雲霧を越えて⑤ 呑雲吐霧


 空に浮かぶ雲の中、濃淡の違う雲を無数に重ねたその中に、雲の切れ間となる場所がある……つい先刻まではあった。

 今はそこに視界を遮る程の濃く、長い雲が毛糸玉のようにグルグルと球を描いている。

 それはアリーナ。

 相手を殺すか、自分が死ぬまで戦う為の決死の舞台。

 片割れを殺されたクジラは怒り狂い、内から溢れる熱のままを速度に変えている。

 対するハラネスとフロドもこのまま退けはしない。

 互いの生存を賭けた縄張り争い、そして捕食者としてのプライドを賭けた意地の張り合い。


「あんだけビュンビュン飛び回ってんならきっとスンゲェ疲れんだろ。スタミナ切れ待つってのは?」

「動きを止めれば落とされる。こっちも回避をしてる内に燃料切れになるのがオチだ」


 クジラの動きは凄まじい。

 2機を相手に動きを制する程に速く、力強く飛行している。

 幾度も突進を繰り返し、失敗する度に素早く切り返して次の攻撃へと移るのだ。

 余力を残し、相手が疲弊するまで温存しようという甘い考えでいれば、即座にその猛烈な速度を破壊力として叩き付けられる事になる。

 

「じゃあどうするよ?この雲だ、姿が見えた時にゃ銛を撃つ余裕なんてないしなァ」


 先が見通せない雲の中で、高速移動するクジラの姿が見えたならば即座に回避をしなければ致命傷となる。

 銛も有限だ。どこを狙えば良いのか定かではない状態で無闇矢鱈に撃つ余裕もなく、確実に決めるつもりで撃たなければならない。


「……ならヤツはどうやってこちらの位置を把握している?」


 視界が不明瞭なのは同じはず。

 にも関わらずクジラは確実にこちらの位置を捉えている事にハラネスは疑問を抱く。

 それに対してフロドはハッとしたように目を見開いた。


「クジラにゃ未知の部分が多い。解明出来たら教科書に載っちまうなァ」

「いいから考えろ。視覚以外の何かで捉えている筈だ」


 自分ならばどのように周囲を認識するか、警戒を厳としながらコクピットの硬いシートの上で鉄の匂いを嗅いで考える。

 周囲には雲、よく響くイサリビ機関の音とクジラの鳴き声。

 この中で何があれば相手を捉える事が出来るのか。


「音?イサリビ機関のこの煩さだからな……逆に分かりづらいかね?」

「匂いや触覚?あるいは味覚……いや、この雲にはクジラの体液が混ざっている。雑味が多すぎるか」


 あっという間に考えは止まり、ザラザラとした質感のノイズだけが無線機から吐き出されている。

 コクピットを満たすそれが心臓をじわり、じわりと締め上げるような緊張感を与えてきて、思わず無線を切ってしまいたくなった時、ハラネスとフロドが口を揃えた。


「無線か!」


 ハラネスは無線に入るノイズからクジラの位置を特定した事がある。

 フロドは先程ウィルフに無線で確認した情報から相手の位置を探った。

 両者は異なるものではあったが、答えに至る為の思考の飛び石としては十分な材料。

 これに賭ける価値があると、そう確信出来るだけの納得を2人は抱く。


「じゃあどうだい、無線を切って奇襲を仕掛ける」

「無線無しでタイミングを合わせられるなら良いかもな。どのみち相手がどこにいるのか分からなくなったとしても、ヤツは動きを止めたりしないだろう」

「それならまずは動きを止めるなり遅くするなりってのが目標か」


 フロドはひとつ唸り、そして悪巧みを思いついた子供のようにニヤリと笑う。

 

