ある春の日に 作:スピリット
五月にしては暑いくらいの気温の晴れた日、君は北九州港を訪れた。無事に大学を卒業し、それを見届けるかのように君の曾祖父が病死した二ヶ月後のことだ。
北九州には、軍艦防波堤、と呼ばれる場所がある。旧軍の駆逐艦を意図的に沈めることで作られた堤防だ。今はもうほとんどコンクリートに埋められた形となってしまっているが、一隻だけはまだその輪郭を覗かせている。
このうち一隻が、曾祖父の乗艦であったことを君は知っていた。本人から此処に連れられて聞いた話だった。彼は月に一度、瓶ラムネを2本片手に、此処に散歩に来ることを習慣としていて、幼い頃はよく連れてきて貰ったものだった。尤も君のお目当てはお零れとして貰えるラムネであったが。
彼は此処にかつての乗艦を見舞いに来ていた。最後に元気な曾祖父に会ったとき、本人から言われたことを君は覚えていた。艦ではなく堤防として固定されているが故に自由には動けないだろうから、堤防に腰掛けて、その月にあったことを語って聞かせるのだと。ただし君は、三隻のどれが曾祖父の乗艦であるかを知らなかった。あるいは彼は意図的に教えなかったのかもしれない。
そして曾祖父の法事を昨日終え、君は2本の瓶ラムネを鞄に潜ませて、ここに立っている。もう二度と此処に訪れることはない曾祖父の代理のつもりで。
いつか連れてきてもらったときのように、人気のない堤防に腰掛ける。
足は空中に放り出している。幼い頃の景色などはっきりとは覚えていないが、感覚としてはあまり変わらないようだと君は感じる。堤防に座った感触、隣に座るどこか歪な少女の存在感、目の前の海、少女とは反対側の少し離れたところに佇む釣り人の影、対岸の工場、遠くの大橋と船。長閑な時間が流れる場所で、少女が口を開いた。
「知った気配だと思ったが、重雄のひ孫か?」
「そうだよ、覚えてたのか」
「見える奴のことは覚えておくことにしている。立派になったな」
君は孫を見るような視線に少し照れ臭くなりながら、瓶ラムネを鞄から取り出し、片方を少女の近くに置く。いつか曾祖父がそうしていたように。
「図体だけだけどな。ほら、飲むだろ?」
「ああ、貰う。殊勝な心がけだな」
「そうか?」
封を開けて飲むのも、口を離すのも、息を吐くのも同時で、それが少し可笑しくて、君は微かな笑い声を零す。喉を流れ胃に落ちていく冷たい感触が暑さを和らげる。しばらく、二人並んで静かにラムネを飲んでいた。
やがて、彼女がぽつりと呟いた。
「子も孫も一人では来なかったからな」
唐突な言葉に、君は何の事か分からなかったが、先程の疑問に対する返答だと遅れて気付く。
「……そりゃあ、二人とも忙しかったんだろ」
曾祖父の子、つまり君にとっての祖父は就職と同時に地元を離れた。九州に戻ったのは定年後で、彼の散歩コースは此方側ではない。そして孫に当たる君の父はまだ現役。君や弟妹の学費を稼ぐべく平日はバリバリ働いている彼が此処に来られる状況だとは思えない。そんなことをかいつまんで少女に告げる。
「つまりお前は暇なのか」
「はっきり言うね君」
苦笑しながら返し、それが少女の反応を肯定してしまうものであることに気付いた君は言葉を重ねる。
「今この時が暇なだけだよ。出先で出来る研究やってるわけじゃないからね。明日には大学に戻ってまた研究の日々だ」
「嗚呼、そういえば重雄が前に来たときそんなことを言っていたな。大学で研究をやっている曾孫がいるとかなんとか」
それは自分のことだろうかと君は思ったが、口には出さないでおく。
「では、ここにそう頻繁に顔を覗かせるわけにもいかないということか」
君は少女の言葉に頷く。大学のある街は遠いわけではない。乗り換えもあるが電車に揺られ数時間ほどで着く。ただ、そうそう頻繁に戻ってこれるほどに近くもないし、毎週電車に揺られることが許されるほどに大学院生は暇でもなかった。
「そうなるね」
「……まあ、そういうものか」
「春と盆正月は余程忙しくなければ帰ってくるつもりだけど、その時で良ければまた来ようか?」
「気が向いたらで良い」
「ずっと家に籠もってるわけにもいかないだろうから、多分来るよ」
「そうか。ではそれを楽しみに待っていよう」
彼女は瓶を呷り、空になった瓶を少し見つめたあと、こちらに突き出してきたので回収する。鞄に仕舞って彼女の方を見やると、手持無沙汰に足をぶらつかせていた。大橋を潜る船を見るその視線があまりにも寂しそうだったので、君は思わず声を掛ける。
「……何か、他に欲しいものはあるか?」
「欲しいもの?」
足の動きが止まり、視線が君を貫く。色違いの瞳が瞬く。変わらず綺麗なままだなと、頭の片隅にそんな感想が浮かぶ。
