第三話 魔の洞窟
久々のコンサートだった。バンマスAに無理を言って休みをもらった。通常の休みは月に一度しかなかった。そしてその日は大体よそのバンドに遊びに行った。バンドの休みはあっても音楽の休みはなかった。
コンサートの期待はかなり大きかったが、どんな演奏をするのかまるで見当がつかなかった。会場についた時、かなり多くの人がすでに集まっていて、みんなの顔はやはり期待で輝いていた。時間があったので会場のレストランで腹ごしらえをすることにした。少しドキドキしていた。
ドキドキしていたのはコンサートの期待もあったのだが、実は録音機を仕掛けているからだった。最高級グレードのカセットの動作を確認して、予備のテープもケースから出し、頭出しを鉛筆で行って、会場での手順を確認した。後は会場チェックをやり過ごすだけだ。気持ちを落ち着けて会場に向かった。
ドキドキが何だったのかと思えるほどスムーズに会場に入ると、やはり満席だった。席に着き最終動作確認をして、暗くなるのを待った。違うドキドキが始まった。
やりようのない時間を過ごすと待ちかねたように照明が暗くなった。マイクの電源を確認して録音機に手を伸ばし録音を開始した。時計を見てテープの残り時間を確認した。ステージにはまだ誰もいない。これからメンバーがサウンドチェックしたり、司会者が案内すると思うとうんざりした。テープが勿体ない。
しかし前触れなしにメンバーが入ってくるとドラマーがセットに座り、いきなりリズムを叩き出した。慌ててレコーディング・レベルをチェックする。セレモニーはいきなり始まる。ベースが重低音を弾き始めると、松明が燃やされたみたいにパーカッションが唸りを上げる。オルガンが小節関係なしのペダル(同じ音を終わりがないかのように伸ばす)を弾くと、ギターが訳のわからないフレーズをぶち込む。
セカンドギターがファンクなリズムを刻み始める。テナーがぶちぶち言い始める。いきなりこれは何なんだ。想像を遥かに超えられて、戸惑う、混乱する。周りの席も同様に混乱している。いや会場自体がざわめいている。裏切られたと思っているかもしれない。絶対、どう対応していいか分からないと思っている。
主役のMDは出てこない。こんなものを聴きに来たんじゃないと、思ったその時...
トランペットの音がどこからか聞こえた。
MDだ! 1音で分かる。
MDが入ってくる。拍手が鳴る。しかし彼は観客には目も向けない。カッコいい尻を向けている。彼はメンバーがちゃんと揃っているかを確認するようにぐるりと首を回し、いきなり左肩を落とした。とたんに、
ボリュームが急激に落ちた!場面が変わった。しかしリズムは続いている。耳が聞こえない音を聞こうとしている。MDがゆっくりと振り向く。顔は下を向いたままだ。
と、また肩が落ちた。リズムが止まった。ラッパがつんざく。眠りからゆり起こされたように、再びリズムが刻まれる。そのリズムを縫うようにラッパがつぶやく。その呪文にかけられたかのようにリズムが動く。うごめく。
呪文にかかったのはメンバーだけではない。会場全体が揺れている。これは集団催眠だ。と、思って逃れようとしても、すぐに引き戻される。MDの低い唸るような祈りが呪文が続く。段々目覚めているのかどうかすら分からなくなる。
サングラスのせいでMDは複眼を持った昆虫のように見える。彼が触手を伸ばす。伸ばした手が今いる席に伸びてくる。生きたまま食われるのか?もう身動きが出来ない。ああ...
カチッと音がして我に返る。テープの終わった音だ。慌ててテープを裏返してレコーディングを始めた。録音を確認するとすぐに祈りに加わった。持っていかれるのが気持ちいい。もう好きにしてくれ。
リズムが混沌としてきたと思ったら、MDが叫ぶようにボリュームを上げた。触発されたバンドは負けじと大音量になった。肩が落ちた。リズムが止まった。ラッパが吠えた。リズムが追従してかがり火が燃え上がった。観客の歓声も燃え上がった。観客いや信者の興奮も最高潮になり会場が揺れた。
ここは魔窟で、MDは呪術師だった。
興奮冷めやらないまま会場を出ると、いきなり見知らぬ若い男に呼び止められた。
「録音してましたよね」と彼は言った。マイルスは思わず身構えた。
彼は地元の大学生でコンサートに来て、マイルスが録音機をいじっているのを見かけたのだと言う。
そしてそのテープを聴かせて欲しいと言った。マイルスは少し事態に安心して「いいよ」と言った。
彼は車で来ていると言った。車の中で聴けると思ったが、彼は「うちに来ませんか」と誘った。マイルスは宿を予約していなかった。が彼は「今日は家に泊まって貰って、明日は空港に送る」と言ってくれた。立派なステレオがあって、夜通し、繰り返し聴いた。良く録れていた。
朝が明けると良い天気だった。彼は約束通り空港まで送ってくれて空港の中までついて来た。
ここで彼と別れようとすると、彼が誰かを見つけた。MDだった。
あまりの出来事に驚いていたが、大学生の彼はつかつかとMDの方に歩いて行った。気難しいMDだと聞いていたので少し慌てたが、MDは彼と握手していた。
それならばとマイルスも駆け寄り昨日のプログラムにサインを求めた。MDは気軽にサインしてくれた。握手をするとMDはマイルスの目をじっと見た。そしてその目はしばらく外れなかった。
MDの目にマイルスは運命を見た。
体中にMDのサウンドが突き刺さっていて、医者なんかでは手に負える代物ではなかった。プロのラッパ吹きとして活動していたマイルスだったが、周りの刺激は薄く、このままでは音楽屋になると思った。誰かのように吹けても、たとえMDのように吹けても、意味はない。必要なのは自分の音と、誰のでもない自分の音楽だ。
悩んだマイルスは東京の音の良いトランぺッターに紹介されて、Maggio奏法という金管楽器の教則本に出会った。その本の最初のページには、理想の口だというチンパンジーの写真と共に、トランペットの音には無い、桁外れの低域が書き込まれていて、これは絶対何かの間違いだと思った。さらにページをめくると、今度は泣き出したくなる程の、超高音が待ち構えていた。
指導者の居ないまま教本だけが頼りの訓練は、厳しさと劣等感だけが残った。こうだと言う自分の決め付けが、トランペットを駄目にしているとマイルスは思った。その頃、誰も彼の演奏を駄目だという人は居なかったが、それでもこれでは、自分は幸せになれないと思った。癖を取るためにトランペットを休止して、サックスに転向した。そしてその後暫くして海を渡った。
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