「よし、それなら僕にひとつ考えがある」

「俺は何をすればいい?」

「囮さ。僕が無線を切ってる間逃げ回るんだ。そんで僕が戻って来たら合図するから次はそっちが無線を切る。企みが上手く行ったらお喋り再開だ」

「任せろ……逃げるなよ?」

「あったり前だろ相棒?」


 フロドは無線を切って何処かへ飛んで行ってしまった。

 クジラが本当に予想通りに動くなら、フロドの作戦も上手くいくのかもしれない。

 そんな不確実で、不安定な他人へ全てを預けているこの状況でハラネスは僅かに笑う。


「悪くない。中々良いものだな」


 先を見通せない雲の中でひとりきりで飛んでいる。

 しかし目には見えない他者との繋がりを感じて、ハラネスはこの上ない頼もしさを抱いて雲の向こう、そこにいるであろうクジラを睨む。

 

「これでこちらを襲ってくれれば時間稼ぎになるが……」


 無線を辿っているならば、この場で襲われる可能性が最も高いのはハラネスだ。

 雲の僅かな動きにも心臓を跳ね上がらせる状況で、いつ襲って来るのかという事もそうだが推測が当たっているのかという要素も緊張の一端となる。

 浅い呼吸と力強い拍動がやけに喧しく、額を流れる汗が鬱陶しい。

 むしろ目の前にクジラが飛び出した方が安心できるという奇妙な心持ちでソレを待つ。


「警戒しているのか?獲物が片方消えたから……」


 今までにこんなに突撃の間隔が空いた事はなかった。

 嫌な想像が脳裏をよぎる。

 だからこそ、視界の端に黒い影がチラついた時には思わず喉を鳴らしてしまう程だった。


「そうだな。喰いつかざるを得ないだろう。不安に駆られて歩みを止めるなんて俺達らしくない」


 クジラとしても先程までハッキリと捉える事が出来ていたものが不鮮明になる事に不安と疑問を抱いていた。

 しかしそんな些事に囚われるよりも今、手の届く位置にいる相手を仕留める事こそ重要だ。

 何があろうと飛び込んで、全てはその場でなんとかすれば良いのだという、向こう見ずな実力への自負が行動へと移させるのだ。

 ハラネスもクジラも相手をハッキリと捉えて、相手を殺すまで退く気はない。

 雲の向こうで力強くヒレを羽ばたかせ、雲に波紋を残して突撃するクジラをハラネスは全力で回避し続ける。


 両者に違いがあるとすればそれは個の力。

 イサナトリといえどもクジラに完全に勝るとは言い難い。

 そして群れの力。

 ハラネスには今、共に飛ぶ相棒が居る。

 速戦即決で片方のクジラを仕留めた事が、今ここで有利に働いた。


「ハラネス!準備完了だ!」

「了解。無線を切る……死ななければまた言葉を交わそう」

「不吉な事言ってんじゃ──ってもう切ったか」


 交代で無線を付ける──囮を代わる。

 雲の中へと消えたハラネスの代わりにクジラの感覚器官はフロドの位置を捉えた。

 下方から緩やかに上昇する反応があると知り、クジラが取るのは一旦距離を取る事。


 先程からの不自然な動きから自分達と同じような事をしようとしているのは察している。

 だがそれでもやるしかない。

 既に逃げて、逃げて、逃げて来た場所がここだから。

 片割れと共に縄張りを維持し、生きてゆく事が望みだった。

 だがそれはもう叶わない。

 ならばもう意地だ。

 これ以上は野生のプライドが許さないと、敵を見据える他にない。

 同じように縄張りを守ろうとする矮小な2匹を倒し、強さを誇示しなければならないと……稼いだ距離を破壊力へと変える。

 ヒレを動かし、空気を叩く。

 背後に衝撃波を残して飛んで、飛んで、視覚に依らない感覚で敵へと鼻先を向ける。

 ──濃い雲の先に、居る。

