【未来の雪奈】


 場所は変わらず、春斗と雪奈が同棲していた木造アパートの前。

 夜の暗闇に包まれたその場所で一人、涙を流す雪奈。

 

 あったかもしれない未来。

 想像してしまった未来。

 そして……これから訪れるかもしれない未来。


 考えれば考えるほど雪奈の心は何か黒いものに押しつぶされそうになる。

 

 ――乗り越えたのに……せっかく……せっかくハルと一緒になれたのに……もう一度なんて……。


 耐えきれずにしゃがみ込む雪奈。

 立つことすらままならなかった。


 本来であれば人は一度経験したものを、もう一度やり直す事などできない。

 当たり前だが、時間という概念が絶対的に存在しているから。

 過去、現在、そして未来。

 この中で唯一変えられないものが過去なのだ。

 過去は決まって不変なモノ。


 しかし、時を遡った人物――春斗と雪奈においては過去を変えることができる。

 そう……時を遡った二人ならば……。


 高校時代、春斗と雪奈の関係は軽微なものだった。

 会って話すこともなければ、手を伸ばし触れ合うことも無かった。

 夫婦でもなければ、友人ですらない。ただのクラスメイトだった二人。

 後に春斗と恋人になり、結婚し夫婦になった。


 それが雪奈にとっての確定している過去だ。

 しかし過去が不変では無くなった今、二人が辿った道筋を同じように歩む事ができるだろうか?

 もしかしたら、この先の未来……春斗と結婚する事ができないかもしれない。

 そんな未来が待ち受けているとするならば……。


 目の前が真っ暗になる。

 全身の力が抜け、まるで気を失ったかのような感覚すら覚える。

 意識を手放すのも時間の問題だった。


 そんな時……。

 ふと、声が聞こえてきた。


「大丈夫?」


 その声はどこか聞き馴染みのあるような……。

 それでいて、面と向かって聞いたことのない……そんな声だった。


 雪奈は不思議と軽くなった体をそのままに、俯いていた顔を上げる。

 するとそこには、何度も鏡で見た未来の自分の姿がそこにはあった。


 夢か幻か。

 そもそもこれが現実かどうかも分からない。

 ただ分かるのは、未来の姿の自分が話しかけてきたという事だけだった。


「何を泣いているの?」


 未来の姿をした雪奈は優しげな声でそう聞いてくる。


「…………」


 あまりに突然の事で声を失う雪奈。

 すると、ニコっとした笑みを浮かべた未来の雪奈は、まるで自己紹介をするように言葉を紡ぎ始めた。


「私の名前は谷口雪奈。河野春斗君と再会できなかった貴方だよ」

「……え?」


 未来の自分の言葉に対して目を見開く雪奈。

 言っている事が理解できなかった。


「うん。そうだよね。そういう反応になるよね。でもね、もし貴方が……過去の貴方が河野君と同窓会で再会しなければ、高野雪奈は谷口涼介と結婚してたんだよ」

「……ありえない。だって……私はハルと……」


 雪奈は自分が歩んできた過去を思い返す。

 高校時代こそ関わりは無かったが、同窓会で再会した事。その後交際に至り結婚したこと。

 まるで昨日の事のように思い出す事ができた。

 

 しかし、目の前にいる谷口雪奈と名乗った未来の自分はふふっと小さく笑うと、パニックを起こしている雪奈に対して先程と変わらない様子で語りかけてくる。


「そうだね。貴方が時を遡る前は確かに河野雪奈だった。でも……今は?」

「……今?」

「うん。河野雪奈は春斗君と結婚した。それは変わりようのない事実。それは貴方自身が経験してきた過去が証明してるよね。でもさ、今の貴方は河野雪奈なのかな? 違うよね?」


 そう言った未来の姿をした雪奈は、涙で目が腫れている雪奈の目を真正面から見る。


「今の貴方は高校二年生の高野雪奈。春斗君と結婚もしてなければ、これから先の未来、様々な可能性がある立場にあるんだよ。その中には涼介と結婚する未来もあるし……なんなら誰とも結婚しない未来もある」

「……違う。私はハルと……」


 精一杯の声でそう言う雪奈。

 しかし、そんな必死の言葉に対しても未来の雪奈は軽く流すように相槌を打つと、まるで駄々をこねる子供を相手するような口調で雪奈との会話を続行させた。


「うん、うん。そうだね。でもさ……もしも貴方が同窓会で春斗君と再会しなかったら……どうなっていたか想像できる?」

「っ……それでも!」

「それでも春斗君と結婚してたって? ……無理だね。ここで言う未来、貴方にとっては過去だね。そこで貴方はどんな目にあっていたの? あの状況下であの偶然が無ければ貴方と春斗君は結婚はおろか友達にすらなれてないよ」


 そう言い切る未来の雪奈。

 言葉を返す事ができなかった。

 それもそのはずで……雪奈自身も春斗と結婚したこと。それは幾つもの偶然が重なってできた産物だという事を理解していたからだ。


「ねぇ、涼介って恵まれた人だと思わない?」

「急に何を……」


 突然のことに戸惑う雪奈。

 しかし、そんなことはお構いなしと言わんばかりに未来の雪奈は言葉を続けた。

 

「だってさ、この辺りで一、二を争う病院を経営している家の次男に生まれて。それに容姿にも優れてるんだよ? そんなの生まれながらにして勝ち組じゃん」

「だから、急に何を言ってるの?」

「何もしなくても女の子にはモテて、友達にも苦労はしなかったんだろうなぁ。涼介は欲しいと思ったモノは全て手にしてきたんだろうね」

「それは……そうだろうね」

「だよね。でもさ、そんな涼介でも手に入らないモノが一つだけあった」


 そう言った未来の雪奈は変わらず座り込んでいる雪奈の視線に合わせるようにしゃがむと顎を徐に持ち上げ、その目を凝視する。

 そして一つ笑みを作ると口を開いた。


「高野雪奈……貴方だよ」

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