【短編小説】最後の願い

@umitachibana

最後の願い

「私、もう死んじゃおうと思って」

 曲の途切れたカラオケボックスの中、唯の声が静かに響いた。いつもよりワントーン低い声。会ったときからなんとなくいつもと様子が違った、その理由がこの言葉だと理解するのに時間はかからなかった。

 検索機を叩く手が止まる。やけに大きく聞こえる隣の部屋の歌声を聞きながら、どんな言葉を返すべきか思案する。だが突然のことに戸惑う私のちっぽけな脳みそじゃ、気の利いた言葉は出てこない。

「冗談、やめてよ」

「冗談じゃないんだな、これが」

「カラオケで言うセリフじゃないでしょ。いや、カラオケじゃなきゃいいって訳じゃなくて、そもそも卒業して数年ぶりに会ってそんなこと、もっと話すことあるし、いや聞くけど、でもなんで――」

「まぁ落ち着いてよ。そういうとこ変わらないね」

 そう言うと唯は私を見て笑った。顔をくしゃりと歪め、泣いているようにも見える特徴的な笑顔は、昔から変わらない唯のチャームポイントだと私は思っている。

 唯は中学時代の同級生で、高校、そして大学まで同じの長い付き合い。大学を卒業するまで数えきれないほど一緒に遊びに出かけ、お互いそうとは言わないが『親友』という関係なのかもしれない。不器用な私と器用でお転婆な唯、共通点は多くないけれど、一緒にいると居心地が良かった。

「それでさ、遥」唯が私の名前を呼んだ。「手伝ってほしいことがあるんだけど」

「嫌、手伝うわけないじゃん」

「最後まで聞いてよ。死ぬことを手伝ってほしいってわけじゃないからさ」

 そう言うと、唯は一冊のノートをカバンから取り出した。薄く安っぽいそのノートの表紙には、『未練』とだけ大きく書かれている。

「自分の終わりを考えたとき、やっておきたいこととか、経験したかったことってやっぱり少しはあってさ。それを書き出してリストにしたの。それを全部達成してから死のうかなって思って」

 唯はノートを一枚開き、私に向けた。そこには大きく『遥とまたカラオケフリータイムに行く』の文字と、達成したことを示すであろう丸印が書かれていた。

「でもさ、一人でできないこともあるじゃん。だから遥に手伝ってほしいなって。どう?」

 私は考えた。リストが全て達成されてしまえば唯が死んでしまう。手伝わない方が――いや、私がいなくとも、きっと唯は一人でリストを達成していき、やがて私の知らないところで死を迎えるだろう。どちらであっても死に向かってしまうのなら、唯の近くにいたい、一人にしたくない。そして一緒にいることさえできれば、生きる道へと彼女を引き戻せるかもしれない。

 しばらくの逡巡の後、私はできるだけ平静を装って声を絞り出した。

「わかった、手伝うよ」

「ありがとう。突然変なことお願いしてごめんね」

「いいの、大丈夫。だって私たち――」

 親友でしょ、と言いかけて止まった。まだ彼女の自殺を止める言葉さえ見つけられない私が、親友を名乗る資格はないんじゃないか。その言葉は彼女を助けてからだ。

「私たち、友達でしょ」

「うん、ありがとう」

 唯はいつもの笑顔を私に向けた。この笑顔の奥にどんな気持ちが込められているのだろう。またぐるぐると思考を巡らせてみるがそんなことがわかるはずもなく、唯にそれを直接聞く勇気もなかった。

 懐かしいイントロが流れ出し、ここがカラオケボックスだったことを思い出した。唯は立ち上がりマイクを口元にあてながら、私にもう一本のマイクを差し出した。

 

 *


「おーいらっしゃい、入って入って」

 玄関扉を開けた唯は、なんとも軽い口調で私を迎え入れた。アパートの小さな玄関に大きなキャリーケースをなんとか引き込み、少し息を整えて唯の顔を見る。昨日一睡もできなかった私とは対照的に、表情は明るい。

「これから五日間、お世話になります」

「まさか本当に休み取ってくるとはね、私は暇だからいいけど」

「有給休暇全然使わずに余ってたし、暇な時期だったからちょうどよかったよ」

 用意していた嘘を並べて笑って見せた。

 あのカラオケの後、私はすぐに会社に連絡して五日間の休みを取った。理由はもちろん、唯のリストを達成していくためだ。上司は繁忙期真っ只中の長期休暇に激怒していたけど、そんな些細なことは気にしないことにする。

