死んだ人と話せる魔法の電話

@puroa

天国への切符

 死んだ人と話せる魔法の電話が在るらしい。そんなものを今さら使って何になるのか、私には分からないけど。


 コツン、コツンと、廊下に足音が響く。物がまったく置かれていない廊下は暗闇に包まれていて薄気味悪い。名は体を表すと言うが、こんなところに表れなくてもいいと思う。

 そんな薄気味悪い廊下に、向かって足音は進んでいく。背後に広がる明るい待合室から伸びる、止まることのない影。かかとを踏んずけたローファーが闇のなかに一歩、一歩と足を踏み入れていく。


 途中、パシ、パシと植物の葉を篠突く、固い音が聞こえる。

 廊下のわきは中庭になっていて、ガラス越しに外の風景を透かしてくれる。まだお昼の十二時を過ぎたばかりなのに暗いのは、そういう理由だ。


「……花」


 ぼんやりと庭を見ていると、その中心に花が咲いているのが見えた。他の植物たちと同じように雨に打たれるのは変わらない。けれどそれが、雨の中でも必死に生き抜く自然の強さの表れともいえる。


「あなたは、ちがう」


 足音の主が唇を震わせた。吐息に混じって絞り出された声は、降り積もった雪の中を進む沢のように寒々としている。


「……」


 庭の花や草木を見つめるだけの無為な時間を過ごしていく。ガラスに吸い付くように触れる手が、小指と薬指を触れたままの形で停止する。


 時計の針がどれほど動いたかもわからない。


 その時になってようやく、足元の花に気付いた。半分枯れた花びらは、彼女のつま先の数センチ先をアルミサッシの向こうで泥のように醜く横たわっている。


「…………」


 中庭を見つめていた少女は口を開く。


「――いいな」


 誰も居ない暗闇。吐息と雨の音だけが聞こえる、照明の灯らない廊下で、少女は確かにそう呟いた。

 その声を聞く者は、誰も居なかった。




 ***




「ん~。こっちとしても、出来る事はしてあげたいんだけどねぇ」


 数刻前。窓を見つめていたのと同一人物である少女、三河遥に、白衣を纏った男がそうボヤく。痩せっぽちで目元の浮き出た、いかにも冴えない中年の男。

 彼は、促されるままに目の前の丸椅子に座った遥に、貼りついたようなうすら笑いを浮かべている。ずっと見ていると、この男が医者であることさえ疑わしくなってくるようだ。


 いずれにせよ、気の遠くなるほど待合室で待たされたのに、思うような反応が得られなかったのは確かである。


「……でも、親が居ないのは確かでっ!」

「あぁ聞いた。さっき聞いたよ。お母さんを病気で亡くして、父は失踪……だから本人は、不登校になってバイト生活ってね」


 幾度目かの遥の訴えに、医者も同じ数だけ首を横に振る。以前も似たような鼬ごっこを経て、病院をたらいまわしにされてきた、その光景はいつも似通っていて。

 商売でもある医者が、患者である少女に口を噤む理由は簡単。ただ、お金がないのである。遥は今、心臓にとても難しい病気を患っていたのだ。年老いた人たちもなることは少ない、珍しい病気。

 その事実を裏付けるように、病気を治す手術にも莫大な金額がかかるのだ。当然、両親の居らず、バイトで生活費を稼ぐ遥に払える額ではない。そんなことは、遥本人にもよく分かっている。


 だが、お金が無くて、それでも助けてほしい。だって、彼女の中に巣食う病気は――


「それも、本当かな」

「え?」


 物思いに耽る少女に、不意を突くように話を続ける医者。その声がどこか震えたような気がしたのを、彼女は聞き逃すことが出来ない。

 唐突に言葉を返す痩せた中年の薄ら笑いに、少女も思わず聞き返した。


「たまに居るんだよ。医療費の給付だけ貰ってそのまま行方をくらます馬鹿が。死んだ母親と同じ病気なんて、そうそうあったもんじゃないよ……親だって、失踪とかしても連絡くらい取れるもんだよ」


