崩落

日暮マルタ

第1話


 医薬品を開発していた会社から漏れ出た産業廃棄物によって、川は汚染された。その川に住んでいた魚達はこぞって変異を遂げ、少しでも変異体を口にした人々は数年の潜伏期を経て体を変容させていった。汚染物質自体も変異を重ね、ウイルス顔負けの凶悪性をもってして人類の文明を淘汰した。今も海を伝って、地球のいくつもの都市と国を崩壊へと導いている。

 私の頭には虫が一匹住み着いた。萎縮した脳味噌の隙間を縫って、時折カラカラと音を立てる。私は彼の姿を見たことは無いが、彼は私を一目見て、その時に並々ならぬ感情を抱いたのだ、と度々語る。彼は私の寝ている間に頭へ侵入してきた。それからもうしばらくの時間が経過している。


 偉大なる時間を崇める活動を日に数度繰り返す友人が、道の向こう側からちょうど私に向かって歩いてきた。私は安定しない眼球をぐらぐら、ごろごろと移動させて、焦点を合わせる。彼女が目の前に来たらしい時、誰が口を開くより先に頭の虫が声を出した。

「よう! 間抜け面ぁ」突拍子もない調子の声が明らかに私から聞こえた。

「違う、私じゃない。私が言ったんじゃない」

 腹話術で罵倒したかのような光景になってしまい、私は焦る。しかし、友人は能面のような顔で落ち着いて応対した。この街ではあまりにも美しすぎるその顔は、作り物の金属である。彼女は富豪の娘なので、腐り落ちる体を半ばサイボーグ化させて姿を保っている。弊害として極端に表情が乏しい。それに伴って、感情があるのか無いのか不明だ。

「わかってるよ。久しぶり、元気?」

「居心地が良いなぁ……」

「黙ってて! ……違う、虫に言ったんだ」

 本当だろうね? いや、わかってはいるつもりなんだが。彼女は歯切れ悪く喋る。虫はがさごそと忙しそうに物音を立てた。

「元気だよ。少し腕が外れそうだけど」

「それは大変だ。もし本当に外れたら、私の使わなくなった義手をあげようと思う」

 それは喜ばしいことで、と私が思ったと同時に、全く同じことを虫が囁いた。まさか知らない内に脳味噌を共有しているんじゃないだろうな。

「近々空が落ちてくるそうだ。ほらあの、ネジのずれた鉄板が見える? 青く塗られてあるけど、ただの板を吊ってるだけだからね。あそこの下、歩かない方が良い」

「ご丁寧にどーも! いいんだぜ。死んだみたいに生きてるんだ、いつ死んだって何も変わりゃしない」

 奔放な虫の声がした。彼女が私の不安定な眼球と真正面から目を合わせる。逃げ出したくなる、強い眼光。上等なインクが塗られている。

「お前もそう思うか?」

 答えを決めつけている感じを嗅ぎつけてしまった。虫の考えをまるっきり受け止めていない彼女の様子。なんだかちぐはぐだ。

「思う、いや思わない。ん? 何の話だった……ごめんね。脳が萎縮してるもんで」

 彼女は関節を動かして不格好な身じろぎをし、軽く目を伏せた。

「寂しいことだ」

(何様だ、てめえ!)

 頭の裏側でガンガン、鉄板を叩き割ろうとするかのような、激しいものがこみ上げてきて、飲み込む。私の中に怒りと同情(彼女の私に対する侮蔑、それと同等)とが混在し、勝ったのはなんと品性だった。体は崩れても心までは人間でありたい。だって例えば私が彼女なら、当然のように私も相手に義手を与えようとし、死の警告すらしてみせるだろう。

「今日のところは、お別れにしよう。パン屋に行きたくて」

「そうか。また調子の良い時にでも、昔話でもしようよ」

 過去の癖による奇妙な笑顔でそれに答え、手を振って別れた。別れてしばらくしてから、地面に唾を吐きかけた。良い友人だが。総合的には好きな人間なんだが。頭の虫が嬉しそうにはしゃいだ。


 前に一度、といっても最近。頭に虫がもう一匹、追加で入り込んだことがある。多分ピンクの色をした細いのだった。私はそれが先住民に叩き潰されて、床に落ちていたのを見た。寝ている間の出来事だったから、もっと静かに済ませられれば良かったのに、飛び起きて頭を抱える程の頭痛を伴った。そんなことはもうこりごりだ。今は耳栓をして寝ている。虫にとって私の頭は、非常に居心地が良いそうだ。

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