エマちゃん係

@yukinokoori

第1話僕とエマちゃん

 

「それではこれからは優君がエマちゃんの面倒を見てくれます。みんなっ、ほら拍手〜っ」


 先生の掛け声が頭の中に反響して、僕は呆然と隣のエマちゃんに視線を移す。


 僕に対して他のクラスメイトよりも明らかに近すぎる位置に設けられた席に座る、フランス人形の如き端正な顔立ちが特徴的な少女。


 エマちゃんは僕の幼馴染で幼い頃からずっと一緒に育ってきた。


 彼女は他の人と違って何処か変わったところがある女の子だ。


 あまりにも整った顔つきながら無表情でいつも何処か上の空。


 しかしながら、本当は良く笑ういい子だということを僕は知っている。


 二人だけの時だけ見せてくれる、向日葵のように美しい笑顔はすごく眩しくて可愛らしい。


 でもどうしてずっと僕だけが彼女のお世話をしなければいけないのだろうか。


 それがわからない。


 納得できなかった。


 みんなは楽しそうに友達とサッカーやゲーム遊んでいるのに、僕はエマちゃんの‥。


 ‥けれどそれが僕のやらなければいけないことだというのは、周りの雰囲気を感じ取れば理解できた。


 だから僕はエマちゃんを正面に見て、作り物の笑顔を向ける。


「これからもよろしくねエマちゃん」


 いつものようにみんなの期待に応えるためにエマちゃんのお世話をする。


 起床、着替え、歯磨き、食事、の身支度。


 登校、授業、おトイレ、下校、宿題、お風呂、遊び、就寝。


 生活の一通りを全て面倒を見なければいけなかった。


「ゆうくんすきっ」


 彼女は宝石の如き透き通った大きな瞳を細めて花が咲いたような笑みを浮かべて、僕の頬に手を当ててくる。


 先程まで口腔内に指を突き入れていたためか、手に付いた彼女の唾液が僕の顔にベッタリと付着する。


「う、うんっ。僕も嬉しいよ」


 周囲の生徒達の二対の視線が突き刺さる。


 無数の好奇なる感情に晒されて尚、エマちゃんは手を止めることはない。


 頬から唇に伝い、そのままねっとりと唾液に濡れた指先を僕の口の中に突っ込んだ。


「むぅっ、エマちゃん‥あはは‥くすぐったいよ」


 他人の唾液のぬるりとした感触が乾いた口腔内に感じられる。


「えへへぇ、くすぐうたい?」


 僕の漏らした乾いた苦笑に、エマは可愛らしく小首を傾げて此方を凝視している。


 金糸の如き癖一つない美しい金髪が頬を流れて、サラリと虚空を撫でる。


 なんだか変に甘ったるい味のする粘液に僕は僅かばかりの嫌悪感を覚える。


「‥あらあら、本当に優君とエマちゃんは仲が良いですね。それではこれで決定ですね」


 僕たちの様子を柔和な笑顔を浮かべて見守っていた先生は手に持ったネームプレートを、黒板に書かれていた、エマちゃん係、の項目の横に改めて置いた。


「えーと‥優君には今年もエマちゃんのお世話をしてもらうことになりました。みなさんも自分のお仕事をしっかりとしましょう。これで朝の会を終わります。ありがとうございました」


