永遠のリフレイン

ささみ

シニガミサマ



 空気が乾燥し始めた季節。

 患者は出された料理に手を付けず、主治医は横の椅子に腰を下ろした。


「……どうして、食べないんだい?」


 声は重たい。重しのような言葉を跳ね除ける力もない患者──葵は、せめてでもの抵抗で布団を頭の上に引っ張った。


「このままだと点滴も取れずじまいだ。お願いだ、食事をしてくれないだろうか」


 聞き飽きた言葉には返事をしない。

 恨むように歯を食いしばり、目を瞑った。


──目を覚ましてから、家族の死を知らされるのは随分と早かった。


 葵は陥没事故に巻き込まれた唯一の生き残りだ。記憶に新しい家族の笑顔が骨灰に変わるのは一瞬だった。

 泣き崩れるように声を上げたのを覚えている。信じられない、信じたくない。何も分からないまま時間だけが過ぎていく。

 それでも周りの大人は葵を称えた。生き残ったことを褒め、奇跡だ、運命だと騒いだ。


──聞こえる何もかもが騒々しい。


 それは全てこじつけだ。押し付けである。生き延びたのは偶然だ。家族は死のうと思って死んでいったわけじゃない。葵も自分の意志で生き延びたわけじゃない。

 死なせてくれ。生きたくない。大切な人が突然いなくなって、どうして平気でいられようか。知らない大人に勝手に称えられて、どうして嬉しいと思えようか。


「……なんで……私だけ…」


 涙を抑えて、愛おしかった家族を思い浮かべる。もう二度と会えない家族に思いを募らせる。会いたいと願う。声を聞きたいと祈る。

 けれど、どれだけ思ってもそれが叶うことはない。ほら見たことか。運命なんてない。奇跡なんてない。神様はいない。


──私の家族は、もう戻らない。



✳✳



「死にたいんですか?」


 夜中に突然、後ろから声が届く。

 驚いて振り返ると、誰かが椅子に座ってこちらを見上げていた。


「……え」

「貴女、死にたいんですか?」


 彼は椅子の背を前にして、寄りかかるような姿勢でもう一度問いかけた。

 見知らぬ人だ。知り合いですらない。


「答えてくださいよ、死にたいんですか」

「……答えたら、願いを聞いてくれる?」

「願いによります。聞きましょう」


 やけに白い肌だ。日に焼けたこともない部屋から一歩も出たことのない赤子のような白さである。椅子の背につく腕も細い。

 何も持てないようなその腕を見つめて、こんな奴に何が出来るのかと眉を顰めた。


「……貴方、どうやって入ってきたの? ここに来るにはナースステーションの前を通る筈だけど」

「気づかなかったんですかね。だってほら、誰も騒ぎを起こしてない」

「まさか、透明人間じゃあるまいし」

「ふふ、透明ですか」


 不敵に笑う表情に妙な違和感を抱いた。否、妙な違和感は最初からある。奇妙な気配が確信に変わったと言うべきか。

 異世界人のように不思議な彼は椅子を揺らして音楽を奏でる。暫くするとベットを指差して葵を見上げた。


「窓際は寒いでしょう。ちゃんと温かくしないと。死ぬとき苦しいですよ」


 ベットを軽く叩き、ニコリと笑う。

 何者なのだろうか、こいつ。

 葵は警戒しながらベットに入ると、再び彼に向き合った。


「ご飯食べてないみたいですけど」

「……うん、まあ」

「無理ですよ。どんなに足掻こうと医者は貴女を生かします。無理矢理に点滴されるのがオチです」

「引き抜けばいいわ、点滴なんて」

「じゃあ強制的に睡眠薬を入れられますね」

「……そんなの病院が、医者がしていいことなの?」

「生かすためならやむを得ないんですよ」


 むふーっと笑って、頬杖をつきながらこちらを覗き込む。何も考えていないような瞳に見つめられると寒気がして、葵は思わず視線を逸らす。


「……でも、そうするしか方法はないもの」

「方法って、死ぬための方法?」

「それ以外に何があるの」


 音楽を奏でていた椅子のリズムが止まる。静寂に戻った病室の中、先に口を開いたのは彼の方だった。


「独りぼっちだからですか?」

「……!」


 視線を彼へ戻すと、彼は目元だけを歪ませてこちらを見つめている。初対面だというのに、どうしてこちらの全てを知っているように話せるのだろう。

