勇名轟く② 船出の朝


 その日、トルネは珍しい事に目覚まし時計が鳴るよりも早く目が覚めた。

 普段は目覚ましを止めて、その後は暫くの間は布団に残る安眠の余韻に浸っているのだが、今日は目が覚めたその瞬間には上半身を起こして両目は未だ薄暗い部屋をハッキリと写している。

 枕元から懐中時計と1枚の紙を手に取り、まずは喉が渇いたとベッドを抜け出しキッチンへ。

 家具も調度品もあらゆる物が限りなく少ない無機質な部屋の中で、食卓となる小さなテーブルにはポツリと昨日淹れたままの紅茶がポットの中で常温になっている。


(誰も居ないし……いいか)


 ひとり暮らしの怠惰にかまけ、面倒臭さのまま注ぎ口から紅茶を飲むトルネの額に蓋の一撃が降り注ぐ。


「いたっ──とと」


 そのまま落下する蓋を何とかキャッチして陶器のポットは無事にひと揃いのまま。

 横着してはいけないと教訓を胸に刻んで次に求めるのは食事。

 とは言ってもここのところのトルネは粗食。

 安く買った硬いパンに、これもまた安く買ったジャム塗り付けモソモソと食みながら枕元から持ち出した懐中時計時計と写真を眺める。

 これはトルネの日課。

 朝起きて、夜寝る前にも。

 そしてその他の空いた時間にふたつの大切な物を眺めるのだ。


「フランク……会いたいよ」


 トルネが眺めて、指を這わせる写真には幸せな頃がその時のまま閉じ込められている。

 写真の中央には満面の笑みのトルネ。

 彼女の肩を抱き寄せる人好きな笑みをする男はフランク。

 髪を短く揃えて健康的な肉体をした彼は、その横……画角にギリギリ収まる場所で首根っこを掴まれて立つもうひとりの男とよく似ていた。

 適当に短くした髪と大柄で無愛想な表情をした男、ハラネス。

 