 先生の朝礼の締めの言葉に対して、周囲の生徒は何処か投げやりに従う。


「ゆうくんすきー。えへへ。ぎゅーしてぇ」


 しかしながら一切正面を向くこともなく、自らの腰を落ち着けていた椅子を立ち上がり、僕の膝の上に跨るエマちゃん。


 そして口の端から漏れ出ている唾液を僕の頬に垂らしながら、上から覆いかぶさるようにして抱きついてくる。


 甘い果物のような体臭が汗と混じり合った甘酸っぱい匂いが鼻腔に感じられた。


「ほら、エマちゃん。椅子に座らないとダメだよ」


 必死にエマちゃんの背中を撫でながら耳元で優しく声をかける。


「やぁーーーっ、エマはゆうくんがいいのぉ」


 しかしながら僕の誘導も虚しく、彼女はシミ一つない初雪の如き肌をした両腕を背中に回してくる。


 まるで互いに抱き合っているかのような状態になってしまう。


 密着したエマちゃんの柔らかい身体を何故か心地よく思う。


 なんだか自分自身でも制御しきれない熱い情動が身体の奥底から湧き上がるような感覚に襲われて、僕は恐怖さえ感じた。


「どぉしたのぉ?おなかいたいいたいなの?」


 エマちゃんの胸の柔らかい二つの膨らみに顔を押し付けて、ぎゅっと目を瞑り、必死に感情を抑え込む。


 息を深く吸って心を落ち着かせることを試みたものの、何故だか一向にこの絡みつくような感覚は治らない。


 しかしながら、エマのふんわりとした柔らかい感触を生地の薄い衣服越しに感じて、なんだか段々と心が暖かくなってくる。


「よしよーし、いたいのとんでけー。よしよし。こわくない、こわくないよぉ。だいじょうぶだからねぇ」


 お母さんの口調を真似をしたエマちゃんが僕を力一杯抱きしめてくれる。


 おでこをくっつけて、大ききて綺麗なくりくりとした、光り輝く瞳で僕を覗き込んでくる。


 でもその純粋な感情しか籠らない瞳にどうしてか、罪悪感を覚えた僕は再びエマちゃんの胸に顔を埋めた。


 彼女は僕の背中を撫でながら、すらりと長い白魚の如き五指を僕の手に絡めてぎゅっと握ってくれた。


 それは僕が昔エマちゃんが泣いた時にやってあげていた行為だった。


 夏場のせいか少し汗で濡れているエマちゃんの体臭は甘酸っぱくて、何処か心を落ち着かせる匂いだった。


「おいっ、またエマとイチャイチャしてるぜこいつっ」


 ようやく呼吸が完全に整い、冷静な思考ができた時、普段通りに厄介な人物から声をかけられた。


「ヒロトくん‥」


 遠目から、意地悪く口の端を吊り上げて此方を見下すように嘲笑う同級生に視線を向ける。


「おいっ、みんなっ、こいつらラブラブなんだぜ?けっこんするんじゃねーの?」


 明らかに沈んだ声を漏らした僕の呟きに構うことなく、彼はあたかも扇動するかのように周囲の同級生たちに声をかけた。


「えー、ゆうとエマちゃんってそういう関係だったのー?」


 すると教室内でいつもみんなの中心にいる、釣り上がった眦が特徴的な女の子が声をあげた。


 ヒロトくんとは対称的に彼女は僕たちの元へと歩を進めて、近づいてくる。


「ねぇねぇっ、ほんとうにゆうくんってエマちゃんと付き合ってるの?」


 未だ椅子に座り、抱き合っている僕たちを頭上から見下ろすミナちゃん。


 しかしながらその猫の大きなような瞳に宿る感情は好奇心ではないように思えた。


 此方を見つめてくる瞳から垣間見えるのは揶揄いの色。


 そして、僅かに力が込められた握り拳からは微量ながら苛立ちさえ窺える。


「えっと‥」


 その勢いに気圧されて、思わず口籠り、エマちゃんに視線を移す。


「どーしたの?おなかいたいのなおったの?だいじょうぶ?」


 彼女はミナちゃんの存在を一切意に解すことなく僕の頬を両手で挟み込んだ。


「う、うん」


 上からジッと見つめてくるエマちゃんの、月光の様な美しい金髪が僕の顔に垂れてくすぐったい。


 サラサラとした感触を感じたが、口の端から流れ落ちた唾液も降ってくる。


 ぽたぽたと開きっぱなしの唇から滴り落ちるそれが、ねっとりと糸を引いて顔に降り掛かってくる。


「エマちゃん、口を拭こうね」


 もう慣れた生暖かい唾液の感触を感じながら、ポケットに普段から常備しているハンカチを取り出してエマちゃんの口元をぬぐう。


「うむぅ‥やーっ、ゆうくんいじわるしないでぇ」


 しかしながら彼女は自らに迫り来るハンカチを首を横へと傾けて避けて、顔を僕に近づけてくる。


 再び密着して縋り付くように身体を押しつけてくるエマちゃん。


 両腕を僕の背中に回して、すらりと長い両足をも巻きつけてくる。


 完全にぐだぐだの状態になってしまっていた。


 眼前ではエマちゃんの白磁の如き、真っ白な肌をした人形の様に綺麗に整った顔が至近距離で存在している。


 甘えるように眦を下げて上目遣いで僕を見つめている。


 彼女は時にこうして、僕から譲歩を引き出そうとする。


 恐らく無意識下での行動だと思うものの、美しい髪色と同様のその金色の長い睫毛に彩られた美しい碧眼に、思わず吸い込まれてしまいそうな錯覚に陥ってしまう。


「うーっ、ふきふきいやなのーっ」


 ぎゅうッと力強く身体の四肢を使って僕を抱きしめて、自身の感情を訴えかけてくるエマちゃん。


「エマちゃん。しっかりと僕の言うこと聞かないとダメだよ?お母さんからも言われてるでしょ?」


 耳元で優しい声で諭しながら、再び彼女の口元にハンカチを押し付けた。


「えっと‥僕たちは付き合っているわけじゃなくて幼馴染だから仲がいいだけだよ」


 未だ僕たちを何処か無機質な瞳で眺めていたミナちゃんに返答する。


「そう‥なんだ‥でも、エマちゃんといつも一緒にいるじゃん。二人が離れたところ見たことないし。だから付き合ってるのかと思った」


 それだけ言い終わると、ミナちゃんは唇を硬く引き結び無言でその場で立ち尽くす。


「‥エマちゃんのお母さんからお世話するの頼まれてるからね」


 僅かに険のある眼差しを向けてくるミナちゃんに対して僕は反射的に弁解を試みる。


 何故だかそうしなければいけないような衝動に突き動かされていた。


 気づけば漏れ出た言葉は言い訳染みた言い回しになっている。


「そうなんだ‥。大変だね‥。その‥わたしにも何かできることってあるかな?」


 焦燥感に駆られた僕の物言いにミナちゃんは、同級生にも人気のある可憐な顔に翳りを帯びさせて言った。

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