 この濃い雲ですらあっという間に飛び越えてヤツをひしゃげさせてやろうと思い……大きな影が視界に入った。


「掛かったな!」


 互いの姿が見えた時には避けようがないその大きさ。

 イサナトリのものより大きなシルエット。

 自らと同じ形のそれを見て、クジラは大きな声を上げてヒレをバタつかせた。


 巨大な肉と肉が衝突し、衝撃が余さず巨大に──クジラの片割れの亡骸へと吸収される。

 フロドは無線を切っていた間、ブイを付けたクジラの亡骸を探していたのだ。

 視界が遮られていようと大体の位置を覚えていたし、ブイが落下を極めて遅くする。

 骨が砕けて肉が裂け、内臓が破裂しているだろうがフロドとしてはそんな事を考える余裕はなかった。

 なんにせよ、この視界以外を遮るものの無い空に唐突に現れた障害物はフロドの企み通りに見事、猛進し続けるクジラの歩みを一時止める事に成功した。

 そしてその僅かな隙はフロドにとっては十分過ぎる程の時間だ。


「隙だらけだなァ!」


 とはいえ一撃で仕留めにいく欲張った事もせず、放った銛はクジラの上半身へと刺さり肺を傷付ける事に成功する。


「ヨシ!上手くいくもんだ!だろ?ハラネスさんよォ!」

「死者の尊厳がどうのと言うつもりもないが、銛撃ちの仕事としては乱暴なものだ……」


 相手を倒す為の全力として、この手段を取ったフロドは変わらず全力を持ってしてクジラの飛行を妨げる。

 ワイヤーを繋ぎ、動翼とエアブレーキを駆使して可能な限り抗力を生み出して少しでもクジラの速度を落とす作戦。

 これの締めはハラネスにトドメを刺させるというフロドのささやかな嫌がらせにて完了する。


「今度はやれるな?」

「……やってみよう」


 過去と重なるこの状況に、ハラネスはやってくれたなと内心思いつつ肩を回して戦意は充分。

 轟くクジラの怒声へ向かって全開でイサリビを燃やす。


「くっ……速いな」

「これ以上足引っ張るのは無理だ!機体が悲鳴を上げてる!」


 フロドの懸命の制動は確かに効果があるのだが、ここに来て手傷を負ったクジラも命を絞り出すような飛行を行っていた。

 そしてそれに引っ張られているフロドのイサナトリはその全てを使って抵抗をして、負荷が掛かり続ける。

 少しでも長続きするように操縦桿を動かして細かな調整をしているが、騙し騙し続けている事に長く続く見込みは無い。

 

「そこから銛は撃てないか!?」

「試してみてもいいけど、どうせ揺さぶられて外すか当たっても浅く入るだけだ!」

「なら何故そんな装備を持って来た!」

「ワイヤー巻き取って肉薄すりゃあ当たるんだよ!問題はそんな事してる間にアンタの機体の燃料が尽きて的になりそうって事だ!気持ち良く飛ばし過ぎなんだよ!」

「クソ、残量は……これは、いや大丈夫だ!ある程度近づいたら浅くとも刺せ!俺が押し込む!」


 ハラネスの慣れない機体について気が回っているのは、むしろ側を飛んでいるフロド帽子だった。

 燃料が尽きるまでというタイムリミットを意識して、ハラネスが選択したのは目一杯に時間を使う作戦。

 フロドはワイヤーを巻き上げ軋む機体をより軋ませて、ジワジワとクジラとの距離を縮める。

 ハラネスもクジラと距離を詰めるように飛行するが、彼我の距離を縮めるのはやはり難しい。

 距離を離されないようにするのが精一杯で、しかし注意を引く為に銛筒を構える。


「当たりさえすれば良い……!」


 空気を叩く音と共に銛が放たれ、しかし距離もあり互いに高速で飛んでいる状況でまともに刺さる筈もなく、体表に僅かな傷を残す程度で終わったその攻撃に、クジラの反応は敵意に満ちたものだった。