「ああ。あまり嵩張るものは無理だけど、何か欲しいなら次持ってこようかと思って」
「ふむ……何か。そうだな……羊羹とかか?」
「また珍しいものを」
「難しいか?」
「いいや。分かった、次来るときは羊羹も持ってくるよ」
「覚えていたら、で良い。必要不可欠というわけでもない」
彼女は視線を逸らし、立ち上がって伸びをしながら続ける。
「飲食は娯楽に過ぎんからな」
「人生に娯楽は必要だよ」
「若造が言いおる」
「さっき立派になったとか言ってたじゃないか」
「図体だけだと返したのは誰だったかね」
「ぐっ」
満足そうに笑って、ふと真面目な──いや、これはどちらかと言うと感情が抜け落ちたと言った方が正しいのだろうか、そんな顔をした。やがて表情が歪む、視線は君ではなく君の後ろを向いている。何か居るのかと振り返ろうとしたが両頬を手で挟まれ、顔の向きが固定される。少女の表情は既に元の微笑みに戻っている。
そのまま少女は「無理はするな」と、君に告げた。
それまでの会話の流れを切るような言葉だった。当然、君は「何のことだ」と問いかけるが、彼女は答えを返さない。ただただ君に言い聞かせるように、少女は言葉を紡ぐ。
「睡眠は取れ。好き嫌いせずしっかり物を食え。適度に運動しろ」
「お、おう」
「それで長く生きられる。無茶を言っているのは分かっているがそれでも言おう、私より先に死ぬな」
「どういうことだ」
「あともう一つ。真っ当に生きろ、此方側にできるだけ関わるな」
「此方側?」
実に抽象的な言葉だ。此方、とは何方なのか。それでも少女は、時間がないと言外に示すように、君へ向けて一方的に言葉を叩きつけていく。
「そうだ、お前の曾祖父と同じように」
「だから待てって何を言ってるのか」
「また会おう、達者でな──君が元気そうで良かったよ」
引き留める言葉は遮られ、君の視界は先ほどとはまた少し違う、悲しげな笑みを浮かべた少女の手で閉ざされた。
一瞬の暗闇の後、回復した視界の先には誰も居ない。慌てて後ろを振り返るが当然のように誰も居なかった。
「は?」
いやいや、今のは人の手だっただろうと君は立ち上がって辺りを見渡すが、人の気配はない。まあ確かに平日の昼間にこんなところを彷徨くような人間はそうそういない──君の知る範囲では亡き君の曾祖父くらいだろう。そして彼は既に死んでいる。
「悪戯に戻ってくるには早すぎるだろ爺」
四十九日は過ぎ、盆まではあと三ヶ月。いくら月に一度のラムネが楽しみだからと言って孫のを分獲りに来なくても良いだろうと君は愚痴る。正直なところを言えばシンプルに怖かったので茶化さずには居られないのだ。声が震えていたのは見逃して欲しいなどと何者かに君は願う。
2本飲んだ割には腹に溜まっていないように君は感じた。何処ぞのどろぼう名人でもいたんだろうか、と昔の絵本だったか何かを思い出す。遭遇するなら物理的実体が存在するだけ、幽霊よりはなんでも盗める超能力者の方がマシだ。
まあ、身体が水分を欲していたのだろうなと君は結論づけた。
ラムネも無くなったし話すべきことは話した、そんな感覚を覚え、帰るかと君は空を仰ぐ。天気も良い、暑い事を除けば散歩にはちょうど良い天候だ。大学のある街へ向かう電車は、夕方とも夜とも言い難い黄昏時の出発。時間の余裕は十分にある。
「少し遠回りして帰るか?」
何処か良いルートはあっただろうかとスマホの地図を開く。こういうときにでも歩いておかねばならない。君は普段大学と家を往復するくらいしか動かないのだ。その上実家に帰ってきてもぐうたらしてばかり、では多分健康にも悪いだろう。
せめて曾祖父と同じくらいには長生きがしたいものだ、と何となくそんなことを思いながらルートを選んだ。電車の時間、実家を出る時間、シャワーを浴びて一息入れたい、と必要な時間を君は数え、それに万一の余裕を少し加算、良さそうな道のりを選ぶ。
歩き出しながらふと、羊羹は旧海軍では人気の高い嗜好品だったらしいことに君は思い至った。情報源は某ゲームだが一定の信頼はおける。なら次来るときには羊羹をお供えするのもいいかもしれない。曾祖父も──あるいは旧軍の亡霊みたいなものが、居てほしくはないけれど居るとすれば、彼らも──悪くは思わないだろう。お菓子を限定されてわかりやすく肩を落とす、在りし日の曾祖父の姿が君の脳裏を過った。嗚呼、諸手を挙げて喜びそうだ。
精々健康に生きていこうと君は少し遠回りな道を辿る。日差しの中に姿を消す君を、無人の堤防だけが見送っている。
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