春の始まり

蛙手 落葉

そんな理由で

 こんな話を聞いたことがある。誰にでも優しいとは誰に対しても無関心であると。でも俺はこの言葉の意味を理解できなかった。俺からすればその優しさと言うのは尊敬の意であったからだ。


 友達や先輩が自分よりも優れている点が一つでもあれば、まるでその人のすべてが素晴らしいものとして接することで誰も傷つかないじゃないか。そう自分でさえ。


 俺は荒んでいた。高校生になって一年、部活も勉強も頭打ちになってやけになっていた。否、やけになっていたのは一週間くらい前、春休みが終わるまでだったか。


 春休みが明けて新学期、あからさまな態度の変化に、つまり僕が静かに、丁寧に接するさまに始めクラスメイトのみんなは驚いていた。そして裏で散々ありもしないうわさを流し、あれよあれよと必要なら話すといった距離感に収まった。


 そして今一人で机に肘をつきながら、頬に手を当てながらこんなことを考えているのだった。


 今日もこうして一人で考えに耽っているはずだった。


「山田君最近元気ないね、大丈夫?」


 ——誰?


 声をかけられた俺の感想はたった一言、たった一文字で表せられた。この声の持ち主を、セミロングの茶髪の少女を俺は知らない。それはそうと少女は俯く俺と正面で向き合うように屈みながら上目遣いで俺を見ていた。


「うっ、えっと……誰?」


 とっさのことに思っていたことが声に出てしまった。今になって考えてみればこんな時間に、ホームルームが始まる直前に教室にいる人なんてクラスメイトくらいなのだが、それでも心当たりがなかった。去年からクラス替えなんて行ってないのに。


「……そうだよね、私のことなんて覚えて、ないよね」


 少女は涙声で大げさに目をウルウルとさせていた。そのままとぼとぼと自分の席へと返って行ってしまった。呼び止めようとしたところで担任の先生が入ってきてホームルームが始まってしまった。


 結局、話しかける機会を失ったまま、あっという間に放課後になってしまった。半日かけて今朝話しかけてきた少女が佐藤であると授業中の先生の指名で思い出せた。


 そんなありふれた名前をふつう忘れるだろうか? いや、ありふれているから忘れたのか?


 しかし、俺のクラスの中に佐藤という苗字は一人しかいない。つまり彼女がその佐藤なのである。でも俺の知っている佐藤は、ずっと下を向いていてグループワークでも「うん」としか喋らない、前髪で目を隠すような女子だった。


 人は短期間でそんなに変われるもんなんだと感心しながら教室を出て、玄関へ向かおうとしたとき、声をかけられた。


「あっ山田先輩、お疲れ様っす」


「……お、おう橘」


 俺が入っているバスケ部の後輩だった。それも推薦でこの高校に入ることが決まってからすぐ、高校に入り浸って一緒に部活をしている元全国出場校のエース様だった。ここ最近俺が荒んでいる原因であるコイツはそれを知ってか知らずか妙に俺に親しげで不気味だった。


「これから体育館に行きます? 良かったら一緒に行きません?」


 今日は帰るつもりでいた俺は断る理由を考える。


「わり、今日俺病院行くから帰るわ」


「そっすか、んじゃまた明日」


 橘は俺の言葉を疑うことなく、そのまま体育館へと走って行った。少し経ってから俺も歩き出した。


 空がまだ青い。いつもは部活で夜遅くまで学校にいたから新鮮な下校だった。嘘をついて、コーチに断りを入れずに部活をさぼるという後ろめたさが薄れていくようなすがすがしさがあった。


 そんな気分を邪魔するかのようにまた声をかけられた。今度は後ろから。


「山田くーん、待ってー」


 佐藤だった。ぜえぜえと息を切らして俺の前に立つ。


「体育館にいないと思ったら、今日は休みなの?」


「えー、あー……ちょっと病院にな」


「嘘⁉ どこか体調が悪いの? 今日一日見てたけどそんなふうには見えなかったけど……」


 ——ん? いまなんて


 なにか妙な違和感を覚えたが、それよりもこいつ、佐藤に嘘が通じなさそうで別の嘘を考える。が、なぜかじりじりと迫られるような気がして焦ってどうせ同じ部活じゃないしと正直に打ち明けることにした。