 仕事をしながら休日や夜に唯と会うことも考えたけど、それはやめた。上手く言えないけど、人の人生を変えようというのに、そんな片手間じゃ不誠実な気がした。まずは五日間、唯と向き合う。その後のことはまた後で考えよう。

 唯に促されるまま、リビングの中央にある小さなローテーブルの脇に腰かける。部屋を見渡してみるとずいぶん物が少ない。殺風景で、同世代の女の子の家とは思えなかった。

「さて、早速だけど今日の行き先を発表しようかね」

 麦茶を注いだコップを二つテーブルに置いた後、唯は一冊の雑誌を床から拾い上げ顔の前に掲げた。それを見た瞬間私は思考が止まり、相当間抜けな顔をしていたと思う。それはコンビニエンスストアにも置いてあるような、よくある観光地ガイドブック。それ自体は珍しくもなんともない、唯がどこかに一緒に行こうと誘ってくることも予想していた。だが問題はその場所だ。

「どう、楽しそうじゃない?」

 唯は本の脇から顔を覗かせ、イタズラっぽく私を見た。やっと追い付いた私の思考は、僅かな言葉を発するので精一杯だった。

「それ、ここじゃん」 


 唯の住むN市は全国的に名の知れた観光地だ。海に近いこの街は海産物が有名で、観光街の中心にはそれを売りにした飲食店が立ち並ぶ。さらには硝子細工の工場、有名洋菓子店、歴史的要所までもがそれほど広くない観光街に密集し、世代や性別を問わずファンは多い。

「でもさ、住宅街と観光街が結構離れてて、N市に住んでるけど観光街には行ったことないって人が実は多いんだよ。私もその一人ってわけ」

 チーズケーキをもぐもぐと頬張りながら唯は言った。

 あの後タクシーで観光街に向かった私たちは、ガイドブックに載っていたおすすめコースの通り観光街を巡ることにした。いくつか掲載されていた中で私たちが選んだ『魅力体験コース』は、クルージング、硝子吹き、オルゴール作りなどを体験した後、この洋菓子店で名物のチーズケーキと紅茶を堪能するというプランだ。

「職場の同僚とかさ、『観光街に行ったら負け』とか言うんだよ。N市民は観光街に行かないものなんだって。私は本当は行きたかったのに、そんなこと言われたらなおさら行き辛くなっちゃってさ」

 だからと言って、死ぬ間際に家からたった三十分で着く観光地に行く必要があったのか、もっと特別な場所や楽しい場所があったんじゃないか。そんな言葉が喉を通りかけたが、それはチーズケーキと一緒に飲み込んだ。今目の前にいる唯は楽しそうだ、それで十分。

 私はガラス製のティーポットを持ち上げ、唯のティーカップを再び満たしていく。カップの中でくるくると舞う細かな茶葉を見つめながら、唯は静かに言った。

「ありがとう。死ぬ前に来れてよかった」

 ああ、来てしまった、この言葉だ。動揺を飲み込み、震えを必死で抑え込んで、静かにティーポットをテーブルに置いた。

 昨日唯の決意を聞いた後、私は必死に考えた。唯の気持ちに私はどう応えたらいいのだろう、死に向かっていく唯にどんな言葉をかけてあげるべきなんだろう、と。色々調べてみてわかったことは、死を決意した人に対して「死なないで」と繰り返すことは逆効果になりかねない、ということだ。気持ちの押し付けは時として、弱った心を否定し、傷つける刃になる。まずは相手の気持ちを真正面から受け止め、側にいて存在を肯定することが必要だ。

 ――と、言葉で言うのは簡単だが、実際こんなときなんて返したらいいのか私にはわからない。学生時代、こういう悩みはよく唯に相談していたのに、今はそれができないのがもどかしい。