 けれど怯える必要はない。むしろ好都合だ。独りは辛いのだと告げる。家族がいなくなって苦しいのだと叫ぶ。お前にこの気持ちが分かるかと怒鳴り声を上げてやった。


「しー、そんなに大きな声出すと聞こえちゃいます。そう悲観的にならないで下さい。僕は一度も、貴女に生きて欲しいだなんて言ってません」

「じゃあ、何をしにここに来たの」


 人差し指を口の前に持ってくるポーズすら馬鹿にしているようで、彼を睨みつける。

 しかし彼は何の痛みも受けないようだ。

 人差し指を仕舞い、葵へ手を伸ばした。


「死にましょうよ」


 握手を求めるように綺麗な動作。希望を抱かせる夢のような手のひらだ。しかし囁かれた言葉は夢とは正反対のもの。

 地獄へ導く案内声であった。


「一緒に、死にましょうよ」


 目を見開いた葵は、彼を見つめて固まる。


「死にたいんでしょう? じゃあ僕の手を取って。僕が連れて行ってあげます」

「……どこに」

「それはお天道様の気分次第です」


 彼は非常に美しい端正な顔立ちをしている。誰もが魅了される笑顔を魅せ、葵を取り込もうとしているようだった。そんな彼を見て、とある名前が脳内をよぎる。


──死神


 彼の右手が動かないのは、釜を持っているからか。誰もを魅了させる笑顔は、相手の信頼を勝ち取るためのものなのか。暗がりのせいで足があるのかよく見えないが……。

 そこまで考えて、首を振る。


「……まさか、そんなの存在するわけ」

「ねぇ、葵さん」

「……!」


 教えてない名前を呼ばれて肩を揺らす。

 不気味である。やはり右手は何かに固定されたように動いていない。


「……死にたいんでしょう?」


 再び呟かれた言葉に、目を覚ましてからの地獄を走馬灯のように思い出した。独りぼっちの現実、痛い視線を浴びせる病室。

 生きていくことが辛くなった現状。


「……ええ」


 葵は手を伸ばし、左手を取った。

 布団に温められた己の手と異なり、彼の左手は氷のように冷たかった。



✳✳


 翌日、ぼうっと昨夜のことを思い出していると、医者がやって来る。


「おはよう葵君」

「……おはよう、ございます」

「……ああ! いい朝だね。どうかな、今日はご飯を食べれるかな」


 今までにどんなに挨拶をされても返事をしなかった葵が、今朝は挨拶を返したからか嬉しそうに笑った。

 目の前に置かれた料理に手を伸ばすと、また驚いたように医師は目を見開く。

 初めて食事をした葵を、どこか観察するように医者は見つめた。


「……何ですか」

「いや、こう言ってはなんだけど、昨日と随分違うみたいだからね。……何か心境の変化になるようなことが起きたのかなって」

「……まぁ」


 控えめに返答すれば、医者は目を輝かせた。自分の動作、返答に逐一反応する担当医がおかしくて、小さく笑う。


「良かった。何があったのかなんて野暮なことは聞かないけれど、葵君が元気になったのなら、……ああ、良かった」


 心の底から安堵している医者を見て、胸が痛んだ。一人になった部屋の中、葵は昨日の出来事を再び思い返す。


『──まず、ご飯は食べてください』


 左手の人差し指を立てて彼が言う。


「なんで? だって……」

「この病室から抜け出せない限り、貴女は死ねない。常に監視されてるような所ですからね、ここは」


 確かに、一理ある。

 ご飯を食べずにいれば、何度も医者は足を運ぶ。それが悪循環だと彼は言った。


「……分かった、食べる」

「はい。それと、医者や友人にも元気な姿を見せてください。理由は同じです」

「分かった」


 コクリと頷く葵を見て満足気に笑うが、その表情には感情がない。鳥肌が立つ。

 彼は笑顔を絶やさずに、もう寝てくださいと告げた。去り際に葵の額に触れ、冷たい手で目元を隠した。

 次の瞬間、スッと意識が遠のく──


───目が覚めたら朝だった。

 鬱々しい感情を胸に、家族のことを思い返す。家に帰りたい。けれど、誰もいない事実がどうしても受け入れられない。

 両手で顔を覆い、流れる涙を受け止めた。

──葵は一人で、側には誰も居ないのだ。


✳✳


「遊びませんか?」


 数日後の夜、また突然彼は現れた。


