化粧男子

六葉翼

第1話 前編


あなたがもし街を歩いていて。

素敵なレストランを見つけたら。


まずあなたはどうするだろう。


財布の中身を確認して。

少しお洒落な服を選び。 

行ってみたいと思う。

そんなとこだろうか。

誰しもそうだ。



あれは私が学生の時。


高校を卒業して、東京で一人暮らしを始めた頃。学生時代に体験したお話です。


もう他所に移転してしまったけれど。

そのレストランは高田馬場にあって。

レストランは当時でも創業50年とか。


店構えや看板もたいそう立派な老舗。当時絵に書いたような貧乏学生の私が、一人でおいそれと入れる雰囲気の店ではなくて。


当時借りていた、安いアパートの、大家のおばさんと立ち話しをした時。


「・・という店でバイト始めたんです」


大家さんはそのお店を知っていて「なら、今度食べに行くわね!」そう言いかけて、

その後しばらく沈黙があった。


「ちょっと入りにくい雰囲気よね」


そう言ったのは、その店にいわく因縁や、

風評があるようなオバケ屋敷だったからではなく。むしろ逆の理由だった。

ぱっと見高そうで敷居が高い。


私がバイトしていたのはそんな店だ。


まあ…実際それだけ古いレストランなら、

幽霊話のひとつやふたつ、あってもおかしくはないものだが。実際に働き始めても、店自体にそんな幽霊話はなかった。


むしろ、すぐ近くにある、店の社員寮の隣は墓地らしく。そちらの方が「やばい!」「出る!」そんな話は、社員さんからよく聞かされた。


そっちから社員さんが連れて来た、幽霊や、怪異のお話なら聞いたことがあった。それも過去に起きたことだった。


それより当時の私は、そんな立派な門構えのレストランでのバイト経験などなく。


実家にいる時でさえも、そんな高級そうなお店で食事などしたこともなかった。


家庭科で習ったテーブルマナーと言えば、ナイフとフォークでバナナを切って頂いた程度。そんな田舎者だった。


むしろそんな目に見えないお化けよりも、支配人が怖かった。毎日失敗をやらかしては厳しく叱責される。けして一度の謝罪では済まない。何度も叱るのを楽しんでいる。そんな陰険な男であった。