 痛みよりも怒りによって高らかに吠え、体を大きく曲げて針路はハラネスへ。

 背後に迫るクジラの存在を感じつつ、ハラネスは自らの背を追わせる。


「まだなのか!?」

「わざわざ抵抗掛けながらワイヤーも巻き上げて空中分解寸前なんだよッ!ケツ噛まれないように黙って飛んどけ!」


 フロドはコクピットに響く金属の軋む音、歪んで悲鳴を上げる音に冷や汗を垂らしながらゆっくりと、タイミングを見て少しづつワイヤーを巻き上げていた。

 ワイヤー自体の断裂というよりも、焦って負荷を掛けすぎればワイヤーの巻き上げ機構、銛筒、イサナトリの右腕までがバラバラに吹き飛ぶ。

 同時にエアブレーキと動翼に無茶を言わせてクジラのスピードを落とさせている。

 何がキッカケで全てが崩れるか分からない綱渡りの恐怖をフロドは味わって……口の端が吊り上がる。


「やれる。やれるぜフロド。こんなスリル堪らないだろ……いけるさ、僕ならな」


 それは強がりでもあるが、何より『天才』ならば出来ると強く思えば実現するという自分を信じる為の言葉だった。

 少しづつ縮めた距離が銛の刺さる深さを決める。

 ハラネスが押し込むといっても、ある程度は刺さらなければハラネスの挑発代わりの銛のように簡単に外れてしまう。

 銛の先端の返しが刺されば簡単には抜けない。

 だが確実さを求めるならばもう少し、もう少しだけ深くと求めてフロドは綱渡りを続ける。


「よし、……よし、よし!ヨシッ!撃つぞッ!」

「ああ!やれ!」


 狙いは正確に……クジラの皮、脂肪、筋肉、骨格……そして心臓を見通して左腕の銛筒を構える。

 引き回され、揺さぶられて定まらない視界の中でも凪はある。

 

「隙だ。動きの緩やかになるそこに呼吸を合わせれば……」


 右へ、左へ飛び回り、イサナトリが悲鳴を上げる。

 続く急降下で軋む翼を僅かに傾け息を呑む。


「すぅ──ふぅ」


 空に大きなU字を描くようにクジラの下降は底に触れ、今度は上昇を行おうとした時に──フロドの呼吸がピタリと重なった。


「喰らいやがれッ!!」


 上昇の為に持ち上げた体はフロドからすれば無防備な背中だ。

 銛の入った角度も体に対して直角に近く、先端も心臓を目掛けていて深さが足りない事以外は完璧に近い刺さり方。

 思わぬ痛痒に上昇を諦めたクジラがもがいて羽ばたき、痛みを振り切らんと目の前のハラネスを血が混じる熱い吐息で追い掛ける。


「よくやった!あとは俺が!」


 クジラの追走をしきりに後ろに見て、ハラネスは左右へ細かく機体を動かす。

 クジラの背に突き立つあの銛を押し込むには、当然なんとかして近づく必要がある。

 クジラの背後から近づくには速度が足りず、他のどんな手段であれ抵抗は必至だ。

 ならばどのような手段をハラネスは考えているのか。

 それは極めて単純。


「チャンスは一度。確実に決める──!」


 ──最高速に乗ったハラネスのイサナトリが、クジラの視界から急に消えた。

 だがそれ以外の感覚が居どころを伝えている……背後。

 エアブレーキを作動させる事で瞬間的に減速したハラネス機はクジラの上方にて平行する形で飛んでいた。

 そのまま銛筒が轟音を放ち、銛はクジラの背中へ吸い込まれるように飛んでゆく。


「う、おおおオォォ!」


 浅くとも構わない。

 全力でワイヤーを巻き上げて少しでも早く距離を詰める為の足掛かりとして使った銛は、引き寄せられる力に負けクジラの肉を引き裂いて外れてしまう。

 だがそれでもハラネスは王手にひとつ近づいた。


(──あと少しで!)