 これはある種の家族写真だ。

 トルネとフランクが結婚して、記念に写真を1枚となった時に兄に無理矢理引き摺り込まれたハラネスを加えたもの。

 トルネに肉親は居ない。

 彼女が幼い頃に、シロクジラの縄張りに流されてそのまま襲われてしまった。

 だからこの写真に写るものがトルネにとって家族と呼べるものの全てだ。


 そして懐中時計。

 いつも遅刻ばかりで時間にルーズなトルネを見かねて、フランクが送った懐中時計は殆どお守りやアクセサリーとしてトルネの身を飾り、遅刻癖を治す事は出来なかった。

 出来なかったのだが。


「まだ家を出るまで時間あるし……はぁ、怒られるのすら恋しいってホントだめよね……」


 トルネにとって大切な物はこのふたつだけ。

 昔はもっと沢山の宝物があったのだが、持ち出せたのはこのふたつだけだったのだ。

 シロクジラの襲来により故郷を離れたあの日、身に付けていたこれらをトルネは常に手元に置いている。

 家の中でさえ常に持ち運び、暇さえあれば眺めて過ごす。

 その結果、昔よりも遥かに時計を眺める機会が増えて遅刻をしなくなった。


「今の私ならデートに遅刻するなんて絶対にしないのにね……贅沢な時間の使い方だったなぁ」


 このようにしてトルネの朝は過ぎてゆく。

 眺めるものが時計である為に否応なしにあと何分で支度をしなければならないかが脳裏によぎる。

 そしてトルネはひとつづつ準備を整えて、しっかりと余裕を持って家を出た。

 片手には着替え等の生活用品、片手には仕事道具の入ったトランクを抱えて肩掛けカバンをひとつ。

 重たく嵩張るカバンでアパルトメントの階段を降りて、外の空気を肺いっぱいに吸い込む。


「よし、頑張ろう」


 自分を鼓舞する言葉と共に空を見上げれば、未だ星空の余韻が残っていた。

 道には影が落ちているが危うい程ではない。

 石畳を踏み締めて目覚める前の町を歩いて、歩いて。

 少しの休憩も挟みつつ、見慣れた町の見慣れない様子を眺めながら港へ向かう。

 遠く感じる港が近くなるにつれ少しづつ活気を感じ始めて、重たい鞄を抱えるのもあと一踏ん張りだと持ち直す。


「おはようございます」

「ぅん?あぁ、はいよ。おはようさん」


 そうして辿り着いた門の前で、昨晩から警備をしていたのであろう気怠げな門番に挨拶をすれば、これもまた気怠げな挨拶が帰ってくる。

 そして僅かな沈黙。

 怪訝に思いトルネは門番の顔をジッと見つめるが、垂れた眉毛と半開きの目は微塵も動かない。


「あの、入りたいんですが」

「んぁ?入ればいいんじゃねェかい?」

「許可証の提示を……」

「おぅハイハイ、見してみな」


 トルネがトランクを置き肩掛けの鞄から取り出した紙を渡せば、開けているのかよく分からない目で流し見した門番はまるでそこから深い意味を察しているかのように鷹揚に何度も頷いた後にこやかに紙を返した。


「良かったなァ、嬢ちゃんの乗る船はすんごい船だぜェ。良い事あるといいなァ」

「嬢ちゃ……!はぁ、そちらこそ良い仕事日和になるといいですね」


 呆れと共に門をくぐればその先は出航の準備に慌ただしい港の中。

 物資の搬入の為に車両が忙しなく動いているのが何処からでも目に映る。

 とはいえトルネが居るのは人が行き来する道である為に比較的にゆったりとしたものだが。


「ん?おお!そこのアンタ!こっちだこっち!」


 そして一際大きな声が聞こえてそちらへ向くと、トルネを手招きする男がひとり。

 その帽子から船長である事を知ったトルネは近寄って挨拶を──


「ドリギ坊や!何だいあのヘンテコな荷物は!」

「お、オウ婆さん……ちっと今やる事があるんで……」

「調査だか試験だか何だか知らないけどねぇ!イサナトリにゴテゴテゴテゴテ得体の知れないパーツ付けんのはアタシら銛撃ちと整備士連中への負担になんのさ!」

「仕方ねェだろう、ウチの祖父さんの頼みなんだから」

「カーッ!これだから肥え太った陸の連中は!」


 ペッと噛みタバコを吐き捨て荒々しい足取りで去っていった嵐のような老婆を前に、トルネは挨拶ひとつを発するタイミングを逃して硬直したまま。

 苦笑する船長のその顔で唖然とした状態から我を取り戻したトルネは背筋を伸ばし、凛とした様子で挨拶をひとつ。


「おはようございます。開発局から来ました──」

「よろしくトルネ女史。まぁウチの連中はみんなあんな感じだが、アレがとびきり激しいってだけなんで気にせんでくれ。ただ船の中で何かを吐き捨てるような真似はせんでくれよ?」


 自己紹介を遮られたトルネは不満げだ。

 とはいえこんなところで躓いては居られないと、にこやかさを顔に貼り付け再び会話を試み──


「え、ええよろしくお願いし──」

「ああそうだ、俺の事は是非とも船長と呼んでくれ。そう呼ばれると大変気分が良い」

「……よろしくお願いします船長。それで私の仕事──」

「その荷物重たいだろう。まずはアンタの部屋まで案内だな。待とうか?」

「っ!……ふぅ、そうですね。私の荷物なので自分で運びます。そして荷物を置いたあと、この遠征中の私の仕事についてお話しを」

「はいよ。そんなに焦る事はない、どうせ時間は有り余るからな」


 潰れた帽子をヒラヒラとはためかせ、船長は船へと先導してゆったりと歩く。

 その間、多くの船員とすれ違うが船長に対する敬意の払い方は形式ばったものではく、家長に対するそれのような親しみのあるものだった。

 巨大な船をまとめ上げているとは思えない気楽さで部下と言葉を交わし、タラップを渡り船内へ。


「大きな船ですね」

「まあな。宿舎に食堂に格納庫にクジラの解体作業所に医務室にあらゆるものがこの船の腹の中に詰まってる。冷凍船だのタンカー船だのを引き連れて飛ぶ必要はあるが、この船である程度完結してんのさ」

