夢図鑑
那月
No.1 鰐の夢
鰐の夢を見た。僕と鰐は、浅い海にいる。僕は鰐がとても大切で、たいせつで、愛おしい。愛玩動物に向けるそれでも、恋人に向けるそれでも、友人に向けるそれでもない。ただ大切で仕方がない。
海は広い。広く、何もない。不思議なほど凪いだ海は、歩くたび砂が舞うばかりである。岸は見えない。まだ見えない。水平線が丸くなるほど遠い岸へ、僕らは向かっている。早く岸に着きたい、そうは然程思わない。ただ行かなければ。どうしてか、行かなければならないのである。僕たちだけが歩いていた。なにかが悲しかった。
海は浅い。今考えれば、あれは潮の満ち引きだろうか。胸のあたりまでだったり、くるぶしまでだったり、膝の下までだったり、海の深さは変わった。海水が胸まで来ると、肺が押されて少し苦しかった。
その小さな鰐は、時折僕の方を見る。鰐の目は僕と違う。細長い瞳孔、暗い色をしていて不透明。けれど、透明と同じくらい美しい。深い深い翡翠のような、そんな色をしている。
どのくらい歩いたのだろうか。ふと足元を見ると、海が赤く染まっている。
あぁ、血だ。これは血だ。血が海に溶けた色だ。これは、鰐の血だ、僕は確信する。鰐は怪我をしていない。血も吐いていない。ただ、その体から血が流れている。鰐自身が溶け出すように、血の轍を残すようにとめどなく海を染めている。
また、鰐の目はこちらを見る。
もう僕にはどうしようもなかった。
「ああ君はもう死んでしまうんだね」
ただ、そう思った。確信に近かった。美しい鰐の目を見た。なにかが悲しかった。
それから僕は足を止めた。僕は鰐を抱き上げた。互いの腹を合わせるような姿勢で、僕は鰐の目を見下ろした。鰐は変温動物というから、冷たかった。海とは違う温度で、冷たかった。鰐に触れていると、海は不思議と暖かく感じた。僕はここで鰐を看取ろうと思った。
気付けばそこは、赤い透明な海になっていた。鰐の血が海を染めきっていた。それは鰐がまもなく死んでいくことを僕に知らせていた。鰐を抱く腕に少しだけ力が入った。鰐は不思議そうな顔をした。鰐の目はまた僕を見ていた。
海が胸のあたりまで深くなった頃、鰐は弱っていった。ただ少しずつ静かになっていった。鰐の目は僕を捉えたまま霞んでいく。僕はそれをただ眺めていた。鰐が僕に触れる圧力を感じなくなっていく。命の振動が浅くなっていく。なぜか腕に力が入った。鰐の力が抜けていくに従って、僕の腕に力が入った。こぼれ落ちていくものを目で追うように、僕は首をもたげた。また腕に力が入った。
僕は鰐を強く抱きしめていた。鰐はもう死んでいた。腕の中で、小さな鰐が死んでいた。
赤い海の中で鰐は少しずつ、その温度を失っていった。鰐の温度は海の温度に変わっていく。腕の中の鰐は少しずつ海になっていく。僕はまたそれを眺めた。海は変わらず凪いだ。最後にもう一度、その目を見た。
霞んだ目をしたその海は、また僕を見ていた。
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