第90話 捨て身

 何これ、とラビィが呟いた。

 ハルトはなんとかスモッグスパイダーよりも早くラビィのもとまでたどり着いた。が、ラビィの視線はハルトではなく、その後方1キロメートルに向けられていた。


 スモッグスパイダーの大群が地を這う振動は足の裏から伝わる。蜘蛛の関節が擦れる音は重なり合って、もはや何の音だか分からない轟音に成り果てていた。

 アラクネはまだ森の中にいるのか、姿を見せていない。


「く……も……」ラビィの目元がひくっと痙攣するのが分かった。

「あれ、ラビィ虫苦手だっけ?」

「あ、あ、あ、アレが得意な人います逆に?!」


 固まっていたラビィが再起動した。人はボケをぶっこまれると、絶対にツッコまなくてはならない気がしてくるものなのだ。ツッコみは偉大だ。


「おっと、こうしている場合じゃない。いいか、細かに説明している時間はない。ラビィは幻魔術で燃え盛る壁をあの蜘蛛共に見させてくれ。要は足止めだ」

「あ、あ、ああ足止めって、あの蜘蛛全部をですか?!」

「そ。巨大な壁を頼むぞ」


 そんな無茶な、とラビィの肩ががくっと落ちる。――が、


「お前ならできる。頼むぞ」


 ハルトにそう言われたラビィは口を尖らせながら「まぁ……やりますけど……」と地に視線を彷徨わせていた。


戦乙女の微笑みヴァルキリースマイルメンバーは村に残っている人を避難させて。それからマリアさんを探してここまで連れて来て。大至急。もし交戦中ならマリアさんと交代してでも引っ張って来て」

「まぁマリアさんレベルの範囲魔法じゃなきゃアレは対応できないもんね。了解。行くよ皆」


 ロドリが戦乙女の微笑みヴァルキリースマイルメンバーを引き連れて村に入って行った。

 残ったラビィは不安そうな顔をハルトに向ける。


「ま、ま、マリアさんが来るまであ、あ、足止めできるでしょうか? わ、私が出せるのはあくまでも幻覚の壁ですよ?」

「大丈夫。マリアさんが早く来るに越したことはないけど、それまで待っているつもりもないよ。僕らであの蜘蛛をできる限り減らしておこう」

「は、は、ハルト様、範囲魔法までできるんですか?! す、すごい……」

 本気で感心しているラビィにハルトは「違う違う」と手をぶんぶん振った。「やるのは僕じゃない。キミだよ、ラビィ」

「ええええ?! わ、わ、私、はは範囲魔法なんて使えないです!」


 動揺してあたふたするラビィにハルトは、いいからまず魔力粒子を拡散して、と指示をだした。

 ラビィは躊躇いながらも目をつむり、魔力を細かい粒子に変えて放つ。幻魔術の基礎である。ラビィを中心にして扇形に粒子がどんどんと広がっていく。

 その光景にハルトは息を呑んだ。


(この子、何気に村一番の化け物かもしれないな)


 ここまで広範囲に魔力粒子を拡散できる幻魔術師は、そうはいない。おそらくリラでさえ、こんな大規模な幻魔術は不可能だ。だからリラは風向きを読み、相手の動きを読み、最小限の魔力消費で幻魔術を使う。

 一方ラビィは経験と技術力が足りずリラと同じことはできない。だが、その代わりに、この途轍もない魔力量で全範囲丸ごと魔力粒子で埋める、という力技ができるのだ。


 ラビィをサーチした時はびっくりし過ぎて『開いた口が塞がらない』を身をもって体験したくらいだ。

 ラビィは運動能力も知力も軒並み平均以下。だが、その中で魔力量だけが飛び抜けていた。A級の冒険者でも遥かに届かないぐらいの魔力量を、ラビィはレベルアップする前の初期状態で持っていたのだ。魔法も使えないのに。宝の持ち腐れも良いところである。魔力量だけで言えばマリアさんにさえ匹敵するレベルだった。


「は、ハルト様。準備できました」

「よし、じゃあ先頭の蜘蛛から距離100メートルくらいのところに、燃え盛る壁を見せるんだ」

「は、はいぃ」


 ラビィが大きく広がった魔力粒子の端に、点火するかのように、小さな魔力を接触させる。その魔力に反応して広範囲に広がった魔力粒子が活性化し始めた。


 あとはレジストされなければ、燃え盛る巨壁が唐突に目の前に現れたように見えることだろう。人間が相手ならば、巨大な壁が急に現れるなど現実的でない、と判断され、一発で幻魔術だとバレる。だが、知恵の乏しい獣や虫はそういった点では騙しやすい相手だった。

 期待したとおり、スモッグスパイダーの大群の動きが一斉に止まる。


「や、やりました! ウソ?! ホントに止まりました!」

「『ウソ?!』ってお前、本当に止まると思ってなかったのかよ」ハルトが目を細めて睨むと、ラビィは目を逸らした。

「だ、だ、だって、スモッグスパイダーは熱には強いから火を恐れないかと思って……」

「あいつらは、確かに高温の蒸気を噴き出すけど、火を出すわけじゃないし、噴き出し口の耐熱性能は高くても、体の方はそうでもない。全体的に見れば火の耐性はそこまで高くないんだよ」