「遥、聞いてる?」

 顔をあげると、唯は私の顔を見つめていた。さっき入れたはずの紅茶もいつの間にかまた空になっている。

「ごめん、考え事してた」

「もう、また自分の世界に入ってたでしょ。ケーキだけじゃ足りないから、このあと何か食べに行かないかって聞いたの。どう?」

「いいね、何食べる?」

「ううん、そうだな……またガイドブック見てみようか!」

 そう言って唯はまたガイドブックをテーブルに広げた。

 唯に死んでほしくない。唯との時間が楽しければ楽しいほどその思いは強くなっていく。それなのに、その思いを口にしてはいけないなんてあまりにも酷な話だ。身を乗りだしガイドブックを見つめるが、その内容は頭に全く入ってこない。唯の話に薄ぼんやりとした意識で相づちを打つのが精一杯だった。


 *


 二日目の夜、高級ホテルの最上階に私たちはいた。食器がぶつかる音だけが響く静かな店内では、素早く美しい所作でウェイターが動き回っている。一生来ることもないと思っていたこの場所で、私たちは今、フルコースのメインディッシュを待っている。

 やがて大きな皿を二つ持ったウェイターがこちらに向かってくるのが見えた。私たちに緊張が走り、自然と背筋がピンと伸びた。ウェイターは私たちのテーブルに到着すると、小さく、しかし丁寧に頭を下げた。

「こちら本日のメインディッシュ、『牛フィレ肉のステーキ、シャンピニオンソース、季節の香り野菜添え』でございます」

 皿がテーブルに置かれた瞬間、思わず息を飲んだ。普段見ることのない厚さの肉の塊が、名前すらわからないお洒落な野菜に囲まれている。しばし無言でそれを眺めた後、とりあえず気持ちを落ち着けるため高級らしい赤ワインを口に含んだ。

「食べ、ようか」

 唯の言葉に私は頷き、ナイフとフォークを手に取った。フォークを肉に当てれば僅かに肉汁が滲み、程よい弾力がフォークを押し返す。私はどのくらいの厚さで切るべきか悩み、思い切って厚めに切ることを決断してナイフを滑らせ、ピンク色の断面を眺めながら肉片を口に運んだ。瞬間、口の中に官能的なまでの旨味が広がる――美味しい、今まで食べた肉の中で間違いなく一番美味しい。それは間違いないのだが、それを表現するための言葉が出てこない。この美味しさを共有したいのに、自分の口下手が恨めしい。

 唯ならなんて表現するだろう。学生の時に遊びでやった食レポもとびきり上手だった、そんなことを思い出しながら唯に目を向ける。唯は神妙な面持ちで皿の上のステーキを見つめていた。

「美味しい。よくわからないけど美味しい。美味しすぎる」

 そう呟くと、唯は再び咀嚼を始め、ステーキを切り始めた。


「美味しかったね」

「美味しかった、この世にこんなに美味しいものがあるなんて知らなかった」

 食後のコーヒーを飲みながら、私たちはもう何度目かわからないやり取りをして笑い合った。やっと緊張も解けてきて、店内でかけられているジャズに耳を傾けながら、さわり心地のいい椅子に深く腰掛けくつろいでいた。

「ねえ見て、港まで見えるよ」

 そう言って、唯は夜景の広がる窓を指差した。もう外は真っ暗で、目を凝らしても私にはどこが陸でどこが海かさえもわからなかった。 

「本当? どこ?」

「ほら、あの光が一直線になってるところ。あそこってたしか有名な釣りスポットだよね」

 唯の言葉が終わってからもしばらく探し続け、やっと私はそれを見つけた。遠くに淡く輝く光の列。停泊している船の灯りだろうか、こんな時間にも灯りがついているんだな、そんなことをぼんやり考えていると、唯は小さく声を上げて私を見た。

「明日はさ、釣りに行ってみない?」

「釣り? いいけど、やったことあるの?」

「ない。でもまあ、今どきなんでも調べられるし何とかなるでしょ」

 唯が言うと本当に何とかなりそうな気がするから不思議だ。でももっと不思議なのは、釣りが唯のリストに入っていたことだな。今まで釣りに興味があるなんて聞いたことがない。そういえば――

「ねえ唯、リストって他に何があるの?」

「どうしたの急に」

「いやその、私も計画立てたりしたいし、単純に気になるし、何するか二人で考えた方が、ほら、なんていうか……」

「わかったわかった。でも、あのリストをどうやって達成していくかは私一人で決めたいの。ごめんね」

「じゃあ、私が休みのうちに全部終わりそう? それだけ教えてよ」

「うーん……」

 唯はやや目を伏せて黙ってしまった。踏み込みすぎたか、聞いてはいけないことだったか、そんな不安が今頃になって私を襲う。吐き気のようなものを唾で流し込み、テーブルの下で手を握りしめていると、唯はゆっくりと顔をあげた。

