第16話 マーフィーの法則

 

 もとの大部屋に戻って、まず思ったことは『ついてない』である。

 ハルトの運は常日頃からすこぶる悪い。


『落としたトーストがバターを塗った面を下にして着地する確率は、絨毯じゅうたんの値段に比例する』と言うが、例え絨毯の値段が安物であろうと、トーストを落としたのがハルトならば必ずバターの面が下だ。


 ダンジョンに入れば、靴紐くつひもが切れるし、地図は落とす。

 なんなら今は絶賛仲間に裏切られ中である。



 そんなハルトだから、大部屋に4メートル級の黒い鬼がいたことは、ある意味では『想定通り』とも言えた。

 想定通りだから大丈夫、という意味ではない。想定通りヤバい、ということだ。

 隠し部屋は薄情なことにハルトを吐き出すと、普通の肉壁に変化し、もう元の隠し部屋には戻れなくなった。

 ハルトは引きり顔のまま、壁に張り付くようにしてソロソロと移動する。鬼はまだこちらに気がついていない。

 熊に遭遇したら目を背けてはいけないという前世の教えにならってハルトは黒い鬼をガン見しながらゆっくり進む。




(あの禍々まがまがしいつの……どこかで——)




 見たことある、と思うと同時にマリアの笑みが頭に浮かんだ。

 微笑んだマリアがカウンターにソレを置く場面が思い出される。マリアが言う。








 ——はい、ブラッディ・ジェネラル・オーガの角だよ









 ハルトの顔はさらに血の気を失った。

 ヤバいどころの騒ぎではない。最悪だ。



(あれブラッディ・ジェネラル・オーガだ……! S級冒険者がパーティで討伐にあたる魔物に、僕ごときが勝てる訳ない)



 はじめから逃げる気ではいたが、ハルトの戦意は一層低下する。喪失と言ってもいい。

 逃げなきゃ、と思えば思うほど、事態は悪い方に転がる。マーフィーの法則である。


 そのタイミングでブラッディ・ジェネラル・オーガが不意にこちらを向く。ハルトに気付いていた訳ではなく、何となしにといった様子でオーガがくるりと向きを変え、そしてハルトと目が合った。







 空気が変わった。

 じんわり、と地下から水が湧き出すように、オーガの顔がゆっくりと嗜虐的しぎゃくてきに歪んだ。









 やばい、と思ったのが先か、走り出したのが先か、とにかくハルトは一目散に出入口に向けて走り出した。

 後ろを振り向いている暇などない。周りに他の魔物がいないか気にしている余裕も。ただ全速力でがむしゃらに走った。

 ズシンズシンと重たい足音と地響きだけが後ろから鳴り続ける。




(ヤバいヤバいヤバいヤバいヤバい!)




 よせば良いのに、ハルトは全力疾走しながら後ろに顔を向けた。




「ひィ」と恐怖が口から漏れる。




 オーガは大口を開けてよだれを垂らしながら、にんまりと笑っていた。目は三日月型に細まり、鼻息を荒らげ、四つ足で走っていた。その大きさからゴリラのように見えるが、ゴリラよりもずっと禍々しい顔をしている。

 ただ殺されるだけなら、まだマシな方だ。だが、このオーガはそれだけでは済みそうもない。楽しそうな顔でニヤニヤこちらを見つめていた。

 捕まれば、まるで玩具おもちゃのように生きたままかれるか、かじられるか、とにかくろくな目には合わないだろう。



 ブラッディ・ジェネラル・オーガは速い。

 あっという間に背後まで詰められた。

 オーガの手が背後から伸びてくる。



 危うく頭を握りつぶされるというところで、ハルトは『ト』の字の通路を曲がった。オーガの手がくうを掴む。

 そのままオーガは勢い余って、ハルトとは違う道へ行きかけるが、すぐに戻って、また追いかけっこが始まった。









 ハァハァと自分の荒い息遣いと、オーガの興奮の吐息とが重なる。

 ハルトは見覚えのある大部屋に出て、そこを通過した。床にはハルトの手首がまだ落ちていた。ハルトが最初に転移してきた部屋だ。



 だが、過去のことを懐かしんでいる余裕はハルトにはない。

 部屋を出て、再び通路を駆ける。

 ハルトはオーガよりも遅いが、その機動性を活かして、がむしゃらに角を曲がり、かろうじてオーガに捕まらずに済んでいた。

 ——とは言え、体力的には圧倒的にブラッディ・ジェネラル・オーガの方が格上だ。ハルトが疲労困憊ひろうこんぱいなのに対し、オーガは余裕が見られた。



 いくつかの大部屋、中部屋を通過した。幸い他の魔物はいないか、あるいはいたとしても追っては来なかった。おそらくブラッディ・ジェネラル・オーガを後ろに引き連れているからだろう。

 ハルトがまた次の大部屋に入った時に、ハルトは足を止めた。いや、止めざるを得なかった。














「嘘……だろ……」





 ハルトはただ目の前の光景に立ち尽くす。ここまで運が悪いか、と己を呪った。

 目の前のソレらが一斉にこちらに目を向けた。



『きゃはっははははは!』

『抱っこォォオオオ!』

『あぁあああ! いたァァ!』

『きィェエエエエ!』

『あったァァアアア!』



 そこはハルトが決して近付かないようにしようと思っていた場所。マッドマーダーの大群たいぐん部屋だった。

 よちよちとこちらに歩いてくるマッドマーダーはハルトがきびすを返して逃げ出すと『待ってェェエエエ、きゃはははははは』と追いかけてきた。



 ハルトが逃げ出す方向には当然ブラッディ・ジェネラル・オーガがいる。だが、他に逃げ道もない。

 可能性があるとすれば大群よりも単体の方だ。

 ハルトが戻って来たことに一瞬笑みを引っ込めたオーガだったが、すぐに先程よりも一層深い笑みで立ち止まり右腕を振りかぶった。ハルトに狙いを定めている。ぶん殴るのか、鷲掴むのか、判然としないが、とにかくハルトに危害を加えようとしているのは分かった。

 だからハルトも賭けに出た。


 ハルトは己の魔力をくわに込めて、肉床に思い切り突き刺した。

 まるでプリンにスプーンを刺しているかのように、するりと鍬が肉床に入り込む。そして、刺さった場所から半径10メートル程が突如ぐじゅぐじゅしたグロテスクな挽肉ひきにく状態に様変さまがわりした。おそらくこの『クロノスのくわ』が肉床を耕したのだ。



(よし! 上手くいった!)



 オーガは挽肉の床に足を取られて一瞬動きが止まる。ハルトは耕されていない自分の足元を強く蹴って跳んだ。そのまま壁をもう一度蹴ってまた跳ぶ。バランスを崩しかけているオーガの脇をくぐるように抜けてハルトは挽肉床ゾーンからの脱出に成功した。




 背後に背中合わせのオーガが1体。そのさらに向こう側に大量のマッドマーダー。

 ハルトの逃走劇はついに終わりを迎えた。




























 ——と思った。だが、ハルトの不運は終わらない。





 確かにオーガは足止めできた。

 だが、マッドマーダーは止まらない。

 先頭のマッドマーダーが挽肉床に埋まると、それを足場に別のマッドマーダーが一つ進む。進んだ先でまた埋まり足場になる。それを繰り返してマッドマーダーが前進する。

 ブラッディ・ジェネラル・オーガは大量のマッドマーダーに飲み込まれて姿が見えなくなった。

 そして、マッドマーダーが挽肉床を抜けて来る。













「勘弁してくれ……」



 ハルトはへとへとの体に鞭を打ってまた走り出す。

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