「いや、ほんとはさぼりだよ。どこも怪我してるわけじゃない」


「そっか~、良かった~。じゃあ時間あるんだよね? じゃあ、いいいいいい一緒に、よよよよよ寄り道しない⁉」


 佐藤は段々と声が大きく、ろれつが回らなくなっていった。行く理由も、断る理由もない俺はどうしようかと悩んでいたが、すぐに帰って母親に説明するのが面倒だと気づいた俺は結局行くことにした。


「うん、いいよ」


 俺と佐藤は近くのショッピングモールへと行った。どうやら佐藤はその中にあるクレープを食べたいとのことだった。


「山田くんは何頼む?」


 ぼーっと佐藤の後ろに立っていると、そんなことを聞かれる。


「んー、佐藤さんと同じのでいいよ」


 佐藤に千円札を渡す。


「……もう」


 何故かふくれっ面でお金を受け取ると、小銭を俺に渡す。金額を見ると一人前のクレープ代との差額だった。用意周到というか、真面目というか、礼儀を重んじているというか。


 クレープを受け取って向かい合う形で近くの席に着いた。思えば甘いものは久しぶりだ。部活の為と控えていたが今日くらいはいいだろう。どうせスタメンじゃないし。


「……おいしくなかったかな」


「え? いやおいしいよ。そうじゃなくて……いや何でもない」


「なな、何もないことないよ! だだだだって変わった私に一週間も気づかなかったのたぶん山田君だけだよ? わ、私で良かったら話を聞かせて?」


『私で良かったら話を聞かせて』。きっと悪意のない純粋な心配心から来る言葉だったのだろう。


「佐藤はいいよな。春休みデビューが成功して、これから先きっとたくさんいいことが起きるんだろうな」


 どうして俺はこんな皮肉めいたことしか言えないのか。丁寧な言葉遣いはどこに行った?


「そんなんじゃないよ。私はそんな大層なことのために変わったんじゃないの」


「じゃあなんなのさ」


 佐藤のクレープが二、三口ぐらい多く残っていたがパクパクと俺の手に持つクレープと同じくらいのサイズまで食べ進めた。


「私は私に優しくしてくれた、昔の私に普通に接してくれた大切な人に憧れたの。その人はとにかくまっすぐで、何事にも楽しそうな人だった」


「へぇ、それはまぁ立派な人なこった」


「君のことだよ、山田君」


 佐藤はまっすぐ俺を見つめて言った。その眩しい目線を俺は直視できなかった。


 ——違う。俺は無知ゆえの、自分の身の程を知らないだけの無邪気で、無謀で、無鉄砲なだけだ


「……」


 俺は結局、それを告げることができず、ただただ下を向く。


「山田君からすれば、勝手な話かもしれないけど、何があったか教えてほしいの。借りを返すような気持ちで、ね?」


 ゆっくりと顔を上げる。俺は佐藤の心のこもったその言葉が嘘には聞こえなかった。


「俺は……」


 ホントに話していいのか? こんなくだらないことを


 自らの疑惑に反して、俺の口はすでに動いていた。


「もう、自身が無いんだよ、バスケや何もかもが」


 俺が佐藤に話したのは俺よりも圧倒的にバスケがうまい後輩ができたこと、その後輩が性格もよくしかも親しく接してくれることを嫌味に感じる自分が惨めな気持ちになったこと、……ついでに勉強にも手がつかなくなったことこれだけだった。そうたったこれだけのことなのだ。それでも佐藤は真剣に、笑わずに話を聞いてくれた。


「うん、うん。そっか、教えてくれてありがとう山田君」


 佐藤は微笑んだ。そして少し照れ臭そうに後頭部を触る。


「アハハ、自分から聞きに行ってなんだけども、こういう時なんて返したらいいか難しいね。あ、でも勉強だったら私教えられよ。山田君の後輩君か~。そういえば一回だけ練習しているところ見たよ。山田君とワンオンワン?をしているときすごく楽しそうだった」