「何すんの」

「外は出られないので、ボードゲームでも」


 そう言って取り出した盤に黒と白、それぞれ二つの駒を置いていく。


「僕は黒を持ち駒とするんで」

「私は白? どっちが先に打つの」

「無難に、じゃーんけーん…」


 ぽんっ、と咄嗟に出した手はパー。

 彼はニヤリと笑って駒を打った。

 不服そうに次の駒を打ち、駒を盤に打つ音が病室に響く。角を取れば有利になると二人は思考を凝らしながら駒を打ち続けた。


「ああ、負けちゃった」

「まあ五分五分ね。ふふん、死神様もオセロは強いわけじゃないんだ」

「死神?」

「あ……」


 葵は焦ったように口を閉ざす。

 この数日間彼の事を死神なのではと考えていたので、つい呼んでしまったのだ。

 正体がバレたら無理矢理連れて行かれないか、そう考えながら彼を盗み見れば、彼はくつくつと笑っている。


「ふふ……っは、死神ですか……!」

「や、だって。……私を天国か地獄に連れてくって言ったから」

「あはっ、それで死神だと? 葵さんって……おもしろいですね」


 彼は涙を堪えながら腹を抱え、言葉を無くして笑っていた。

 よくよく見れば足先も床を叩いていて、ちゃんとつま先まであるのだと知る。

 数日のくだらない考えを思い返して、恥ずかしそうに顔を沈めた。

 未だ笑う彼を少し睨みながら、オセロ盤から駒を取り除き、ケースに仕舞っていく。


「そう笑わないでよ。私だってあり得ないって思ってたんだから」

「っはは、……誰が、死神じゃないなんて言いました?」

「……え」


 ひとしきり笑ったあと、彼は絶対零度の声色でそう告げた。手を止め、彼の方を向くと冷たく冷ややかな視線が刺さる。


「死神じゃないって……」

「まあ死神ではないですよ。……死神と成り得る存在なのは確かですけど」

「……どういう」

「僕は貴女を殺します」


 ハッキリと告げられたその言葉に、刃物が心臓に刺さった感覚に陥る。

 今日は切れ長の光を瞳に入れ、葵を刺し殺すようにジッと見た。


「魂を空の上に連れて行くんですよ。死にたがりの貴女と僕は手を取り合いました。貴女と僕は共にある。一緒に死にましょうね? 葵さん」


 伸ばされた左手が惑わすように頬を撫でる。冷たい手は怯えた瞳を持つ葵の目元を覆った。

 そしてまた、葵は眠りに落ちる。



✳✳


 寝起きは最悪であった。


「もしかしてよく眠れないのかい?」

「……先生」


 酷い頭痛が葵を襲っている。元気な姿を見せて、信頼を得ろと彼は言っていたが……。

 このままではいけないと思う反面、どこかホッとした様子の自分もいた。


「……先生は、私を生かしたいんですか」

「もちろん。私は君を殺してあげられない。医者の立場云々以前に、君とおしゃべりがしたいんだよ」

「……おしゃべり?」

「元気な姿の君から聞きたいんだ。もう心配いらない、こんなに元気になったんだ、という言葉をね」

「……どうしてですか? 先生には何にもメリットなどないでしょう?」


 棘のある言い方だと自分でも理解した。

 けれど、夜にやってくる彼が『一緒に死にましょう』というのに対し、先生が『君を救う』という対語を告げる。

 それは葵に不安定な感情を与えた。


「死にたがりの私を助けて、何になるんですか。何も残らない私が生きたところで、メリットなんて何も」

「その言葉は相応しくないな」

「……!」


 先生は優しげな瞳で葵を見つめている。


「私はね、君に外の世界を見てほしいだけなんだ。酷く辛い状況なのは分かっている。けれど、生きていれば狭い世界が広がり、無限大の可能性を見つけるだろうから」

「……綺麗事」

「かもしれない。でもね、やっぱり私は」

「だって、私にはもう誰もいない」


 息を呑む音が聞こえた。

 葵がどれほど叫んでも、医師の考えが変わらないことは知っている。同じようにどれほど嘆いても元の日常が帰らないことも知っている。

 視界が涙で歪み始めた。ボロボロと溢れた涙はシーツを濡らしていく。


「家族がいないだけで、たったそれだけのことで、私の世界は無くなってしまったんです。もう広がらない。だから、もう……」


 死にたい、と何度呟いただろう。

