。僕はこんな状況でもなぜか酷く落ち着いていた。

 こぽこぽと音を立てて抽出されたコーヒーが落ちていくのを、彼女は楽しそうに眺めていた。

「知らないって、どういう」

「会ったことないもの。会ったこと、というか、なんて言うんだろう。私はずっと見てたんだけれど。私のことが見えたの、貴方は初めてでしょう?」

 寝起きのせいもあってか頭は回らなかった。彼女が何を言っているのか、まるで一つも理解できないから、余計に焦燥感だとかそう言うのは無かった。

「私は、分かりやすく言うと……、死神? いや違うか。神なんてそんな大したものじゃないわ」

「死神?」

「貴方が苦しい時、死にたいって思わせてあげて、一緒に上までついていってあげる。それが私の役割」

「……なるほど。とうとうおかしくなったのか。やっぱり鬱なんて放っておくものじゃないね」

「おかしくなってないわ。少なくとも私はここにいるもの」

 猫舌なのか、おっかなびっくりコーヒーをすすりながら、死神は言った。

「いい豆ね」

「あぁ」

「暖房付けてもいい?」

「うん」

 リモコンの位置を教えようとして、すぐに言葉をひっこめた。

 死神はいつもの場所に置かれたリモコンを手探りで手に取って、しっかりとエアコンに向けてボタンを押した。古いタイプのリモコンだから、ちゃんと本体に向けないと機能しないのを知っていたかのように。

「いま、苦しいでしょう」

 こちらを見ずに、まるで独り言でも漏らすかのように言う。

「辛いでしょう」

 真っ赤な唇が小さく動く。

 彼女の少し遠くを見るような横顔を、僕はただ眺めていた。

「一人の女に惑わされて」

 真っ黒に透きとおるボブくらいの長さの髪は、先ほどまで寝ていたとは思えないほどきれいに整っていて、マグカップを持つ指は白くしなやかで、折れてしまいそうなほどに細いウエストと少し控えめなバストがまるで彫刻のように美しかった。

「大学にも行けずに」

 目を逸らそうと思っても、言うことを聞かない。

「バイトも精神病だと言って休んで」

 太陽の光が彼女の白い肌に反射して眩しかった。

「病院は行っても無駄だと止められて、貴方は、なぜ、そんな状態で、死にたいと思わないの?」

 彼女がこちらを見る。視線が僕を貫く。どきりとした。

「そうまでなって、なぜまだ、未来に希望を持てるの? 生きていればいつか乗り越えられるなんて、どうして信じられるの?」

 少しの沈黙が流れる。

 マグカップから出ていた湯気が、いつの間にか消えていた。

 暖房をつけているのに、部屋は凍り付くほどに寒かった。

「……分からない」

 吐く息が白かった。

「なんでだろう。自分でも分からない。辛いことは今まで何度もあった。でも、なんでだろう。僕は死にたいなんて思ったことは無かった」

「……そう」

 死神は納得のいかない様子で、再び湯気を出し始めたコーヒーをすすった。

 冷えた手が少しだけ痛かった。

「分からないけど、でも。こんなところで終わるのは、勿体ないと思うんだ」

 聞こえていないのか、興味がないのか、死神はこちらに視線をやることすらなかった。

「生きていればいつか良いことがあるなんて、そんな楽観的なことを考えられたらこうはなっていないけれど。僕は……」

「……じゃあ、なんで勿体ないなんて思うの?」

「そうだな、この世には、僕を魅了するものが多すぎるんだ」

「おかしな人ね」

「死にたいと思ったことがある人は、案外多いみたいだから、そう言われても言い返せないな。でもそれだけじゃない」

 また、死神はこちらを向いた。

 自分でも口に出して初めて知った気がした。

「僕には、死ぬ勇気なんてないから。未知の世界か、可能性がゼロではない世界か、だったら、僕はその小さな可能性にかける」

「……貴方には何を言っても無駄みたいね」

 いつの間にかコーヒーを飲む終わった死神は、椅子から立ち上がって窓の外を眺める。

「私の仕事は、貴方たちを救うこと。本当は、無理にでも貴方を連れていくべき」

 はるか上の方を見ながら、死神は言う。

 すらりと伸びた長い足と腕、立ち姿さえも綺麗だった。

「諦めるわ。貴方はきっと、私の力なんて必要ないのね」

 死神はそう言って、こちらに向けて小さく笑った。

 真っ白な肌が、すうっと透けるように消えて、そこにはもう誰も立っていなかった。

 気が付けば外にはちらちらと雪が降っていた。星の囁きがまるで僕の背中を押すようだった。

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白い恋人 天野和希 @KazuAma05

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