ランナーズハイ!

抹茶

ランナーズハイ!

 走る。走って、走って走る。家を出て、陽が昇り切る前。緋色に焼けた空を見上げてひたすら走る。


 横断歩道、川沿い、橋……見慣れた景色。


 けど、朝の色と空気に染まった少し新鮮な景色を走る。橋を渡って、住宅街に入る。

 

 そして少し広い通りを走り抜けて、ニ番目の交差点、午前六時半。


 いつもそこから彼女はやってくる。


 右の道からボクの前に合流して、ボクはいつもその後を追っていく。


 ボクよりも背が高いから多分年上で、少し焼けた肌とショートカットをなびかせて、彼女はやってくる。


 名前も知らない、学校も知らない、そして顔もわからない。


 彼女がやってくる道は、ボクから見て斜め後ろに伸びているから、合流する時も彼女の左後ろの頸(うなじ)が少し見えるくらい。


 ついでに、走るスピードもとんでもなく速いから多分陸上部だと思うんだけど、絶対に前から顔を見ることなんてできない。


 じゃあもっと早くにここへ来て、堂々と正面から顔を見ればいいじゃないかなんて思ったこともあるけど、そこはボクのプライドが許さないというか……。


 とにかく、彼女を追い抜いて、そして正面から顔を見る。


 それが今のボクのゴールなんだ。


 なんでこんなに名前も知らない彼女に執着するのか。要は一目惚れってやつなんだけれども、詳細は一ヶ月前のまだ桜が散る前まで遡る。



 中学に上がったばかりのボクは、尋常じゃないほどに浮き足立っていた。

 

 真新しいブレザーの肌触りとか、少し息苦しいネクタイとか、買ってもらったスマホとか。


 馴染みのないものに囲まれて、目線も高くなって、とにかく全てが新鮮だった。

 

 そこでこれから始まる新しい人間関係とか、部活何入ろうとか、そういったものに思いを馳せていた。

 

 まあ、人間関係に関しては公立だから同じような顔ぶれだったけれど。

 

 そんなわけで妙に意識が高くなっていたボクは、朝のウォーキングに挑戦してみた。

 

 眠い目を擦って何とかベッドから出て、中学のジャージを着て外に出た。


 意外と歩くだけなら簡単で、調子に乗ったボクは途中からランニングに変えてみようと思いつく。


 だけど体育以外でまともに走ったことなんてないし、わずかな羞恥心もあってなかなか走り出せない。


 そうやっているうちに、橋を挟んで対岸にある隣の住宅街まで来てしまった。このまま歩いて帰ってしまおうか……。


 そんな時だった。彼女を初めて見たのは。


 軽快な足音と共にやけに様になっているウェアを着て、彼女はやってきた。それを見てボクも思わず走り出した。

 

 周りから見ればその行動はストーカーそのものだったと思うけど、とにかくボクは走り出した。


 今思えば、それは単純に彼女に追いつけると思ったからなのかもしれない。


 身長も徐々に大きくなり、体力測定の50メートル走で初めて八秒を切ったこともあって、もしかしたら長距離だっていけるかもしれない。


 そんなちっぽけなプライドがあったことは、認めなければならないだろう。


 そうして走り終わって家に帰ってきたのは、七時半を回った当たりだった。


 結論から言おう。


 惨敗だった。


 全くもって追いつくことなどできず、何なら最後は見失ってしまって迷子になり、スマホの地図アプリを使って何とか帰宅するという、実に無様なゴールだった。


 彼女が何かしらのスポーツ経験者なのは明白だが、それにしてもここまで違うものなのか。

 もしかして全身サイボーグとか、本当は宇宙人とか、そんなSFじゃないかと思うほど、ボクと彼女の間には歴然とした実力差が存在した。


 しかし、ボクはここで諦めなかった。


 追いつけないのは単純に経験の問題で、いつかは追いつけるのかもしれない。いや、絶対追い越してやる。特に女子に負けてなんていられない。

 

 そんな古臭くも青臭い嫌味のあるプライドが、ボクを次の朝もランニングへと向かわせた。

 

 いきなり追いつけるわけはもちろんなかった。だけど少しずつ、それでも確実にタイムは上がっていった。

 

 まず、彼女を見失わなくなった。

 

 最後の方ははるか向こうにいたりするのだが、一通り終わって合流する例の交差点に戻ってくるまで、何とか着いて来られるようになった。


 そうして遠い地平線に見えた彼女との距離は縮まっていき、ついに50メートル以上離されることは無くなった。我ながらこの短期間ですごい進歩だと思う。


 そして今日、さらに速くなっていることを自覚する。もしかして今日こそはいけるんじゃないか……? 