 ひとりぼっちになった自分は、どうすればいいのか分からないのだ。

 医者は静かに口を開く。


「──ひとりなんかじゃない。こう言ったら、君はまた怒ってしまうかな」


 葵は顔を上げた。

 綺麗事なのは変わらない。けれど、孤独を埋める言葉を受け取った気がした。


「……ひとりじゃ、ない……?」

「ああ。心配しているよ。君が大切だから」


 医者の目線を追うと、葵の友人たちがいた。花と見舞い品を手に、赤い目をして葵を見つめている。「葵」と名前を呼んで「生きていてくれて嬉しい」と、葵の手を握る。


「……皆、どうして…」

「今までは関係者以外入れなかったのよ。ようやく会いに来れた。元気で……無事でいてくれて、本当にありがとう」


 葵の涙腺はとうとう崩壊する。

 涙が止まらない。死にたがりの奥に隠れていた、生に縋りつくと意思が現れた。

 生きていいと言うのなら、一人じゃないと言ってくれるのなら。胸の奥に秘めていた願いを口にしてもいいだろうか。


「……っ私、まだ……生きても、いい……?」

「ッ当たり前でしょう! 生きて、葵!」


──この世に留まることを許してほしい。

 わあっと泣き声を上げたと同時に、友人が葵を抱きしめる。

 葵の友人、兄弟の友人、母親の、父親の友人、沢山の人が絶えずやって来た。見守られて生きていることを自覚し、胸暖かな世界に感謝し、幸せな感覚を噛み締める。


「───酷いね、葵さん」


 夜中になって死神が現れるまでは。



✳✳



「──ッ!」

「昼間は凄かったですね。生きたいと願った貴女の言葉だけで、あんなに大勢の人が見舞いに来たんですから」


 ベットで眠っていた葵を、上から押し付けるようにして彼は言葉を続けた。まるで絞め殺すかのように首に手をかけ、力を込めて。


「……ぁ、ぐ、っ……!」

「あぁ、もしかしてあれは作戦ですか? 医者や友人らから信頼を得るための。……それはいい。今夜ならここを出ても不審には思われないでしょう」


 スッと首から手を外されて、ゴホゴホと息を吸いながら咳をこぼす。目の前で揺れた左手は、葵の手首を掴んでベットから引きずり落とした。

 ガクリと膝が落ち、座り込む葵を見て彼は舌打ち、絶対零度の視線で睨み付けた。


「早く立ってください」

「……ま、待って。私、もう……」

「生きたいとでも言うんですか? 死にたがってた貴女が? 言ってましたよね、死にたいって。僕の手を取りましたよね。一緒に死にましょうって!」


 荒げた声にビクリと肩を揺らし、彼を見上げる。しかし逆光からか彼の表情は見えず、強い力を持つ左手だけが彼の気持ちを感じ取れた。

 問答無用で手を引かれ、引きずられるがままに病室の外に出る。

 奥をみれば光を漏らすナースステーションが合って、助けを呼ぼうかと口を開いた。

 しかしその前に彼の左手が素早く口元へと伸びて葵の口を強く掴む。


「声を出そうとしてみてください。今この場で舌を噛み切って死んでやる」


 彼は怒りではち切れたような目で見開く。その言葉が嘘ではないと瞬時に理解した葵は恐ろしげに首を縦に振った。

 彼は目を細めて再び腕を掴み、歩き出す。

 迷いのない歩みに、どこに行こうとしているのか聞こうとしたが、声を出せば彼が死んでしまうのではと恐れて何も聞けなかった。

 青ざめた表情で引きずられていれば、ふと横の病室に目がいく。


──開けっ放しの、病室のドア。


 葵と同じく一人部屋で、閑散としている。

 この病院では、基本的に共同部屋での入院が多い。葵以外で一人部屋にいるとなれば。


『──んですってね、あの人』

『このまま元気になってくれれば良いけど……あの手じゃねぇ』

『目が離せないって言ってたわ。目を離せば、その隙に自殺してしまうんだもの』


 いつかの看護師たちの会話を思い出し、その患者の病室だと察した。彼を見る。

 二度と動かないも同然の右手に、人の心を惑わせる巧みな話術。経験済みの医者の行動予測に、何もかも如何でもいいと思わせる瞳。

 葵がある予測を立てていると、彼は階段を登り、屋上へ向かった。


「チョロいんですよ。僕がジッとしている間、何もしてないと思ってたんですかね」


