第85話 自慢の弟

 モリフはカイと手を繋いで都市の地下道を歩く。

 鼻がひん曲がるような酷い臭いが充満している。石造りの壁に開いた穴から止めどなくヘドロが放出され、それにより悪臭が立ち込める。

 綺麗なドレスに純白のストッキングを履いたモリフの衣類は地下道のヘドロが跳ね、ひどく汚れていた。が、そんなことに構っている場合ではない。一刻も早く、この国から逃げなくてはならない。

 カイの手を握る手に力が入る。早く、早く逃げないと——


 

『偽物』として殺される。




 ♦︎

 

 

 

 モリフは聖女として既に教会で働いていた。

 モリフに出来ることは意外に多い。まだ見習いと言えども『聖女』だ。ケガを癒し、呪いを解き、毒を中和する。魔物を通さない結界を張ることもできる。

 戦闘だって訓練した。聖女は戦闘面でも、秀でている。アンデットの浄化などは何度行って来たか分からない程だ。にも関わらず、不思議なことに表立った仕事は一切なく、全て裏方。裏で治療し、裏で駆逐し、裏で封印する。


 聖女様のおかげで、という言葉は耳にしても、モリフが直接誰かに感謝されることはなかった。

 モリフは疑問には思いつつも、特に危機感は抱かなかった。金さえもらえれば何でもよかった。カイに美味い飯をたらふく食わせてやれることで満足していた。



 

 モリフのもとに領主の娘がやって来たのは、モリフの聖女活動も慣れて来て、徐々に力をつけ始めた頃だった。

 名をナタリアと言った。ナタリアは大勢の兵士を引き連れて、モリフとカイに貸し与えられた小屋に押しかけてきたのだ。兵士たちはノックも無しに乱暴にドアを開けて侵入し、モリフとカイはあっという間に兵に囲まれた。

 2人は青ざめた顔で固まる。兵の全員が抜剣していたためだ。

 ただ黙って剣を向けてくる兵士にモリフが困惑していると、突如として入口付近の兵士が左右に割れた。そして、その自然に出来上がった道を、派手なドレスを着たブロンドヘアの女——伯爵令嬢ナタリアが歩き、モリフの前までやって来た。


「ごきげんよう。モリフ嬢」ナタリアが見せる優しげな微笑みはどこか作り物めいた無機質さがあり、モリフは警戒を強める。


 

 セイント ナタリア。

 直接会ったことはなかったが、名前は知っていたし、演説などで遠目から見たことはあった。彼女も聖女だ、と聞いていたため、いつかお会いしたい、くらいに思っていたのだが、こんな形で会うことになるとは思ってもいなかった。

 実際に目にしたナタリアからは確かに聖なる力を感じる。が、聖女というにはあまりにもちっぽけな神聖力にモリフは閉口した。おそらく聖職ではあるが聖女というのは嘘、とモリフは一瞬で看破した。


「お会いできてうれしいわ、モリフ嬢」ナタリアはスカートをつまんで膝を軽く曲げる。

「ナ、ナタリア様……ですよね。これは一体……」

 ナタリアはモリフの疑問には答えず小屋を見回して「なんというか……慎ましいお家ね」と鼻で嗤った。

「さて。会って早々で心苦しいのだけれど」ナタリアは全然苦しくなさそうな顔で言う。「私たちはあなたを捕縛しなくてはならないの」

「捕縛……?」聞き間違えではないか、とモリフは聞き返す。スラム時代ならいざ知らず、聖女になってから犯罪に手を染めたことはない。


 ナタリアはモリフの問いに答える代わりに一枚の書状を取り出して読み上げた。


「モリフ・ソテンティス。彼の者、自らを『聖女』と偽り、民を欺き、不平を成す者として、捕縛を命ずる。しかる後、裁判を略式とし、ただちに処刑を執行する」


 ナタリアは読み上げた後、伯爵印のついたそれをモリフに向けて静かに微笑んだ。「本当に残念だわ」

「処……刑……?」


 モリフは未だ事態を理解していなかった。が、何故か自分が偽物として罰されようとしていることは分かった。

 ぇ私、死ぬの? と心で自問したところで、急に恐怖がこみあげ、一気に肌が粟立あわだち、震えが止まらなくなった。


 目の前の女の笑みがひどく嗜虐的なものに見える。偽物というならば、彼女の方ではないか。

 なぜ、本物の私が、偽物のナタリアに殺されなくてはならないのか。

 次第に心を怒りが占めていく。


 聖女として力をつけたモリフならば、ナタリアなど一瞬の内に息の根を止められた。そして、実際にそれをしようとモリフが腕に力を込める。



 

 カイが動いたのはその時だった。

 灰を溜めた壺を出入口付近に放り投げた。壺の割れる音が響き、灰が舞い広がる。ナタリアと兵士たちが一瞬ひるんだ。

 カイはその一瞬の隙をついて、モリフの手を引いて扉から飛び出し逃走をはかった。


「なッ……! 追って! 必ず捕まえなさい!」後ろからナタリアの叫ぶ声が聞こえる。

「こっち」とカイが手を引く先はスラム街。城の者はまず訪れない場所だが、モリフとカイにとっては勝手知ったるホームグラウンドであった。

 路地裏をすり抜け、狭く薄暗い坂道を走る。追っ手は動きづらい鎧と手に持った剣が邪魔して手間取っている。

 カイはさらに角を曲がったところで石造りのスラム街に埋め込まれた鉄蓋を持ち上げ、素早く体を潜り込ませる。


「お姉ちゃん、こっち!」

 

 モリフは一度後ろ——角の方へ視線を向け、追っ手が来ていないことを確認してから、地下に入って鉄蓋を閉めた。

 壁から突き出た鉄の梯子を掴んでじっと耳をそば立てる。梯子は中途半端な高さまでしかない。地下通路に飛び降りる音で兵士にバレることを恐れて2人は梯子で息を潜めた。


 複数の足音が聞こえ、鉄蓋の上を通るとカンカンカンと大きな音が地下通路に響いた。それが過ぎ去ると、また水が流れる音だけに戻る。


 カイが梯子から地下通路に飛び降りる。「行こう」

 いったいどこに? と問いたいのをこらえ、モリフも通路に飛び降りた。


 


 ♦︎


 

 

「お姉ちゃん、もうすぐ多分外に出るよ!」カイの明るい声が地下道に響く。こんな状況でもカイが明るいのは彼が姉想いの優しい弟だったからだろう。


「ごめんね」とモリフが言う。「せっかくの都市の暮らしが……」

「何言ってんだよ。もともとボクらはその日暮らしでひもじく、楽しく、生きてただろ。別に都市じゃなくたって、この国じゃなくたって、どこでだって生きていけるよ」

「カイ……」

「お姉ちゃん暗っ。ただでさえ顔が暗いんだから、もっとハキハキ喋りなよ」

「顔が暗い言うな」


 出口が見えた。行き止まりの壁に埋め込まれた梯子が設置されている。その場所だけ天から円形に光が差していた。どうやらその出口に鉄蓋はないらしい。

 

 眩しい。

 だけど、それ以上にモリフには弟が眩しかった。

 私なんかよりも、よっぽど強く、清く、正しい。私の自慢の弟。


「お姉ちゃん! ほら! 外だ!」


 そう言って、カイが梯子を上って外に出た瞬間だった。

 何者かがカイを吹き飛ばし、モリフの視界から消えた。



「カイっ!?」


 

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