 

 ついにその顔を拝める。

 

 そう考えた瞬間、ボクの足は確実に速くなっていく。


 よし、ここを曲がればあの交差点まで200メートルくらいだ。ここで一気にスパートをかける!


 腕の振りが大きくなって、足に掛かる負荷が上がる。


 息も上がって、視界がチカチカしてくる。


 明らかに限界(デッドゾーン)を超えていて、けど呼吸を忘れない。


 ここで逆に視界が広くなって、呼吸が楽になって、足が軽くなる。俗に言うセカンドウインドだ。


 予感が確信に変わる。


 差はどんどん縮まっていく。


 30メートルから20メートル、20から10。あともうちょっと……! 


 その瞬間だった。


 景色がいきなりガクッと下がる。


 ボクの視界は真っ暗になって、いきなり何が起こったのかわからず困惑する。

 

そしたら後から膝と手に痛みがあることに気づいて、生暖かいものがそこから垂れていくのがわかった。


 そこでボクは気付く。


 転んじゃったんだ……。


「………………ぁ」


 目頭が熱くなる。転んだ痛みもそうだけど、それ以上に情けなさでより泣きそうになる。


 これがもう少し離れたところで起こったことならよかった。


 そうすれば気付かれないから。

 

 けどこんな近くであんな盛大にすっ転んだら、音でわかるに違いない。

 

 彼女がこちらを見てるのかもしれないと思うと、怖くて顔を上げられない。

 

 そうしてうずくまってどのくらい経っただろう。


 「大丈夫?」


 上から声がしてきて、反射的に顔を上げてしまう。


 すると、背中しか見えなかった黒いウェアと同じ白いマークが目に入る。けど、それは背中側のものじゃなくて正面側だった。


 さらに視界を上げると、見たことはないけどきっと彼女に違いない、少し焼けた肌をした女性がこちら側を心配そうに伺っていた。

 

 彼女だとわかった瞬間、転んでいるのがバレたと思って「だ、大丈夫です!」と言って立ち上がろうとする。


「ああ、待って待って」


 彼女は手で僕を制しながら、腰のポーチから何かを取り出す。とりあえず言われたまま座っていると、消毒液とティッシュが出てきた。


「いやぁ、派手に転んだねぇ」

「あの、すみません」

「いいの、いいの。私も昔はよく転んでたし」


 手際よく膝を消毒していく。俯いてよく見えるまつ毛が長いとか、髪が綺麗だとか、そんなことに気を取られそうになって、思わず顔を背ける。


「ほら、手も擦りむいてる」


 明後日の方を向いていたところに声がかけられる。ボクが意識してるのを知ってか知らずか、すごい至近距離で目があって、けどそんなことは気にもせず手の消毒を始める彼女。


 そして手もあっという間に処置がなされる。


「君、最近私のこと追いかけてたでしょ」


 ドキリとする。


 もしかしてストーカーとして警察に差し出される? 頭がパニックになりそうだ。


「目標を持つのは大事だけど、今日は最後にちょっと油断しちゃったね」

「あと、もう少しだったのに……」


 そう溢すと、彼女は満面の笑みというよりはドヤ顔になって言う。


「ちなみに私、この交差点に来るまでにもっと走ってきてるから」


 まじか……。

 

 ボクははなから相手にもなっていなかったんだ。何なら今日追い越せそうになったのも、彼女がわざとペースを落としたのかもしれない。


 確かに、こんな短期間で経験者っぽい人に追いつけるわけなかったんだ。そう思うと余計にショックだった。


「まあ、走り相手がいるのも悪くないし、早く追いつけるようになってよ」


 そういって、彼女は交差点を斜め左に曲がっていく。


 遠ざかっていく背中はやっぱり速くて、手を抜かれていたことを改めて自覚した。


 やっぱりボクはまだ追いつけてない。

 顔は知ってしまったけど、かといってネタバレを喰らって燃え尽きるなんて理性を持っていたらこんなに追いかけてない。

 

 なおさら強い引力でボクは彼女に惹かれていく。

 

 そうか、これが恋なんだ。

 

 泣きそうになっていた気分はどこへやら。ボクは妙に清々しい気持ちになって、息をしたくなってまた走り出す。


 明日、午前六時半。この交差点にまた来よう。次こそは……そう思いながらボクはギアを上げていった。

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ランナーズハイ! 抹茶 @maccha2nd

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