そもそもそんな身の丈に合わないような、レストランをなぜバイト先に選んだか。


接客のアルバイトを自ら選ぶような。社交的で人馴れしている性格とは言い難く。


「なにかいいアルバイトはないか」


そんなことを考えながら街をふらふら歩いている時。たまたま店の入口の貼紙を見た。その貼紙には【皿洗い募集】と書かれていた。それで私は面接を受けた。

それだけのことだった。


店の入口は勿論綺麗に掃除されていて。 


煉瓦で仕切られた花壇に植えられた花々。花屋さんが店の中に飾る生花も美しく。

けして絶えて枯れることはない。


黒に金文字の看板が大層立派に見えた。

硝子の扉越しには、受付とレジにいる、

同い年くらいの若い女性スタッフ二人。

とても美人で親切そうに見えたものだ。


しかし私は皿洗いという言葉に惹かれた。

募集にはホールスタッフもあった。


けれど私の職業意識は低いものだった。


接客業なんて向いてない。

覚えることも多分多い。


「皿洗いなら短時間で覚えられる」

「頑張って働いてたら時間なんて直ぐだ」


「いいじゃないか!皿洗い!」


元々、友達に自慢するような。お洒落や、綺麗な仕事なんてものには全然興味がなかった。手っ取り早くお金が稼げたらいい。

そんな風に当時の私は考えていた。


面接をしたのは支配人だった。


「本当に皿洗いでいいの?」


不思議そうな顔で私の顔と履歴書を見ていた。そちらでバイトを募集しておいて。

むしろそれが不思議だった。


「はい!ぜひお願いします!」


私は元気よく答えた。

即採用となった。


日曜日祭日は昼間から。

平日は夕方五時から。


私は毎日その店で働いた。

仕事は思った通り単純だった。


レストランでバイト経験などなかった。

皿洗いとかは手でやるものと思っていた。


実際には、キッチンの洗い場には、大きな食洗機があって。開ける度に熱い蒸気を吐き出した。店はいつも繁盛していた。


レストランのフロアから、洗い場に運ばれる皿や、シルバーなどの食器は大量だった。夏場は特に、熱くて、忙しく大変な仕事だった。それでも楽しく働いた。


昼間の洗い場のボスは創業以来洗い場で働いている八島さんというおばあさん。


オーナーの先代からこの店で働いている。


若いコックさんや社員さんからは挨拶代わりに「ヤジ」と呼ばれるイジられていた。


「ヤジ若い後継ぎが出来てよかったな!」

「新しい旦那が出来たのかヤジ!」

「照れんな気持ち悪いぞヤジ!」

「もう引退しろよ〜ヤジ!」


その度口から泡を飛ばす勢いで言い返す。江戸っ子のがらっぱちだけど。


どうも入れ歯の具合がよろしくなくて。

何を言っているのか全然わからない。


だから最初に仕事を習った時。

言葉が伝わらなくて困惑した。


一か八かでトライして。よく怒られた。

そのうちに慣れてバイリンガルになった。


夕方になって八島さんがお帰りになられる。洗い場は中国やミャンマーの人のバイトだらけになった。


さらに片言の日本語や外国語が飛び交う。わからない。それでも楽しく働いた。


高校を卒業して東京で始めたアルバイト。

私はふたつの大切なことを学んだ。


ひとつは、学生時代とは違う。けど世の中には確かにある。それまで見えてなかった。明確な社会の中の差別というやつだ。

人種差別というよりかは不平等だ。


そんなのは世の中に当たり前にある。

温室育ちの学生にはわからないことだ。


バイトの初日制服と名札をもらう。


「ええと・・前に石川っていたよなあ」


支配人は休憩所でクッキーの缶に入った、名札の中から私の名字を探していた。


洗い場の中国人や、ミャンマー人のバイトさんも、ちゃんと名札はつけていた。


クッキーの缶には見覚えのある名字。

歴代の日本の総理大臣の名字の札がたくさんあった。彼らは名札は本名ではなく。


日本の総理大臣の名札を渡されて。

それを胸につけていた。


支配人いわく「うちの店で外国人使ってるなんて、お客さんに知られたくないからね!」ただそんな理由らしい。


私が自分の名札をつけて、身支度をしていると。店のシェフが私に挨拶してくれた。


「なあ?くだらねえだろ?」


そう一言だけ言った。それがあくまでも、支配人一人が面白がってやっていることで

この料理長や、店の本意ではないと知り。少し安心したものだ。


バイトの募集の貼紙を見た時、受付にいた女の子は二人とも、この近辺に住んでいるオーナーの知り合いの娘さんたちらしい。

すごく性格がいい子たちだった。


支配人は忖度してか。彼女たちには絶対に受付と案内以外の仕事はさせなかった。


外国人労働者の名札を見て私も「くだらねえ」と思った。


キッチンのボスはシェフで、フロアのボスは支配人。キッチンスタッフにアルバイトはいなかった。すべて料理学校を出た正式な従業員さんばかり。それが店の流儀で、ここのシェフの方針だった。