 イサナトリの手を伸ばし、フロドが撃ち込んだ銛を深く差し込めばそれで勝ち。

 機械の腕を伸ばしてあと少しの距離を縮めようと目を見開いてクジラを睨むと……目が合った。


「──っ!?」


 背筋を走る怖気。

 思わず思考が停止するようなその視線に射抜かれたハラネスは息を呑む。

 そしてその隙が致命ともなる。


 クジラは片方が萎んだ肺を目一杯動かして潮を噴く。

 それは今まで放ってきたような雲ではなく、喉に溜まった血反吐を吐いたもの。

 不可避の状況で赤い血潮がべっとりとイサナトリの覗き窓にこびりつき、ハラネスは思わず顔を背ける。


 ──これで視界が潰された。

 クジラは息苦しさに視界が狭まる中で目を細めて悦ぶ。

 せめてコイツだけはと全ての力で全身を波打たせた。


「危ねェ!」


 フロドの警告虚しくクジラの体当たりはハラネス機へとまともに入った。

 凄まじい衝撃が音としてフロドにも伝わり、銛筒が視界の外へと吹き飛ぶのが見えた。

 同じように弾き出されたハラネス機を想像して周囲を見回し姿を探すが……見当たらない。


「──これで」


 しかし、ハラネス機は弾き出されてなどいない。

 衝突の瞬間、咄嗟に左腕のブレードをクジラへと突き立てて、なんとかしがみついたハラネス機がフロドの撃ち込んだ銛を掴む。


「終わりだ……!」


 ブレードを支えに軋むパーツに無理を言わせて操縦桿を押し込み、銛が深く差し込まれる。

 無数の繊維をを押し分け、鋼の切先が拍動する肉に触れた。

 そのまま最後の一押しと力を込めれば、然程の抵抗もなく心臓は破れ、血液が溢れ出す。


 命が急速に失われる感覚に、クジラが最期のひと鳴きをして……灯火が消えた。

 筋肉の硬直が解かれ、刺さったブレードが温かい鮮血と共にスルリと抜け落ち、イサナトリもそのままクジラの亡骸から距離を取る。


「ハ、ハハ……ハハ!!やったぞ!」

「ああ。上手くいって良かった」

「だな!……おいおい何処まで降りてくつもりだよ?」


 勝利の余韻に浸りつつ、共に栄光を分かち合う相棒の姿を下方に見てフロドは呆れて笑う。

 ハラネスのイサナトリはブレードが抜けたそのまま下降して、雲の中へと入っていった。

 余韻を楽しむにしては力を抜きすぎだ。


「ふん……?機関が停止したな」

「オイ!マジかよ!?」

「再起動も効かないな。衝撃がマズかったか?」

「呑気に分析してる場合かよ!?」


 絶対絶命の状況で案外とハラネスは落ち着き払い、フロドは心底焦っている。

 せっかく大物を仕留めたというのに、こんな事で死んでしまうのはあんまりにも締まらない。

 クジラに繋がっていたワイヤーを外してハラネスを追って下降する。


「バルーン……は外してんだもんなァ!?乗員用のパラシュートあんだろ!」

「ハッチが開かない。歪んだんだろう」

「クソが!待て待て待て!なんか操作は!?」


 ガチャガチャと、あれこれ触れて動かすが反応を返すものはひとつも無い。

 ハラネスのイサナトリは静かに落ちてゆく。

 そしてそれを追い掛けるフロドのイサナトリは逆に大変に騒々しい状態だ。

 ガタガタ、ギシギシと常に何処かしらのパーツが鳴り続け、下手をすれば次に落ちるのはフロドの機体になるだろう。

 

「ダメだな、皆目見当がつかない。無線が生きている事が奇跡なのかもしれん」

「奇跡ってのはもっと都合の良い事が起きた時に使うんだよ!」



 墜落し、空の底へと一直線に落ち続けるハラネスのイサナトリ。

 それを目指して機体に負担を掛け過ぎないように安全な速度でゆとりを持って飛んでいると、長い事居た気がしてしまう雲の底を抜けて夕陽の照らす燃えるような空へと飛び出した。