「へぇ……意外と快適なんですね」

「そりゃ暫くはこの船の中に缶詰だからな。人間関係のトラブルなんか起きると空気が悪くなるんで気を付けてくれや」


 廊下を進み、階段を登る。

 やがて辿り着いた部屋は簡素ではあるが清潔で、ホテルのような個室の前だった。


「狭いかもしれんが我慢してくれ。これでも広い方の部屋だし個室なんでね」

「いえ、充分な広さです。心遣いに感謝します」


 ベッド、テーブル、あとは荷物を置ける床があればそれで良いと考えるトルネにとっては必要な機能を備えてゆとりすらある部屋と言える。

 大きくはないが壁に埋め込まれた円形の窓からは外の景色も見る事ができて完璧だ。

 トルネはふたつのトランクを床に置き、赤い跡の残った手をさする。

 白くなった指先に血が通って僅かに痒い。

 誤魔化すように揉みほぐして準備は完了。

 

「それで、私の仕事──」

「ブリッジまで行こう。流石にここで話すのは落ち着かん」

「……それもそうですね」


 この短時間でトルネの出端は挫かれてばかりだ。

 髪を撫で付け落ち着こうと努めているが、それでも肩肘張って意気込む空気に当てられて船長は思わず苦笑いをこぼす。


「そう焦んなさんな。アンタの仕事は新型イサナトリとその装備の開発だったか?祖父さんに聞いたぜ」

「ええ、今回は現場でイサナトリがどのように使われているのかの調査、そして我々の装備のテストにご協力頂ければと」

「なるほどねェ。ただそれだとウチの連中は……どうかなァ」

「どう、とは?」


 顎に手を当て、無精髭を撫でながら唸る船長の何とも苦々しい口元と困った眉を見て、トルネは一抹の不安がよぎる。


「なにか問題があるんですか?」

「問題も問題、大問題よ。アイツらイサナトリに船舶用のパーツ使って改造したりするからなァ……前よりはマシになったとはいえ、よくよくブッ壊しやがるしホント勘弁して欲しいぜ……」


 大きな背中を丸めて深くため息を吐き、先をゆく船長の後ろに続いてトルネも腕を組んで考え込む。


(現場を知るってこういう事?使った側の予想してない使い方は正直やめて欲しいけれど……試作品のデータ取りはマトモに出来るのかしら?)


 一歩進むごとに先への不安を募らせて、階段を登りやがて目的の場所へと辿り着く。

 前方への開けた展望と視覚以外の様々な情報を集約するこの船の、そして船団の頭脳となる場所。


「ようこそブリッジへ。物には触れないようにしてくれ。俺が怒られる」

「それはもちろん……へぇ、良い眺めですね」

「出航したらもっと素晴らしい眺めになる。まだ薄暗いしな」


 窓からはこの船同様、出航準備を整える船団の船が並んでいる姿がよく見える。

 トルネが港にやって来た時に比べれば往来は少なくなり、いよいよ港を離れる時が近づいている事が伺えた。

 

「オウ、最終確認は済んだか?」

「あと1箇所です!」

「抜かりなくな!」

「丁度今終わったそうです!」

「ヨシヨシ、これで今日も定刻通りに出航出来るな」


 船がいよいよ空へと漕ぎ出す。

 その緊張感が船を、船団を駆け巡って肌をざわつかせた。

 各所とのやり取りで声が洪水のようにブリッジに溢れ、トルネは気圧されて腕を抱えて後ずさる。

 ブリッジの隅で、ポケットの中にしまった懐中時計に触れて少し目を閉じ思いを馳せた。


(フランクも、この空を飛んでいた……)


 数多の思いを乗せた船団が、クジラを求めて空へ出た。

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