 チャリ、と鳴った手の中には鍵がある。盗みを働いたのかと見つめれば、彼は皮肉そうに笑いながら鍵を葵へ投げた。

 落とさないよう手を伸ばして掴み取ると、彼は葵を睨んだ。


「良いですよね、貴女は」

「……は、」

「そんなに自由に腕が動く。他に何処にも不調はないのに、貴女は死にたいと言う」


 月が顔を出し彼に光を差し込ませた。改めて見ると、今までとは変わって患者服を着ていることに気づく。

 やはり彼は、ここの入院患者だったのだ。


「貴女は家族を亡くした、ただそれだけだ。これから先何でも出来るというのに、貴女は全てをなげうって、あろう事か餓死を選んで死のうとしていた」

「……」

「くだらない。この世に絶望したくせに、幼稚な判断で死の道を歩いてる。そのことを耳にして僕は会いに行ったんです」

「……じゃあ、騒がれず病室に入れたのは」

「同じ階の、しかも隣部屋ですよ。深夜のナースステーションの目を盗んで入ることなんて砂場から砂を取るくらい簡単です」


 月を背後にこちらを睨み付ける彼はとても憎んだ表情をしていた。


「貴女は僕を死神と言いましたね。……あれは笑った。死神、良いじゃないですか。僕はずっと死にたかった。そんな僕が魂を奪う側になると? 自分が死ねないのなら、他人の命を奪ってやれと?」

「……そうじゃない。あれは本当に、私の勘違いで。貴方に死神になってくれと願ったわけじゃない」

「いいんですよもう。死神になれるなら死神になりたい。貴女に名付けられて気分が良くなっていた。死神として、貴女の命を奪い自分の命を絶とうと決めていたのに」


 彼はグッと歯を噛み締めて下を向く。

 そう、共謀者の葵が裏切り、生きたいと切に願って、大多数の人間からの褒票を得たのを思い出していた。


「……本当に、何故、僕だけがこんな目に合うんですか。自分の腕も、家族も、友人も、住み所も何もかも失って。見舞いに来る奴らは皆僕を見て殴りかかる。ざまぁみろと笑う。……生傷は絶えず、そんな奴らを病院が追い返せば、僕に会いに来る人は誰もいなくなった」

「……そんな」

「一時期同室の人がいました。その人は僕を見て慰めてくれた。元気を出してと、毎日のように声をかけてくれた。でも、突然病室から消えたんです。理由は、心の病。持病から鬱になり、別の病院へ移ることになったんです」


 その話を聞いて看護師の会話を思い出す。そこでは、彼が同室の人を誑かして障がいを持たせたと言っていた。


「……まさか、あの噂は嘘?」

「元々死にたがってた僕が横にいたことから、彼が消えたのは僕のせいだと噂が流れました。その噂は消えることなく膨大し、より一層僕の警備は強くなった」

「そんな、だって……じゃあ、まさか、貴方は何もしていないんじゃ」


 体を震わせて彼を見ると、彼はギッとこちらを睨みつけて叫ぶ。


「ッ何もしてないんですよ!! 俺は何もしてない! 何もしてないのに噂は広がり、誰も俺を見ずに評判だけで決めつける! ただ一つある『死にたがり』という事実を元に俺はどんどん孤立していって、誰も彼も皆俺を避けた!!」

「──!」

「死ねないんですよ、死にたくても死なせてくれないんですよ! 俺を孤立させる噂から守ってもくれないくせに、あいつら医者は俺を生きさせることが正義だと思いこんでる! 俺に近寄る誰かを信じれば、その誰かは最後には必ず裏切って俺から離れていく!! ……ッだから! 今回は同じ死にたがりを選んだのに……っ、葵さんだって、おれを裏切った……!」


 ボロボロと、涙を落としたのは葵だった。枯れない己の涙に呆れたが、彼を見て絶句する。

 彼は泣いていない。

 彼は泣けないのだ。

 自分とは比にならない程、彼は今までに泣きすぎたのだ。

 潤う自分とは逆に、全てを奪われ枯らした彼は、涙すらも流すことを許されずに目の前にいる。


「……ッ俺が! 何をしたって言うんですか!?」


 それでも苦しい心臓を握りしめて、絞り込んで流した涙を彼は地面に振りまいた。頬を伝う彼の涙は美しく、誰よりも綺麗に泣いている。


「どうして一緒に死んでくれないんですか、約束したじゃないですか……手を取ってくれたじゃないですか……! 一緒に死にましょうって……死にたいのかと聞けば、うん、って……貴女は答えたのに……!」