 その光を浴びるイサナトリはまるで燃え盛る火花のようで、それを消さない為にもフロドは飛ぶ。


「追い付くのには自由落下の速度に加えて少しの加速で充分!焦る事はねぇって……!」


 だと、そう考えていた……のだが。

 唐突に何かが弾ける音、破断する鋭い音が響いた。


「あ?」


 機体が揺れて、唖然とした感情をそのまま喉から出力したフロドは操縦桿をガチャガチャと動かして……求める反応がない事に青ざめる。


「翼が壊れた!?」


 無茶をし続けたツケが今まさに動翼の破損という形で精算された。

 パーツが割れて噛んでしまっているのだろう、動きを止めた翼はここに来て無駄な抵抗を生み出してしまっている。


「おい……オイオイオイ勘弁してくれよなマジで!!」


 視線の先には徐々に小さくなるイサナトリの姿。

 自由落下は阻まれて、無理な加速は機体の安定性を欠く事に繋がる。

 鋼と付着したクジラの血が夕陽の赤に等しく塗りつぶされて輝く姿を、目に焼き付くほどに凝視して頭を働かせる。

 しかしあらゆる手段を機体の状態が足を引っ張るのだ。

 万事休すかと、そんな状況でしかし、ハラネスを救うための方法をひとつだけフロドは知っていた。


(銛をぶち抜いても問題ない場所に当ててワイヤーで引き上げりゃあ助けられるが……)


 それは当然リスクを伴う選択肢だ。

 機関部に当たり、燃料に火が着きハラネスが焼け死ぬかもしれない。

 コクピットに当たればハラネスは串刺し、それらを恐れて適当な場所に当てれば引き上げる際の負荷に耐えられないかもしれない。

 無数の失敗の可能性がフロドの脳裏をよぎる。


(──ッハ!リスク上等!やってやれねェ事はない!だって──)


 意を決してフロドが吠える。


「僕は天才だからなァッ!」


 銛筒の砲声が赤い空に響き渡った。

 それ以外には鋭い擦過音のみ。

 周囲にある赤は夕陽の赤のみで、炎上するイサナトリはない。

 銛は見事に的確な場所を撃ち抜いて安定しているのだ。


「ほんっと、手間かけさせやがって」

「信じていたのさ……相棒」


 振り子のようにユラユラと揺れているイサナトリが不安定さを生み出してフロドはバランスを取るのに精一杯だ。

 だがそれでも、この一瞬でとてもホッとした。


「調子の良いこと言いやがってよォ」


 吊り上げられるハラネスと、ガタガタの機体で必死にバランスを取るフロドは、ほうほうの体で帰路につく。


「俺は少し眠る。次に目が覚めた時にあの世じゃない事を祈るよ」

「こんの……!ヤバくなったら投棄してやるからな……!」


 家はもう、すぐそこだ。


◆◆◆


 スナドのデッキから沈む夕陽がよく見える。

 白い雲に赤い光を投射して、反対側の空には深い青から黒へのグラデーションが映っている。

 手すりにもたれ掛かり、夕陽を眺めるハラネスの元に近づく金属の足場を叩く硬質な足音がひとつ聞こえてきた。


「ヨォ、アンタもたっぷり絞られた感じか?」


 やけに楽しげな、浮かれた声のフロドだった。

 夕陽を金髪で反射させ、ギラギラと自分の存在を主張して得意げだ。

 彼にとっては夕陽すら自らを盛り立てる舞台装置にすぎない。


「まあな。機体はボロボロ、燃料はカラ。生きて帰って来たのが奇跡だと言われたよ」

「ハハハ!そうそう、こういうのを奇跡って言うのさ……ほらよ」


 フロドがハラネスへとポケットから取り出した何かを投げて寄越す。

 宙を舞うそれは眩い光を浴びてその複雑な形状を際立たせながらハラネスの手の中へと収まった。


「クジラの骨か。やはり砕け散っていたな」

「加工し易くて良いだろ?」

「俺の首飾りに使うのは爪一枚分程度の大きさがあれば良いんだ。これでは大き過ぎる」


 フロドが寄越したのはそれより遥かに大きな欠片だ。

 クジラを止める為の囮として使ったので全身のあちこちの骨がこのような状態なのだろう。


「だが、まあいい。共同戦果だ、必要な分を削り出したらお前にやろう」

「じゃあ僕の分は王冠にでもしてくれ」


 軽く笑い合い、沈む夕陽を眺める。

 とにかく大変な1日だったと、こうして無事に終えた事への感慨と共に日没を迎えると、否応なしに全身の疲労を感じ始めてしまう。

 そんな重い体を床に預けて座り込んだフロドは、疲労困憊でなお軽い口を開いた。

 