 確かに、彼女の病気は母親譲りものではない。性病や公害病などでもないし、血液感染のタイミングなども心当たりがない。

 本当に偶然、母親と同じ病気に娘も掛かったのだ。少女の裏には特に下心も、本当に何の因果関係もなく、ただただ偶然。

 目の前の医者には、それが信じられないみたいだが。


「今の世の中、完全に身元を隠すってのはかなり難しいの。どうしてもって言うなら、まず役場に行って証明なり支援なり取ってきてから来院してもらわないと」


 酒の席で話すような軽い口調に、この医者は胸が痛くならないのだろうか。


 少女は心臓の辺りを手で押さえる。


 母親を死に追いやったのと同じ病気。

 母親が死んだのと同じ理由で、彼女は手術を受けられない。


 ――そのやりとりから数刻後、いまの遥は暗い廊下に立っていた。


 そのまま少し行って角を曲がり、突き当りにあった階段を下りていく。コツン、コツンという足音がより固く、高く澄んだものに変わって、遥の女性らしい長い髪が上下に揺れうつろう。


 まだ、診察料さえ払っていないのに何処へ行こうというのか。彼女の瞳の中で、ぼんやりとした暗闇が非常口の緑色の光を写し出す。

 その脇には誰もが見慣れた、公衆電話のボックス。


『この病院には、死んだ人と話せる魔法の電話が在るらしい――』


 診察を終えた遥が頭を抱えていると、誰かがそう言っていたのが聞こえたのだ。仕事中の看護師の世間話だろうか。

 気のせいだったのかもしれない。信憑性なんて無いに等しい。それでも、行くアテのない遥は、そんなものにでも縋るしかなかったのだ。

 人は繋がりが無ければ生きていけない。生きた意味がない。誰かに覚えていてもらわなければ、誰も知らないところで孤独に死ぬのは嫌だ。

 けれど、遥を見てくれる人なんて、もうこの世にはいなかった。


 ただ願うのなら。

 十代後半にもなって、そんなことが許されるのなら。そんな保守的な言い訳を並べながらも、遥は切に願った。


 自分のお母さんに、もう一度褒めてほしかったから。




 ***




「懐かしいな……意外と、憶えてるもんだ」


 公衆電話の文字盤に指を置くと、遥の指は滑らかに滑り始める。


 ガラスに囲まれた空間で、唇の隙間から漏れた独白が妙に反響する。そんな些細な事にでも信憑性を感じずにはいられないとするならば、それはポジティブと呼べるだろうか。


 こんなにも弾んだ声は、久方ぶりに出した気がする。そんな感動とともに重ねて奏でられる、ボタンを押したときの無機質な音。トー、トー、トー、と無機質な音の渇きに、遥の幸せを残さず吸い取っていく。


「たはは、そんな上手くいくわけないよね……」


 コール音に、遥は思わず押し黙った。


 プルルルルという音が三度なった後、ブツリと音がして途切れる。やはり噂は、噂でしかなかったらしい。そりゃそうだ。死んだ人と話せる電話なんて、そんなものがこの世に存在するはずがないじゃないか。


「……お母さん?」


 その後に通話が途切れた音がしないことに気付いて、受話器に向かって恐る恐る聞いてみる。本当に電話が消えているのなら、つー、つーと音が聞こえてくるはずだと思ったから。

 その答えは、思ったよりも早く帰ってきた。


『――はるか? 遥なの?』


 母親の声だった。


 公衆電話は、その人本来の声ではないらしい。幾つかのパターンから最も近いものが自動で判別されて、相手の下へ翻訳されて届く。友人との電話での声に違和感があるのはその為だ。


 だけど今の遥には、その声が本物であるとしか思えない。幼い日に毎日お見舞いに行き続け、扉を開けるたびに笑ってくれたあの声。あの日年端もいかなかった遥を、懸命に守り続けた強い母親。


「会いたかった……っ! 最期にもう一度、話がしたくて……」


 聞き間違えるはずがない。だって私は、この人の娘だ。ちょっと声を聴くのが久しぶりだからって、そんなことは絶対にない。

 だから、“最期” という言葉が漏れてしまった。

 そうだ、目的を見失ってはいけない。遥は、母に保険の類が残っていないかを聞きに来たのである。


『最後って……そんなに気負わなくたっていいのよ? お母さんのことは、あんまり気にしないで。あなたには、まだこれから先の人生も在るんだから』


 そこまで聞いて、あ……と声が出そうになったのを必死に押さえた。どうして今まで気づかなかったのか。遥自身が小さいときに死んだ母親が、遥の病気のことなど知るはずがないではないか。

