【影一つ】


「何を与えてくれる……か。難しい質問をするね」


 雪奈は莉穂の問いに対して、そう言うと考えるような仕草を見せる。

 ここでいう未来で春斗と共に過ごした時間、増やしてきた思い出、そして二人で作り上げてきた空間。

 それらを脳内で思い浮かべると、自然と浮かんだはにかむような笑みをそのままに口を開いた。


「んー、考えてみたけど……分からないや」

「……え?」

「だって私、何かを求めて河野くんと一緒に居る訳じゃないし」


 キッパリとそう言い切る雪奈。

 そこには取り繕うような様子は一切無くて……。

 これまでの人生で知り得なかった価値観を前に莉穂は目を見開いた。


「確かに私だって河野くんにやって欲しいことの一つや二つはあるけど……でも、それが目的で一緒に居た訳じゃないからなぁ。って、これ……本当に難しい質問だね」


 戸惑いの色を隠せていない莉穂と、ウンウンと小さく唸りながら真剣に悩む雪奈。

 そしてそんな二人の中に挟まれて「いや、それ恋人とか夫婦の話をしている人の言葉だよ」とでも思っているような表情を浮かべている遥。

 そこにはカオスと表現できる空間が出来上がっていた。


「じゃあ、なんで雪奈は河野くんと一緒にいるの?」

「なんで……なんでだろう? 特に理由っていう理由は無い……かな?」


 そう言った雪奈に対して、意味が分からないという言葉をそのまま表に出したような表情の莉穂。

 彼女からしてみれば、雪奈言う二人の関係は到底理解できるものではなかった。


 相手に何かを与える代わりに、自分が何かを与えてもらう。

 莉穂にとっての人との繋がりは言ってしまえば"見返り"を前提としたものだったのだ。

 それなのに――。


 目の前には自分の知らない関係を築いている人が居る。

 それはまるで物語の中にあるような関係で……。


「……雪奈は河野くんの事が好きなの?」


 莉穂はそんな質問を雪奈に投げかけていた。

 

「え!? いや……違うケド」


 当然のことのように否定する雪奈。

 視線を逸らした事を除けば完璧な受け答えだった。


 そう、視線を逸らさなければ……。

 当たり前だが、これをご愛嬌として受け取って貰える訳もなく――。

 遥は「……無理があるでしょ」と言わんばかりに首を左右に振って見せて、莉穂は莉穂で疑いの目を強めた。

 

「……本当に?」

「うん。本当だよ」

「恋愛感情は無いってこと?」

「それは、勿論」


 凄みすら感じる莉穂の圧に耐える雪奈。

 それから何度かの質問に耐えると、その疑いの目は徐々に弱くなっていく。

 そして――。


「良かった。やっぱりそうだよね。危うく勘違いするところだったよ」


 と、雪奈の言葉を飲み込んだ様子の莉穂は安心したような表情を浮かべた。

 彼女からしてみれば雪奈の誤魔化すような素振りよりも、雪奈が春斗の事を好いているという事の方が信じられないものだった事が、納得するに値したのだろう。


 雪奈はそんな莉穂を見て安心するように一つ息を吐いた。

 