「お前は恐ろしくならないのかよ?僕だったら兄貴が狩りの最中に死んだら恐ろしくなってしまうね」


 恐れ知らずというものを表すのに、ハラネスの姿はうってつけだ。

 今日もスリルに関しては中々に耐性のある方だと自負するフロドが見ているだけですら肝が冷える事が多々あった。

 そこで疑問が堆積し、疲れや達成感に任せて思わず聞いてしまう。

 それに対するハラネスは、少し考える仕草をしたあとにポツリと呟く。


「恐ろしい、それに罪悪感もある。だが、それでも……」


 ハラネスが戦利品を束ねた首飾りを取り出す。

 ジャラジャラと無数の骨片を束ねたそれにフロドから受け取った骨もいずれ加わる事になる。

 だが今触れるのは、今日の戦果が加わる位置とは正反対。

 幾つも連なるその中でも1番上の端にある不恰好な形の骨片。

 

「この欲求には抗えないんだ。子供の頃、兄さんとトルネと3人で忍び込んだ工場で亡骸だったが初めてクジラを見た。そしてそこで見つけた骨片を拾ったその時から、俺はクジラを狩るんだと信じて疑わなかった。ずっとそうなんだ。一度は辞めようと思ったが……お前が降ってきたからな」


 フロドを見て、フッと力なく笑う。

 諦めや呆れや楽しさを吐息に混ぜて吐き出して、ハラネスの顔は憑き物が落ちたように晴れやかだ。

 そしてきっと、このように晴れるのはハラネスだけではない。

 クジラの討伐が広まれば、襲われた人々も多少は気が楽になるだろう。

 フロドはあの日見た子供の事を思い出していた。


「なぁ、これであのガキは悪夢を見ないで済むのかね」

「だと良いな」

「あぁ。ホントだぜ、ガキは元気なのが一番だからなァ……そんで、アンタはどうなるんだ?」

「俺か?」

「大勢の悪夢の源を取り払ったアンタ自身の悪夢は誰が仕留めんだって話」

「それは俺自身が片付ける」

「そうかい」


 もたれ掛かった手すりから離れ、ハラネスが遠慮がちに手を差し伸べる。

 差し伸べられた手を見てフロドは悪戯に笑い、ハラネスの続く言葉を待つ。

 せっかくならばハラネスの口から聞きたいと。


「その時は……お前の力があると心強い」

「そりゃそうだろうなァ……天才の力が必要だろうとも」

「頼りにしてるよ」


 ハラネスの手を掴み、引き上げられたフロドがハラネスと並び立つ。

 夜空の星が、両雄の誕生を祝福していた。

 そんな夜のとばりにハラネスもひとつ光を添える。

 懐からタバコを取り出して火を付けようとして……動きを止めた。

 横で自らを指差すフロドに気が付いたらからだ。


「あー!おまっ!お前が持ってたのかよ!?」

「ん?……ああこれか」


 ハラネスが手に取るのはシガレットケース。

 それをひったくり、フロドは慌てて中身を確認する。


「どうりでコクピット中探しても見つかんねェ訳だ!……クッソ減ってやがんなァ!」

「命を救ってやった礼はそれでいいぞ」

「バカッ!僕の命がタバコ如きとトレードオフなもんかよ!」

「なら今日ので相殺だな」

「ああ……それならタバコ分テメェの負債が発生すんだろが!」

「フッ……」

「笑いやがった……!?」


 なんとも楽しげに時間は過ぎてゆく。

 重ねた時間と会話の分だけ結束と理解は深まり、何かを乗り越える為の力に変わる。

 いずれ訪れる、その日の為に。

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