 そして言えない。娘ともう一度話せて、娘でさえ呆れるほど喜んでいる母親に、その娘が自身の死因になった病魔に侵されているなどと、どうして言えるだろう。


『お母さんね、今地獄にいるのよ。娘にあれだけ苦労を掛けたんだから当然だけどね。こっちにはちゃんとした時計が無いから、あれからどれだけ時間が経ったのか、よく分からないけど……ちゃんと行けてたら、高校生くらいかしら』


 こっち側には、お父さんはいないけどねと、付け加えていた。どうやら私と母を見捨てた父は天国へ行ったようである。

 一瞬、父に代わってもらおうか考えもしたが、いないのならそれもできない。この時点で、遥の運命など決まったようなものだ。


「……行けてるよ。行ってる。私、ちゃんと高校生になれたの」


 嘘だ。本当は中学を卒業してから、学校になんて行ってない。ずっとバイトばかりしてきたから、そんな暇なんて無かった。

 性病が怖いから身体を売ることも出来ず、女でも肉体労働をするしかない。そう言う現場は男にばかり囲まれることになるし、病気なのに体力ばかり削られていって、遥の身体はもうボロボロだった。


『彼氏も出来た? 遊びはいいけど、ちゃんと考えないと駄目よ。お母さん、そう言うの見る目なかったから、あんまり言うのもあれだけど……』


「うん。彼氏も出来たよ。最高の彼氏も、友達も……!」


 嘘だ。本当は高校にも行っていないから、友達も彼氏もできるはずがない。携帯が無ければハブられてしまうのが今の若者で。貯金をはたいてやっとの思いで買う頃には、もう誰も遥の周りには居なくなってた。

 元々スマホを持っておらず、繋がりが乏しかった遥は、卒業後には友人とのつながりはなくなっていた。

 せっかく買った中古のボロッちいスマホには、バイト先のおじさん達から夥しい数の 『今夜会えない?』 との旨のメッセージたち。


「お母さん。私、一番大切なものに気付いたよ。今までの人生で、お母さんと過ごしてきた時間が一番幸せだった。一番恵まれてた! だから安心して。地獄なんて早く出て、生まれ変わって新しい人生を送って。最高の人と巡り合ってね」


 だけど。もし運命が決まっていたとしても、遥は誰かに覚えていてもらえることがうれしかった。この世とあの世の間に横たわるだけの、無意味な繋がりだったとしても。

 私の人生に意味はあったんだと世界に叫んでやりたかった。遥は間違いなく、いま地球上で一番幸せな少女だ。


「お、おう……そっか、嬉しいこと言ってくれるね。さすが私の娘だ」


 娘に気圧されたように母親は照れた。

 だけど、と言葉を挟んで、次の言葉を告げてくれる。


「たとえこの先、あなたがどんな選択をしても……私はあなたの味方だからね」


 声が出なかった。

 遥が母親の声を聞いて、お母さんだと間違えなかったように。母親もまた、娘の声で嘘だと分かるのだろうか。それでも娘の背中を押した。

 もしも現実で、この世で、この親子がもう少し長く親子でいられたら、変わっていた未来だってあるのだろう。

 愛情を育む途中で解れた未来は、娘の輝きによって結実する。


「わたし……お医者さんになりたいよ」


 それが、遥の答え。


 この瞬間に遥は、自身の唯一生きた意味、天国への切符を破り捨てた。その果てにあるのは、母親の居る地獄に落ちる道。

 後悔はない。絶望ならたくさんあるけど、そんなものは親子の絆で全部振り払ってきた。人生最後の日が来るまで、彼女が希望を失うことはないだろう。


「どんな人の悩みでも聞いてあげて、どんな病気も簡単に治しちゃう凄いお医者さんになるから! どんなに辛くても、一杯勉強するから‼ だから、だから……」


 ……ガチョン。ツ――。ツ――。ツ――――。


 最後の一言を言い終わる前に、公衆電話のコインの時間が切れた。この音が、幽世へと誘われそうになった人々を、現実へと引き戻す合図か。

 夢見心地である彼女が今どちらにいるのかは、彼女自身にもよく分からないが。


 確実なことは、あの医者は天国へ行けるだろう。

 遥は地獄へ行くことになる。たとえ地獄に落ちたとしても、彼女はこの一本の電話を後悔する事はない。


 それだけは絶対にあり得ないのだ。

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