第1章2話 彼女の今と、過去と未来



 ニアージュが王都へ連れて来られてから半年と少し。

 春の日の光が暖かいあくる日、ニアージュは初めて自分の結婚相手だという元王太子、アドラシオン・エフォール公爵と、古ぼけた小さな教会で顔を合わせた。


 アドラシオンは、輝くばかりの美貌を備えた立派な青年である。

 が、しかし、その表情は露骨にふて腐れていた。

 ニアージュとの結婚が、大層ご不満であるらしい。


 自分ばかりが割を食い、望まぬ環境と状況に追いやられている――

 眼前にあるアドラシオンの顔からは、そういう甘ったれた自己憐憫の感情が透けて見えるようだった。


 ニアージュとて、望まぬ環境と状況に追いやられているのは同じだというのに。

 顔を合わせて早々、ニアージュの中にあるアドラシオンへの好感度は、ゼロ地点からマイナスに落ちた。


(元王族のくせになんなの? 幾ら望んでない結婚だからって、取り繕う事もできないとか。思ってた以上にしょうもない男だなぁ……。あー鬱陶しっ)


 ニアージュも思わず、うんざり顔でため息をついてしまう。

 途端に、ニアージュの表情を正面から見たアドラシオンが眉根を寄せ、立会人と共に並んでいるラトレイア侯爵は大きく顔をしかめたが、知った事ではなかった。


 そもそも、最初に嫌そうな顔をしたのはアドラシオンの方である。

 ニアージュばかりが責められる謂れはない。


(ていうか、この厳格そうな教会の司教の前で、怒鳴り声を上げられるもんならやってみろ。叱責されるのはあんた達の方よ)


 ニアージュは内心でそう吐き捨てた。

 それくらいしなければやっていられない。

 どいつもこいつも、ろくでもない男ばかりだ。


 なお、肝心の結婚式だが、執り行われる事はなかった。

 それどころか、両家の家族や縁者の顔合わせさえない。

 ただ、ラトレイア侯爵の要請に応じて派遣されてきた司教の眼前で、数名の立会人が見守る中、婚姻の為の書類にサインをするだけの、無味乾燥な契約の儀式。


 だが、ニアージュからして見れば都合がいい事だった。

 着たくもないウエディングドレスを着ずに済み、初対面の花婿とも口づけを交わさずに済んだのだから。

 万々歳である。


 何より、結婚相手のアドラシオンもまた、今回の結婚に嫌悪を覚えているらしい、という事実を自身の目で確認できた事が、ニアージュにとって今日一番の収穫となった。


 ニアージュは内心でほくそ笑む。

 自分ばかり不幸ヅラする鬱陶しい坊ちゃんだが、交渉の余地はありそうだ、と。




 婚姻証明書にサインを入れた後は、アドラシオンと一緒に、押し込められた馬車で街道を進む。

 アドラシオンが、エフォールの名と公爵位に付随する形で与えられ、今も生活している住居は、王都の郊外にある屋敷だそうだ。


 ガタゴト音を立てながら進む馬車の中、ニアージュはアドラシオンと向き合う恰好で座っている。

 一切、全く、微塵も会話がない、なんとも空気の悪い環境であるが、幸い今ニアージュの隣には、ラトレイア侯爵がニアージュに付けた専属の侍女、アナもいてくれているので、特に気まずいとは思わなかった。


 アナは栗色の髪と瞳を持つ可愛い系美少女で、ニアージュの2つ上の18歳。

 ニアージュにとって、ラトレイア侯爵家に来て以降、気の置けない唯一無二の友人となった相手である。


 いかにも物分かりの良さそうな、侍女然としたすまし顔で座っている彼女は元々孤児の身の上だからか、大変口が悪い。だが、それでいて気遣い屋で面倒見がよく、優しい性格でもあった。

 今の環境の中で、最も信頼している存在だと言っても過言ではない。


 もっとも、この国では男女共に16歳で成人と見做されるので、今現在のアナの事を美『少女』と表現するのは少々語弊があるのだが、そこはそれ。

 生まれた世界と環境の違いによるものなので、仕方がないとニアージュは思っている。


 今の所、大して役にも立っていないので、自分でもあまり気にしない事にしているが、実はニアージュは元日本人の転生者で、突然の病でコロッと逝くまでは、中堅どころの商社でOLをしていた。