私はそのどちらにも属さない。

ただ洗い場で働いていた。


少なくとも支配人の下で働かなくて済む。それは幸運だったと思っていた。


もう一つ私がアルバイトから学んだこと。

生まれや国籍や仕事が何であろうと。

ここでは一生懸命働いていればいい。


みんな名前を覚えてくれて。

わからないことは親切に教えてくれた。

特にシェフやキッチンの人たち。


言ってしまえば、支配人以外の人たちは、みんな私に好意的に接してくれた。


自分の居場所や価値なんて、自分の頑張りでなんとかなるものだ。そうでなければ、その職場がきっと間違った場所なのだ。

さっさと辞めた方が身のためだ。


今も仕事をする上で、深く心に刻まれている。なんにせよだ。学生でも、ひきこもりでも、不登校でも、働いた方がよい。


大人が決めた平等よりも。自分で勝ち取る居場所は、よほど価値があるものだ。それは不公平だらけの世の中が教えてくれる。


少なくとも私は「お願いします!」「ありがとうございます!」そんな他の従業員やアルバイトの方との交流を繰り返して。

毎日充実した日々を送り始めていた。


しかしアルバイトを始めてわずか3日。


夕方のシフトに入ると、すぐ支配人が洗い場のカウンター越しに私を呼んだ。


「休憩所にホールの制服が届いているから・・すぐに着替えて!」


私はその日から、ホールの接客のために、フロアに立つことになった。


「あの・・洗い場の仕事がまだ」


戸惑う私に支配人は言った。


「いつまでも、洗い場の仕事なんて!外国人にでもやらせときゃいいんだよ!」


彼はそれで私が喜ぶとでも。相づちでもうつとでも思ったのだろうか。


私は大いに不満だった。

約束が違うと思った。


その外国人労働者に対する物言い。

態度がはっきりわかった時。

嫌悪感を抱いた。


とはいえ金を貰って働く身分だ。

どんな仕事でもやらなくては。

それも事実だった。


私はレストランで働く身でありながら。

嫌々接客をするはめになる。


食器を洗うことから、料理を運ぶ下げる。

それだけのことに変わっただけ。

ではなかった。


そこには注文を取る、お客様に料理やお酒を説明して勧める、料理をプレゼンしたりワインの産地を説明したり。


目の前で抜栓したり注いだり。

食器はお料理に合わせて目の前で並べる。オーダーを聞いて調理場に通して。

コースの進み具合は常に注意して。


気配りとコミニュケーション能力が必要な仕事だった。


冗談じゃねえ。

そんなのやりたくない。

だから洗い場を選んだのだ。


支配人がどういうつもりか。

私はその意図は知らない。


しかし、元々一番苦手な仕事に担ぎ出され。私は教えられたことが何ひとつ頭に入らない。客席では緊張しまくり。

仕事はことごく失敗した。

もう目も当てられない。


私は本当にひどい店員だった。


その日を境に、私は従業員の最下層へ転落した。直の教育係が、あの支配人というのも輪をかけて嫌で嫌で。毎日が地獄だ。


私を憂鬱にさせ、些細なことでも二の足を踏むような。仕事イップス状態にさせた。


ことあるごとに、他の店員さんや客前で、怒鳴られ続けた。謝罪しても許してもらえず。


腕や肩を鷲掴みにされたように「なぜ出来ないのか」「やる気がないのか」「仕事や俺を小馬鹿にしているのか」まるで詰問や尋問されるように叱責された。


そのうちの幾つかは正解だが。

仕事が出来ない自分が悪い。


泣きたいような情けない気持ちになった。ただひたすら耐えるしかない。


話の終わりに支配人は必ず吐き捨てるように「もう来なくていい」そう私に言った。

それは彼の口癖だった。


そのせいか、支配人が担当していた1階のフロアは離職率が高かった。


離職率というのは現在、飲食店では店長クラスの社員の能力を査定する要素として、とても重要なものらしい。


しかし、この当時というか、この店での、この支配人の扱いはお構いなしだった。


それで、いつも支配人が担当していた、1階のフロア。ブラッセリーだけは常に人手不足のようだった。


私もこれまでに5回くらい「クビ」と聞いた。それでも翌日も翌々日も出勤した。


理由はクビになる理由がないから。

こんな男にクビにされてはたまらない。

後に振り返った時人生の汚点なのである。


こんな身も世もない。

人格を否定する男。


温厚な私もむかついたのである。

こんなのを恨んでしまっては。

覚えていたくない顔が残る。


一応帰りがけにシェフに話しかけた。

オーナーを見かけた時に話しかけた。


「ぼくクビらしいですが」


そう言うと二人とも「辞めなくていい!」

と言ってくれたので安心した。


私は支配人に一言も言わせないと誓う。

この男より仕事を覚えて空気にしてやろう。そう心に固く誓った。


そして半年の歳月が流れた。



その日の夕方。5時入りの私は、15分前には着替えて、フロアに出ていた。


このところ、支配人は私の出勤する姿を目で確認すると、1時間以上もフロアには降りて来なくなっていた。


以前は1人でも他のアルバイトがいても、ミスをしないか四六時中監視されていた。


今は他の人が揃うまで1人でも大丈夫。

まったく問題はない私に変貌を遂げた。



夕方のこの時間。アイドルのティータイム。5時を境に店はディナータイムだ。


私は、パートのおばさんたちを手伝って、テーブルにディナー用のクロスに掛け替えた。テーブルに素早くシルバーを並べる。


音楽を昼間から夜用に変える。

予約含め諸々確認!

チェック終了!


ディナータイムのスタートだ。

それより少しだけ時間があった。


入口の硝子の扉から見える。

外は夕暮れだった。


夏の夕暮れ。

陽射しが長くのびて。

店の中に射し込むの見ていた。


「お客様1名様です!ご案内致します!」


そう言って受付の白石さんが案内する。


「いらっしゃいませ!」


既に口慣れた言葉を口にした。

既に慣れた笑顔で。

客を席に迎える。


私の笑顔は固まっていた。

ご案内の白石さんと目が合う。


彼女は明らかにミスを犯した。

そう思った。


それは受付の案内係として。

店に通してはいけない。

そんな類いの客だった。


そのお客様。


彼女は、いや・・おそらくその中身は、女性ではない。見てすぐわかる。


薄暮の中で目が眩んだのか。


身長は私よりもずっと高い。

私を真上から見下ろしていた。


ディナーや社交場に馬車で出かける。

そんな貴婦人を装ってはいたが。


白い繋ぎ目のないドレスは何処で拾ったものか?処々薄汚れていた。


荒れ地の魔女が被るような。

大きな帽子は泥に落ちたみたいな。

麦わら帽子だった。


白いワンピースのから覗く素足。

のびきった爪に垢染みのネイル。


雨土の泥濘の中をひたすら歩いて来た。

汚れきった紐のサンダル。

左右違う履物だった。


顔にいたっては真白に塗りたくり。

大きな黒いマスカラに赤い口紅。

化粧品などはなく。


そこらにあった塗料だろう。


彼女の顔はそれでも笑顔に見えた。

辛抱強く私の前に立ち続けた。


私の顔を覗くように見下ろして。

彼女の席への御案内を待っていた。


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