拝啓、転生者さま

@Shirohinagic

一日目

『目覚め』




 私が死んだのは新宿の雑居ビルの足元。

 故あって絶対に人に見つからない時間帯を選んでその屋上に赴き、私はそして、踏み出してはいけない外へと全身を投げ出した。


 地上までの数秒間、噂には聞いていたけど、それは果てしないほど永く感じられ、まだかまだかといくらじっとしていても思考が途切れず、予測された痛みも衝撃波も訪れないのをついに不審に思って、薄く瞼を持ち上げ、覗くように目を開けると、そこはすでに東京の、灰色にくすみ、慣れ親しんだ風景や夜景や空の途中などではなく。

 気付くと私は、見知らぬ大樹の洞で寝そべっているのでした。

 地べたはあまつゆの滴る芝生のようで、決して温かくはない。むしろ肌に張り付くような冷たさと硬さがひどく不快に思えて起き上がると、冷気を感じさせていたのがあまつゆではない、ただの石畳であったことに気付きました。

 寒かった。

 そこは木の枝葉や蔓や埃に侵略され尽くした祭壇のような造りをしていて、薄暗く、私はまとまった考えも覚束ないまま、とにもかくにも光を求めて彷徨うことにしました。

 そういえば、身体はひどく、月並みに言えば鉛のように重たく感じられたのですが、仮にも死んだのなら全身を強く打ったはずだろうに、それにしては傷も何もなく、あるのはその怠さくらいのもので、幸いにも私は目覚めてすぐに立ち上がり、歩き回ることさえできたのでした。

 それから、感覚にして数時間も歩いた頃でしょうか。

 ようやく木々に覆われてできた空洞の、出口らしきものから光が満ちてくるのが見えて、心からホッとしたのをよく覚えています。

 私はすると、それまでの疲労感も身体の重さも忘れて、飛び出しました。

 森から抜け出すと、その先は実に幻想的……いえ、超自然的な世界が広がっていました。

 私の目の前には広く、真っ青な空と、足元には青々と風にそよぐばかりの草原が、見渡す限りどこまでも、どこまでも続いていたのです。

 私は我知らず、歓声をあげていました。

 こんな景色、生前にだって見たことがなかった。

 しかし、こうして目の当たりにしているからには、こんな世界もどこかにはあったのだ。

 そして私は選ばれた。いわゆる転生という言葉と発想がこの時になってようやく現実味を帯びてきて、私はそのことが嬉しくて、たまらず、次の瞬間にはもう子供のようにその丘を駆け出していました。

「わぁ……ははっ……うそでしょ……しんじられない……」

 私はうわごとのように繰り返しながら、丘をあがり、澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込みながら、どこまでも続く大地を踏み締め、その実感に溺れました。

 そして足が疲れると、どこともなくその場に立ち止まり、寝そべって、まばらに白い雲の浮いた広大な空を見上げたのです。

 しかしこれは生前の記憶にもある。

 まるで途方もなく巨大なドームの天井を見上げるような心地。

 道のど真ん中で、首を方向感覚を失うくらい真上に傾げてみて、空に手をかざしてみて。

 この腕の、ずっとずっと先には果てしない宇宙が広がっているはずなのにそんな影はちっとも見えず、望遠に白く薄く映える月だけがかろうじて別世界の足跡を覗かせてくるだけで、猿の手にはいつまで経っても届かない、私の手はこの生涯をもってもきっと届くことがないのだと悟った時のわずかな虚無感と寂寥感の一方、それだけに世界の広さを茫漠ながら少しでも想像でき、それで真理に近づけたかのような胸の静かな高鳴りが、この時の私のうちに一息に思い起こされ、鮮やかに甦ってくるのでした。

 私は久方ぶりに笑っていました。

 真理を突き破って、私はここにいる。

 届かないと思われたまるで別の惑星に。

 なんて素敵なこと。

 こんな素敵なことが本当に……本当に、私の身に起こるなんて。

 魔法、なんてものが使えたりするのかしら。

 私はふと上体を起こして、空に掲げていた腕を胸の真正面に持ってきてみました。

 けれども、何も起こらない。

 死んだはずが、こんな色鮮やかな香りと色の世界に来れた。そのこと自体がすでに奇跡で魔法以外の何物でもありません。だから、魔法が使えないことくらいが何だというのか。

 拍子抜けしなかったというと嘘になりますが、私は本当に心からそう思って、ただただこの世界に来れたことの有り難みを噛み締めていたし、とある変異が私の注意をすでに逸らしていました。

 気付くと、隣に何やら赤くて丸い光沢のある物体が近寄ってきていたのです。





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