 しかし前述の通り、前世の記憶があるからと言って、それが今世においてニアージュの人生を上向かせる役に立ったかと言われると、そうでもない。


 単なる平々凡々なOLだったニアージュが、生まれた時から持ち合わせていたのは、テレビやネット、雑誌を含めた書籍類から拾った、広く浅い中途半端な知識だけ。

 これと言って特出した才能も特技もない。

 自分で自覚のある取り柄といえば、学生時代に部活で培った、根性と根気くらいのものだ。


 一応、四則演算と人の話をスムーズに理解できるだけの、大人としての知能は多少の助けになってくれたが、そもそもそれも、あの気のいい村人達がいる場所で育てば、成長の過程で自然に身に付いた事だろう。

 それを思えば、やはり前世の記憶に大した意味があるようには思えない。


 どこかの物語に出てくるヒロインのように、前世から持ち越した知識や才能で身を立て、世界に変革をもたらすなど、ニアージュにとっては夢のまた夢なのであった。


(でも、いいお母さんや、色んな事を教えてくれる優しい人達には恵まれたから、おおよそプラスの人生って言ってもいいよね。多分、ここから先の人生がまた上向くかどうかは、私の努力と運次第になる……のかな)


 頭の中で色々考えているうち、なんか疲れたし、屋敷に着くまで眠って時間を潰そうか、と思い立ったニアージュは、アドラシオンを放置してとっとと寝入りの体勢に入る。

 様子からして多分、アナも既に半分寝入っているのだろうし、問題なかろう。


「おい」


 だがそこに、不機嫌を隠そうともしないアドラシオンが声をかけてきた。

 なんて間の悪い男だ。

 ついつい舌打ちしたくなるのを堪え、ニアージュは閉じた目を再び開けた。


「……なんですか。苦情なら聞きませんよ」


「いいや、今のうちに言わせてもらう! 俺はお前と夫婦になどならんからな!

 お前を愛するつもりもなければ、妻として扱うつもりもない! その事をよくよく弁えておけ!」


「え? あぁ、はいはい。分かってます。ていうか、私もハナッからそのつもりなので、ご心配なく」


「――は?」


 なんの気持ちもこもっていない口調で答え、ヒラヒラ手を振るニアージュに、アドラシオンは思い切り面食らい、絶句した。

 ほんの数秒、馬車の中が静まり返る。


「……ふ、ふん。わ、分かっているのならいい! 今後も俺からの愛など求めるなよ! それと、初めに言っておくが、我が屋敷の中で好き放題に振る舞ったり、下らぬ散財などしようものなら――」


「だから、分かってますって。しつこいですよ。どこからどこら辺までが好き放題な振る舞いで、どの程度の金額が散財に当たるのかは、後できちんと話し合って齟齬が出ないようにしましょう。あと、先々のトラブルを防ぐ為、契約書を作って残すのも、忘れないようにしなければいけませんね。

 ――で? 話はそれだけですか? それだけならちょっとひと眠りしたいんで、放っておいてくれません?」


「……えっ? あ、ああ……。わ、分かった……」


 ついさっきまでの勢いと剣幕はどこへやら。

 寝入りばなを邪魔された事が不愉快で、ついつい睨みながらそう言うと、迷惑がっている事が伝わったのか、アドラシオンは気まずそうに視線をさまよわせながら、短くそう答えた。


 これにはニアージュも思わず内心で、(チョロッ。ていうか弱ッ)と呆れ交じりにうそぶいてしまった。

 しかし、これまた大変都合がいい。

 実に扱いやすそうだ。とても助かる。


「ご理解頂けて幸いです。――ああ、言い忘れていました。私達は今後、典型的な仮面夫婦になる訳ですし、いざという時ボロが出ないよう、必要最低限の交流だけは持ちましょうね。

 私を相手にする時間も、浪費のように思えて不快かも知れませんが、そこは人生の必要経費と割り切って下さい。人生、好きな事や楽な事ばかりじゃありませんから。

 そういう訳で、白い結婚が成立するまでの3年間、ほどほどの距離感でよしなにお願いします。……ふあぁ……」


 ニアージュは言いたい事をつらつらと述べると、小さく欠伸をして再び目を閉じる。

 アドラシオンは、形だけの妻から想定外の言葉を返され、想定外の扱いを受けた事に、ただ呆然とするばかりだった。

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