 なるほど、としきりに頷くラビィに、ハルトは「問題は――」と言いながら未だスモッグスパイダーが湧き続ける森の方に目をやった。丁度、奴が森から出てくるところだった。


 森を抜け、樹のはげた村の周囲領域に入るとアラクネの赤い目がハルトとラビィを捉えた。甲高く、少しかすれた声で怒りの咆哮をアラクネが上げた。

 私を閉じ込めたのはお前らか、とでも言っているのか。怒りのままにこちらに猛進しはじめる。


「問題はアレ」


 ハレが肩をすくめてラビィを見ると、ラビィは白目を剥いていた。と思えば、唐突にハルトの両肩を掴んで揺さぶる。


「何アレ何アレ何アレ何アレ?! ハルト様! 来てる! なんか来てるゥ! ききき聞いてない! 聞いてないですよこんなのォ!」

「ラビィ、お前やっぱり虫嫌いだろ?」

「虫ってレベルじゃないィ! いい加減にして?!」


 動転したラビィは普通にハルトにため口でキレる。ハルトはぐらんぐらん揺さぶられながら、「ラビィ、落ち着け」となだめた。

 ハルトを揺さぶりから解放したラビィはそれでもまだ涙目でぷるぷる震えている。


「ラビィ。よく聞け。逆に今が最大のチャンスなんだよ。細かく説明している暇はない。今から僕の言うとおりに幻魔術をかけるんだ」


 小刻みにこくこく頷くラビィにハルトは、作戦の概要だけ説明した。

 ラビィは何故そんなことをするのか、はよく分かっていなかったが、少なくとも何をすれば良いかについては理解したようだった。


「よし今だ。まずは大量の人間がアラクネに襲い掛かる幻覚を見せろ。攻撃はさせるなよ。攻撃を受けたのに傷ができないと流石にバレる」ハルトがラビィに指示を出す。

「幻覚人間の顔は全部ハルト様でよろしいですか?」

「なんで僕だよ?!」

「一体一体顔変えるの無理です。精々笑ったハルト様、悲しいハルト様、怒ったハルト様――」


「——もういいよ、それで! タイミング逃すから早くして!?」


 アラクネはやはり幻魔術をレジストできなかったのか、蜘蛛足をジタバタさせて暴れ出した。

 蜘蛛足の上の白い女は手のひらから黒い炎を出すと、その炎が瞬時に物質化していく。次の瞬間には女の手には黒い槍があった。


 その槍を宙に何度も突き刺す。アラクネには大量のハルトが見えているのだろう。笑ったハルトが蜘蛛脚をくぐり、怒ったハルトが宙を舞い、悲しいハルトが滑り込む。そんな感じだろうか。ハルトは酷く辱められている気がして、むすっとむくれた。


「むくれたハルト様……」とラビィがまじまじと観察しながら呟いたので「追加しなくて良いから」とハルトが釘を刺した。


 その時だった。空気が変わった。

 アラクネの赤い目は瞳孔が細く絞られ、肌が粟立あわだつような殺気を放った。


「いいぞ、アラクネがブチ切れた」とハルトが手を叩いて喜ぶ。

「な、なんでブチ切れたのに嬉しそうなんです?!」

「まぁ、見てろ」


 アラクネがまた鼓膜を切り裂くような金切り声を上げ、そして、発光する粉を周囲に拡散させた。

 森で見せたあの技だ。

 その規模は先ほどモリフと一緒に見た時の比ではない。さらに大規模な爆発が起こることは容易に想像がついた。ハルトは慌ててラビィの脇に後ろから手を差し込んで持ち上げた。


「ひゃぁああ?! ちょ、ハルト様?!」

「まずい、規模がでかい。逃げるぞ」


 しかし、数メートル下がったところで、背後で大爆発が起こった。

 ハルトとラビィが爆風で吹き飛ぶのと、爆発音で耳がおかしくなるのとはほとんど同時だった。

 ハルトはラビィを抱え込むようにして吹き飛ばされ、背中から村の城壁に激突した。ラビィが何か言ったような気がしたが、キィインという耳鳴りしか聞こえない。


 やがて、耳鳴りが回復してきた頃、顔を上げるとすぐ隣に城壁に激突して絶命したスモッグスパイダーが転がっていた。辺りを見回すと、防壁周辺の至るところにスモッグスパイダーの死骸が転がっている。その多くはひっくり返って燃えていた。


 アラクネの方に目を向ける。あんなにうじゃうじゃと蠢いていたスモッグスパイダーのほとんどが消し飛んでいた。まだ新たに森の方から湧いて来てはいるが、アラクネの近くにいたスモッグスパイダーはほぼ全滅といって良いだろう。


「こ、こ、これがハルト様の、作戦ですか?」ラビィが咎めるようにハルトを見る。

「…………まぁな」

「捨て身が過ぎます! 何考えてんですか!」


 凄く流暢りゅうちょうに怒られた。

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