「それは遥次第かな」

 そう言って、唯はいつもの笑顔を私に向けた。


 *


「暇だね」

「うん」

「とりあえず巻いてみるか」

「うん」

 三日目の夕方、私たちは海に向かって釣糸を垂らしていた。私たちのちょうど真ん中に置かれたバケツに、魚は一匹も入っていない。

 今日は朝から釣りのための準備に奔走していた。近場のホームセンターで釣竿一式はもちろん、椅子やバケツ、帽子に長靴まで買い揃えて意気揚々と港にやってきたのだが、結果は無惨なものだった。

 たまに糸を巻いてまた投げてを繰り返し、気づけばもう四時間が経とうとしていた。

「やっぱりさ、餌が悪いんじゃない?」うっすらと輝く釣糸を見つめたまま私は言った。「作り物の餌じゃだめなのかも。生きてるやつ、あの、ミミズみたいな……」

「イソメね」

「そうそれ。海釣りならあれがいいってネットに書いてた」

「まぁねぇ……でもさ」

「でも?」

 唯はほんの少し顔を歪めた。

「あれ、触れなくない?」

 ……ごめん、私も無理だ。無言で釣糸を巻き取り、再び海に投げ込んだ。

 

 それから一時間ほどが経ったが、結局私達の釣竿には一匹の魚もかからなかった。なんの成果も得られなかった数時間ではあったが、海を眺めながら他愛もない話をするのはそれなりに面白かった気がする。少しだけ、釣りが好きな人の気持ちがわかった気がした。

 陽もずいぶん傾いてきて、肌寒い風が吹き始めていた。緩んだ頭でそろそろ帰る準備かなとぼんやり考えていた。

「三ヶ月くらい前にさ」

 唯は突然話し出した。私はそれまでの時間と同じように、喉を鳴らすだけの気の抜けた声を返した。

「N市で交通事故があったの、知ってる?」

「んー知らない」

「そんなに大きなニュースにはならなかったからなぁ。その事故でね、三歳の女の子、轢かれて死んじゃったんだ」

「三歳か、可哀想に……」 

「あれ、私がやったんだよね」

 息が止まる。頭が焼けるように熱く、心臓が激しく脈打つ。指先から血の気が引いていく。

 唯は大きく息を吸い、そして吐き出した。鈍い私はそこで初めて、唯の声が震えていることに気がついた。

「今くらいの時間で、真正面から夕日が差しててさ。鼻歌なんて歌いながら車走らせてたんだ。そしたら急に横から女の子が飛び出してきて、目があったけど間に合わなくて、ぶつかって、急いで車降りて、その子のお父さんとお母さんもすぐ、近くにいて、血が、それで救急車呼んで……」

 こんなに取り乱す唯を見るのは初めてかもしれない。いつも弁の立つ彼女が息をつまらせ、震える声でなんとか言葉を繋げている。

「その子の顔とか、体温とか、重さとか、感触とか、忘れられなくて。どうしても忘れられなくて。それを背負って生きていくのが、か、加害者の責任だなんて言うけどさ、そんなの無理だよ」

