第4話

 久しぶりに様子を見に行こうと思って、友達だった子の家を訪ねた。呼び鈴を押しても音がしない。鍵もかかっていなかったので、勝手にドアを開けて中に踏み込む。前に来た時よりも腐臭が強い。

「あ、お姉さん」

 来てくれたの、と友達の弟が微笑む。先日私がアイスを買おうとしたところに乱入してきて、突然周囲の同情の的となり、最終的には私のなけなしの財布から捻出したアイスを食べて帰っていった彼である。彼の姉は、私と富豪の娘である友人と、三人で共通の友達だった。手先が不器用で冬には化け物のような編みぐるみを量産して、我々の悪夢に出演させる、大雑把でも気の良い愉快な友達だった。今その友達は、家の奥に閉じこもり、弟の世話を受けながら腐り落ちた体を蠢かせ、既に声帯を震わせることもない。

 お茶でも飲んでいきなよ、と弟は言う。狭いワンルームの賃貸だ。玄関から家の奥まで見通せる。友達だった肉塊は、部屋に差し込む夕日を避けて影のように壁に張り付いていた。腫れた皮膚が爆ぜたような、極限まで膨張した体、どこからともなく粘度を帯びた液体がぬらぬらと赤黒く肉を這い、床や壁を汚す。台所に立つ弟の物音を聞きながら、古めかしいちゃぶ台に頬杖をついて、そっと彼女に手を振った。彼女からは何の反応も認められない。目も鼻も腕も無いのだ。無理もない。知覚することが不可能なのである。

 部屋にこもった嫌な臭いが、繰り返す呼吸によって肺を循環し、私の臓腑も溶け出してしまいそうだ。 弟は無骨な形の湯飲みに緑茶を注いで、湯気の立つそれを差し出してきた。透き通った水面には茶柱が立つ。弟は愛嬌のある笑顔でもてなしてくれた。脈打つ赤黒い肉塊を前に、私達は喉を潤し、いくらか和やかな世間話を交わす。

 献身的と言うには一方的な、弟の愛情が、態度が、なぜだろう私には好ましいようには思えない。脈打つ赤黒い肉塊を前に、異様な空間が広がっていた。虫は眠りにでもついたのだろうか、やけに静かで音沙汰も無い。およそ人とは思えないそれに、弟は姉ちゃんと呼びかけている。

 早く殺せば良いのに。


 強い風が吹き荒れていた。ごうごうと大きな音が耳元でして、一本の木が風を受けて斜めに揺らされている。元は立派な大木だったろうに、無様に変形して奇妙な芸術作品のようにも見える。小高い丘にぽつんとその木だけが立っていた。近付いてみると、ベキベキと音を立てる幹に自然の脅威を感じさせられる。木は風に倒されないように、抗っているかのように見えた。命あるものの意思を想う。

 驚くほど静かに、目の前に林檎が落ちてきた。ごく自然に手を出せば、手の平の上に林檎が乗る。この木は林檎の木だったのだ。

(地震! 地震だっ、家が揺れたぞ!)

 すぐ近くから誰かの声がした。

 林檎は食べ物である。であるならば、食べなくてはならない。という当然のような使命感に駆られて、丸くつるつるとした赤い表面に歯を立てた。やけに軽い食感で、果実はほろほろと崩れる。訝しく思い、見てみると、林檎の中は空洞になっていた。黒い穴が歪に覗く。ズル、と音を立てて、虫の影が動いた。

(なんだ! なんなんだ! 俺のファーストキス奪いやがって、頭までかじられなくて良かったけどね)

 私は咄嗟に林檎を投げ捨てた。それは地面にぶつかって、軽くバウンドして止まる。

 そして声の出所がわかった。あの例の虫の声である。近いはずだ、声は自分の頭の中から聞こえていた。

 投げ出された林檎の断面から、虫が顔を出す。

(女、なんて、なんてことだろう)

 その時虫の感情が克明に伝わってきた。胸を裂くような、むしろ握り潰されるような。電撃のように激しく、雨風のように吹き荒び、冬の日の布団のように暖かだった。

 私は目を覚ます。まだ薄暗い天井を見たところ、日も昇っていない早朝のようだ。見覚えのある蛍光灯が垂れ下がる部屋、確かに私の部屋である。じっとりと寝汗をかいていた。胸より下の位置にずり落ちた、掛け布団を引き上げようと、身じろぎをした途端、酷い頭痛に気がついて顔をしかめる。まるで頭をきついベルトで締めているようだ。外してほしい。外してほしい! 今すぐにだ!

「おい、虫! 起きろ!」

 あまりの痛みに怒り心頭に発した。虫はか細い声で「あぁー」と返事をする。

「脳味噌に頭突っ込んで寝てたんだわ、俺」

 なーんか、懐かしい夢見たような気がする。と上機嫌そうな虫に、私の脳味噌が人としてどれだけ大事で、繊細で、だから借り暮らしのお前は、最大限感謝と謙虚な気持ちを持って丁重に扱うべきなのだということを、こんこんと話して聞かせた。

 彼の夢を見た。


 備蓄していた歯磨き粉がとうとう全て無くなった。新しく買うには金が惜しい。残り少ないこの財布の中身は、同じく残り少ないだろう人としての生活を、目一杯楽しむための娯楽品に全て費やしたい。だからといって、せっかく無事に生え残っている歯を蔑ろにしたいとも思わないのだ。私は端から折り曲げてぺちゃんこに使い切ったチューブを手で弄ぶ。洗面台の鏡に映る私は、前よりも少し目元が窪んだだろうか。砂嵐が走るように、かすれてきた記憶の中で、愉快な音楽と共に流れていた映像、子供向けアニメの不気味なキャラクターを思い出した。

 食器棚から少量の塩を取りだして、洗面台に戻り、代用して歯磨きをしてみた。傷口に塩を塗り込むとは書いて字の如くこのことか。因幡のウサギになったようだった。私は何も悪いことをしてないのに、いや頭は悪いが。縮んでいる脳味噌は、自分の歯列が健康だと認識していたようだが、まだ死んでいない痛覚が事実を思い出させてくれた。歯、何本か抜けてる。そりゃそうだ、手足が鈍重になっていくのに歯だけ生え揃ってたら逆にモンスターだろう。

「オハヨー! オハヨー!」

 ガサガサ、と脳裏で音がして、耳障りなけたたましい笑い声が私の頭から聞こえる。不愉快な朝だ。昨日も同じ朝だったような気がする。今日こそはやっぱり、塩よりは低刺激な歯磨き粉を買おうと思うのだ。

 ロロロ、と懐かしい音が玄関から聞こえた。馬鹿みたいに上擦った声で、「チョーカン! チョーカン!」と誰かが叫んでいる。「……チョーカン」虫が言った。朝刊?

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