 グッと押し黙って彼の言葉を聞いた。

 何も言えない自分だから、せめてでも彼の言葉を聞いてあげようとする。

 けれど沈黙を続ける葵を見て、彼は自嘲するように笑った。きっと、葵にとってはどうでも良いことだと捉えたのだ。

 彼はこちらに背を向けて歩き出す。


「……ッ待って!!」


 耳を貸そうとしない彼は柵を乗り越えて、この屋上から飛び降りようとしてしまう。

 ダッと駆け出して呼び止める。しかし彼はこちらを振り向きもせず、トンッと軽快にその場を跳ねて────飛び降りた。



✳✳




 地を蹴る音と体が地面とぶつかる音、頭が柵にぶつかる金属音が鳴り響く。


「…っ……く……ッ」


 葵は落ちた彼の腕を掴んでいる。

 片腕にかかる重量は重く、けれど男性にしては軽すぎる重さに二つの意味で眉を顰めた。


「……離してください」

「っ嫌に、決まってるでしょ……!」

「どうしてですか。殺人犯になるかもしれないから? それなら病院から僕が死にたがってたって証言が出るから大丈──」

「っおしゃべりがしたい!!」

「……え」


 吊りそうになる腕に、緩めて堪るかという思いで力を込め続ける。柵にゴツリと額を押し当て彼の姿を視界に入れた。

 彼は、驚いたように目を丸くし、こちらを見上げていた。


「っ貴方と、もっとおしゃべりがしたい……! 何でもいい、好きなこと、嫌いなこと、というかまず、名前から教えてもらうから……!」

「……好きなことは出来なくなりました。嫌いなことは数え切れないほどあるので教えられません。名前は──」

「っ馬鹿か! 今言ってもおしゃべりじゃないでしょ!? 私はもっとスローライフを送りたいの! ゆったりとした生活を送りたいの!!」


 辛く息を上げれば、彼は葵の発言を鼻で笑い、馬鹿にするように声を出す。


「生きたいと願えられた貴女になら出来るんじゃないですか? おしゃべりがしたいのなら、別の人と喋ってください。貴女の友人でも、新しく出来るであろう恋人とでも」

「私は貴方がいいって言ってるのが分からない!? 言っとくけど、私が生きたいと思うようになったキッカケは貴方だからね! 貴方がいなきゃ、私は今頃あの病室で点滴受けてるわ!!」


 辛くて下など見れなくなったが、今の発言に彼が揺らいだ事が感じ取れた。


「先生は、貴方とも話がしたいって。元気になった姿を見て、笑って会話をしたいって。この先、無限大の可能性を持って世界を見て、色んな物や、関係を作り出すのを待ってるの……!」


 しかし葵の言葉を皮切りに、ふるふると怒りを抑えきれずに叫び出す。


「……、……だから、……っだから何だって言うんだ!! 元気になったから何だ!? 俺はもう二度と音楽を作り出せない! 腕が動かなきゃ何を作り出すも無理なんですよ!!」

「なら私が貴方の腕になってやる!!」


 勢いで叫べば、彼の息が詰まる。

 うつ伏せの状態で腕を掴んでいるものだから胸も圧迫され、息苦しくもなってきた。

 それでもこの腕だけは離してはいけない。


「腕が動かないなら、私が腕になってやる。見舞いに来てくれる友人がいないなら、私が友人になって見舞いに行ってやる。住む所が無くなったなら私の家に来ればいい。貴方に家族がいないなら、私の家族になればいい! 私だって、家族がいなくなったんだ!!」

「──っ」

「私が側にいるから、私はもう、貴方を裏切らないから……! 私が、噂から守ってあげるから……っだから!」


 突然後ろからドアが開く音が聞こえた。医者や看護師たちが慌ただしく駆け寄る。看護師に離れるよう肩を抱かれたが、その手を振り払い、救出された彼の元に駆け寄る。

 ちゃんと息をしていることに安堵し、無事な様子を確認して、ぎゅうと抱きついた。


「……あ、おい、さ…」

「責任取って」

「……え」


 腕の中で感じる温もりに、生を感じる。

 彼がどう感じているのかは分からない。葵はただ自分の想いをぶつけた。


「貴方は私を生かしたの。私は貴方に生かされたの。お願いだから、一人にしないで」


 彼の手が背中に回ったのを感じた。

 これが彼なりの答えだろう。

 離し難いと強く抱きしめて、喉を震わせてまた泣き始める。


「……葵さん、僕の名前だけど…」

「知ってる。さっき見たもの」


 呼んでほしいのかと問いかければ、彼は俯く。葵は微笑んで彼から身を離すと、小首を傾げて可愛らしく告げる。


「これからもよろしくね──夏目春斗くん」

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