 私にはできない、唯は最後に消え入りそうな声で言った。

 何を言うべきなのか全くわからなかった。どうするのが正解なのか見当もつかなかった。だが不思議と私は冷静で、唯の言葉を聞きながら十年近く前のことを思い出していた。

 私達の間に置かれたバケツを後ろに動かし、唯のすぐ横に椅子を置いて座る。唯と私の肩がピタリとくっついた。

「前もあったよね、こんなこと」

 あの時は公園のベンチで、立場は今と逆だった。高校二年の頃、親と進路のことで対立し『私にはできない』と弱音を吐く私に、唯はすぐ隣でずっと寄り添ってくれていた。

 唯は何も言わないが、同じ日のことを思い出している。そんな不思議な確信があった。

「だから、大丈夫」

 私は小さく呟いた。だんだんと暗くなっていく海を眺めながら、私たちはそのまましばらく肩を寄せ合っていた。


 *


「玉ねぎいい感じになってきた。ジャガイモと人参どう?」

「切り終わったよ。それより唯、結構焦げてない?」

「いいの。ちょっと焦がしながら炒めるのがコツらしいのさ。よし、肉と他の野菜も入れちゃお」

 唯はまな板に乗っていた食材を乱雑に、豪快に鍋に入れていった。

 四日目の昼、お昼ご飯を食べ終わった私たちはすぐに別の調理に取り掛かっていた。今日の唯のやりたいことは『丸一日煮込んだカレーを作りたい』だ。何でも、玉ねぎ、ジャガイモ、人参、そしてお肉をそれぞれ同じ量鍋に入れ、形がなくなるまで煮込んで作るカレーなんだそうだ。当然、今作り始めても食べられるのは明日の昼以降ということになる。

「後はたまに混ぜながら二十四時間煮込んで、塩とカレー粉で味をつければ完成」

「なんか、簡単なのか難しいのかよくわからないね」

「時間はかかるけど手間はかからないって感じかな。あ、今夜は家で食べるよね。遥は今晩用のお米炊いてくれる?」

「わかった」

 すでに玉ねぎの焼けるいい匂いが部屋に充満していて、出来上がるカレーへの期待は膨らんでいく。これはご飯もたくさんあった方がいいかもしれない。明日食べる時にまた炊くべきか、今一度に炊いてしまうべきか数秒悩んだ後、炊飯器の容量を確かめるべく炊飯器の蓋にあるボタンを押し――開きかけた炊飯器の蓋を叩きつけるように閉めた。

「ねえ唯、最後に炊飯器使ったのいつ?」

 邪悪なものを封印するように両手で炊飯器の蓋を押さえながら、私は唯に問いかけた。

「あー、何ヶ月か前にお米炊いた、かな」

「最後使った後、洗った?」

「……わかんない」

 私はもう一度ゆっくりと炊飯器の蓋を開き、中を覗き込んだ。目を疑うその光景に若干の眩暈を感じながら、唯の顔を見た。

「初めて知ったんだけど、お米ってさ、放置すると緑色になるんだね」

「……捨てよう。そのまま炊飯器ごと捨ててしまおう」


「明日は何するか、決まってるの?」

 その晩、余り物で作ったパスタを食べながら唯に問いかけた。唯はフォークに巻いていたパスタを頬張ると、咀嚼しながら短く唸った。少し上に目線を動かし、何かを悩んでいるように見える。まだ明日のことは決まっていないようだ。

「決まってないならさ、炊飯器買いに行こうよ。なんかリスト達成のついででもいいからさ。最近の炊飯器ってご飯がめちゃくちゃ美味しく炊けるらしいよ、色々見てみようよ」

「いや、炊飯器はいらないかな」

 やっとパスタを飲み込んだ唯はあっさりと言い切った。

「なんで? 明日はともかく、ずっとパックのご飯だと不便だよ」

「そりゃそうだけどさぁ」

 唯が言い淀んでいるうちに、唯のフォークはくるくると大量のパスタを絡めていく。何を言いたいのか予想はできたが、気づかないふりをした。

「美味しいご飯が炊けると料理楽しくなるよ。まあちょっと洗うの面倒だけど、炊飯器でいろんな料理も作れるらしいし、節約にもなるし――」

「でも、死ぬまでにそんなに使わないからさ。いらないかな」

 また、現実が私の胸を突き刺した。

 もしかしたら唯はもう死なないつもりなんじゃないか、私と遊んでいて気が変わったんじゃないか、唯の笑顔を見る度によぎるそんな淡い期待は、一瞬にして崩れ去った。私はまだ、たった一人の親友を生かすことさえできずにいる。

 何もできない自分が憎い、唯がいなくなることが怖い、溢れた感情で心が押し潰されそうだった。もう取り繕う余裕は私になかった。

「リスト、どれくらい終わったの?」

「半分、かな」

「じゃあまだまだじゃん。私これからも休みの度にくるから、一緒に進めようよ。それでさ、それが終わったらまたやりたいことリスト作ってまた達成していこう」

「ねえ、遥」

「あ、お金のことは気にしないで。私が頑張るから、唯のためなら頑張れるから。二人分稼ぐくらい平気。ちょっと残業増えるかもしれないけど、待っててね」

「聞いて、ねえ」

「来年やりたいことリストとか今から作ろうよ。長期的に計画を立てなきゃ難しいことだってあるでしょ? そうだ、海外も行きたいよね、私ハワイって一回行ってみたかったんだよね」