「え? いつの話?」


 また、妙に引っかかる言葉を佐藤から聞いた。聞き返したが、佐藤は慌ててはぐらかし言葉を続ける。


「ととととにかく! その後輩君と一回話してみるといいんじゃないかな⁉ 意外とすんなり腑に落ちることがあるかもしれないよ!」


 佐藤は手で自らの顔を扇いだ。俺はその言葉がなぜか耳に残った。きっとなぜ橘が自分よりバスケがうまい人に絡まず俺となんかと居るのかが知らないせいだろう。


「そうだな、そうしてみるよ」


 なんだか胸の中がスーッとしたきぶんだった。クレープを食べ終えた俺たちは一通り店を回ってから外に出た。この時の俺はすごく楽しんでたのかもしれないと後々思った。


「今日はありがとうな。なんか話せたおかげで楽になったわ」


「ううん、ほんとはそれを伝えたかったんだけどね。私、すっごい動揺してたみたい」


「それにしてもよくあんな俺と話そうという気になったよな。今こうして普通に話しているけどふてくされてた自分が恥ずかしいや」


 俺は冗談めかしく言った。しかし笑う俺に反して佐藤が急に黙り込んでしまった。何か失言したかと俺は焦る。


「そんなの、当たり前だよ。力に、なりたいよ……。だってすすす好きな人が困ってるんだもん」


 目を腫らして、佐藤は顔を上げて言った。俺は泣いている彼女に慌てふためき、もどかしくも立ち尽くしていると、佐藤はより顔を赤くして、走って先に帰ってしまった。


「佐藤……」


 呼び止めにもならない声で呟く。そんなことよりも俺は佐藤の言葉にあったある二文字に頭を支配されていた。


 ——え? え? A? 佐藤が? 俺を?


 この後のことはすべて記憶が無かった。かろうじて布団の中で天井を見つめていたのは覚えていたが、いつの間にか次の日になっていた。


 一日が経っても、記憶は曖昧だった。なぜかもう放課後だ。いつ準備したのかわからない部活用のバッグを下げ、体育館へと向かう。


「あっ山田先輩、お疲れ様っす」


「……お、おう橘」


 ……なにかこのやり取りにデジャヴを感じながら、今日も橘と教室前で会った。タイミングが良すぎて、実は狙ってるのかとさえ思った。


「行くか」


「あ、今日は練習でれるんすか? じゃあまた練習終わったらワンオンワンやりましょうよ!」


 橘は嬉しそうに誘って来た。昨日までの俺だったらきっと腹を立ててただろうが、今の俺は違う。心の中で鼻息をたてて俺は橘に探りを入れる。


「橘さー、なんでいつも俺を練習相手にするんだ? もっとうまい奴なんて幾らでもいるだろ、それこそ三年生の先輩だったりさ」


「あー」


 橘はしばらく考えた後、申し訳なさそうな顔で言った。


「俺は、そうは思わないっすね。単純というか、見ててつまらないというか……。俺は先輩の常に考えているプレーが楽しくて好きなんすよ。あ、あとこれは内緒なんですけど、三年の先輩たちって野蛮過ぎません? ほんとは関わりたくないんですよ」


 橘は途中から小声になり内緒話みたくなる。


「なんだそれ」


 それに反して俺は腹を抱えて笑った。


 ホントくだらない。意外とものごとってこんなことばっかりなんだろうな。こうやって納得できたのも佐藤のおかげだな


「あ」


 俺はふと我に返る。


「急に静かになるの怖いっすよ先輩。どうしたんすか」


「ごめん、忘れ物。先行ってて」


 俺は教室へと走った。なんで俺は忘れていたのか、佐藤へのお礼と——返事を。


 勢いよく扉を開く。教室はすでに静まり返っていたが、一人だけ、窓際で座っている後ろ姿が見える。


「佐藤!」


 呼びかけに応え佐藤が振り返る。外の明るさにつられて佐藤も輝いて見えた。


「昨日は悪かった! 俺も焦って何が何だかわからなかったんだよ! でも今のお前の気持ちには答えられない!」


 ずんずんと佐藤の方へと近づいた。俺の言葉に佐藤は悲しそうな表情を見せるが俺は構わず声を出す。


「だって俺はお前のこと何にも知らないんだ。だから、だから……」


 ついに俺は佐藤の目の前に立った。


「俺と友達になってくれ!」


 俺は初めて佐藤の満面の笑みを見た。

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