「遥、もういいよ」

「よくない!」

 自分の声で耳がキンと痛む。その痛みが止むと、部屋は静かだった。

「よくないよ。私たち――」

 親友、だと思っていた。私の言葉なら届くと、私なら唯の決意を変えられると、そう思っていた。自惚れていた。彼女の人生を決める重要な位置にきっと私はいないのだ。

「ねえ死なないで、唯。いなくならないで。死んじゃだめ、絶対にだめ。私が側にいるから、唯も私の側にいて。ねえ、お願い」

 いつかこうなるとは思っていた。不器用な私がこの思いを隠し続けるなんてできるはずがないと、本当は最初からわかっていた。いつもそうだ、唯の優しさに甘えて私は何も考えずに言葉をぶつけてしまう。握りしめる両手に涙が落ちる。気づけば前が見えないほど、私の目には涙が溜まっていた。

 右腕で乱暴に涙を拭う。再び開けた視界には唯のいつもの笑顔が映っている。ねえ唯、笑ってるの? 泣いてるの? その笑顔の奥にはどんな気持ちが隠されているの?

 唯にとって私は何なのだろうか。唯は私に何をして欲しいのだろうか。何もわからず、何もできない私は、彼女が布団に入るまでただ泣くことしかできなかった。


 *


 五日目の朝、僅かな違和感で私は目を覚ました。

 外はうっすらと明るくなり始め、鳥の囀りが遠くで聞こえる。でもなんだか、いつもより部屋が静かだ。横になったまま、寝ぼけた頭でそんなことを考えていた。

 寝返りをうつと、布団が一部濡れていることに気がついた。並んで寝ている私と唯の間、お腹の横辺りに置いた左手がしっとりと濡れる。水とは思えない不思議な手触りで、私はそれが何か確かめるために左手を目の前に持ってきた。

 私の左手はべっとりと血に濡れていた。

 飛び起きて唯にかけられた布団を剥ぎ取る。お腹に深々と包丁が突き立てられた唯の姿がそこにあった。


 動けないままどれくらいの時間が経っただろう。あまりに大きすぎる事態に直面すると、何も考えることさえできなくなるのだと初めて知った。外はずいぶんと明るくなり、もしかしたら数時間は経っているのかもしれない。

 目を閉じ、ゆっくりと開く。何度も何度もそれを繰り返す。しかし目の前のこれは間違いなく現実で、いつまで経っても血は消えず、唯は穏やかな顔で横たわったままだ。

「半分残ってるって言ってたじゃん」

 まだ時間があるはずだった。少なくとももう一日、今日は一緒にいられるはずだった。昨日取り乱したことを謝りたかった、まだ話したいことはたくさんあった、これからのことをゆっくり話し合いたかった。でもそれはもう叶わない。

 彼女の枕元にはあのノートが無造作に置かれていた。カラオケの日以来どこかに片づけられ、私に見せることさえしなかったノート。見てはいけない気もしたが、こんなことになってしまった理由が知りたい一心で、私はそれを手に取った。

 表紙をめくるとカラオケの日に見せてくれたページ。その次に書いた願いは何だったんだろう、そんな気持ちで次のページをめくった。

「……何、これ」

 目を疑った。次のページも、その次のページも何も書いてはいなかった。ページを破いた跡はない、書いた文字を消した形跡はない、観光地巡りもフルコースも釣りも料理も、そこには書かれていなかった。

 訳がわからない、唯は一体何がしたかったんだ。何でカラオケに私を呼び、このノートを見せたんだ。戸惑いながらもページをめくり続け、やがて最後のページの裏面に手がかかった時、指先に凹凸を感じた。最後のページに何かが書かれている。

 ほんの少しだけ息を整え、ゆっくりと最後のページを見た。書いてあったのは、今まで唯から聞いたことのない願いだった。

「そう思ってるならさ、もっと早く言ってよ」

 書いてあった願いは、『親友に全力で引き留めてもらう』。そこには、達成したことを示す大きな丸印が描かれていた。

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