「まぁ、好きと言っても色々と種類があるし、私と河野君はそんな関係じゃないからね」

「だよね~。良かった良かった。雪奈にはもっと相応しい人が居るもん。それこそ――"谷口君"とか!」


 悪意が一切無い莉穂の言葉。

 莉穂からしてみれば、普通の会話のつもりだったのだろう。

 しかし、その名前……谷口という苗字を聞いた雪奈の顔には暗い影が差し込んでいた。


「……そうかな?」

「違うクラスだけど、格好良いし、お金持ちだし、それに……多分だけど雪奈に気があると思うんだよねぇ」


 雪奈の様子に気付かない莉穂は言葉を続ける。


「ウチのクラスに来る度にチラチラ雪奈の事を見ている気がするよ! 雪奈的にはどう? 谷口涼介君!」


 ――そっか。この頃から……だったんだね。


 莉穂の"口から出る音"を聞きながら、心が冷えていくのを感じる雪奈。


「クラスでも人気者っぽいし、優しいし、何より余裕がある感じが……っと噂をすればだねぇ」


 それは誰かに仕組まれたような……そんなタイミングだった。

 既に莉穂の言葉を聞いていなかった雪奈の後ろ。

 教室の後方に男は居た。


 谷口涼介。

 赤みの強い茶髪が特徴の長身の男で、春斗や雪奈の学年では陸と並んで人気のある一人。

 整った顔付き、余裕のある立ち振る舞い、そして地元でも一、二を争う病院を経営している家の次男。

 言ってしまえば将来を約束されているような……そんな人物であり、未来で春斗や雪奈と関わりのある人物だった。


 涼介は教室内を見渡すと、ある一点に向けて歩き出す。

 向かう先は言わずもがな雪奈のところだった。


「高野さん、こんにちわ」


 涼介は向けられれば誰もが気を許してしまいそうな……そんな爽やかな笑みを浮かべると雪奈に声を掛ける。


「……どうも」

「えっと……髪、切ったんだね。似合ってるよ」

「…………」

「どうしたの? 体調悪い?」

「……いえ、大丈夫です」

「……そう」


 雪奈の態度に言葉を失う涼介。

 それもそのはずで、以前の雪奈は涼介に対してこのような態度は取っていなかったからだ。

 敬語でもなければ今のような冷たい声色を放つことも無い。

 そう……時を遡る前、学生時代の雪奈と涼介は友人だったのだ。


「ちょっとごめん。雪奈、ちょっと疲れてるみたいだから、話があるなら後でも良いかな?」


 雪奈の様子がおかしい事を察した遥はそう言うと涼介に距離を取るように仕向ける。

 そうでもしないと雪奈が壊れてしまいそうだった。

 しかし――。


「んー、心配だから一緒に居るよ」


 何故か雪奈の傍を離れようとしない涼介。

 その表情はどこか嬉しそうな笑みを浮かべていて……。

 遥は本能的に警戒心を高めた。


「いや、でも、ほら……一人にして欲しい時ってあるじゃん?」

「んー、そういう時もあるかもしれないけど……こういう時こそ誰かが一緒に居てあげる事も大切だと思うんだよね」


 一向に引く様子を見せない涼介。

 そんな態度に対して遥は……。


「チッ……いやいや、本当に大丈夫だから。自分のクラスに戻って」


 聞こえない程度の舌打ちをしたかと思えば、多少強い口調でそう言う遥。

 すると、涼介の浮かべていた爽やかな笑みに一筋の亀裂が入った。

 その亀裂から覗くのは彼の――谷口涼介の本性。


「……そっか。まぁ、本当に体調が悪そうだから戻ろうかな。元気になったら教えてね」


 まるで癇癪を起す直前、自分の感情をグっと抑え込んでいるような声色でそう言い残すと涼介は三人に背を向ける。

 そして教室を出る際に一瞬雪奈に視線を向けたかと思うとそのまま教室から出て行く。


 三人の間に訪れる無言の空間。

 雪奈は変わらず俯いたままで――そんな彼女を心配した莉穂は彼女の顔を覗き込む。

 しかし、お互いの目が合う事は無い。


「もしかして谷口君の事……苦手だった?」


 莉穂は雪奈の放つ空気感に抗いながらできる限りの優しい声色でそう聞く。

 すると憔悴し切っているような……そんな表情をそのままに返事をする雪奈。


「……どうかな。分かんない」


 ニコっとした笑みを浮かべる雪奈。

 しかし、その目はどこまでも冷たかった。


「雪奈……本当に大丈夫?」


 遥は涼介がちゃんと自分の教室に戻った事を確認すると、莉穂と代わるようにして声を掛ける。

 

「……うん。平気。でも……少し疲れたかな」

「そっか。もう帰る? 早退するなら先生に言っておくけど」

「そうだね。帰ろうかな」


 そう言った雪奈は席を立つと、二人に視線を向けることなく後方にある自分のロッカーに鞄を取りに行く。

 意図して二人と目を合わせなかった訳ではない。

 ただ、彼女には見えなかったのだ。


 雪奈の目が見ているモノ、そこには教室の光景も心配そうな表情を浮かべている二人の姿も無かった。

 彼女が見ているのは、ここから先の未来。雪奈からしてみれば過去にあった出来事。

 フラッシュバックするように、当時の光景が雪奈の目を埋め尽くしていたのだ。


「……ハル」


 雪奈は呟く。

 何物にも代え難い心の拠り所であり、最愛の人物の愛称を……それが目の前に居るかのように呟く。

 助けを求めるように呟く。

 

 言葉にならない声で――。


 もしも今、春斗が陸の煽りに負けることなく、この教室に残っていれば状況は変わったのかもしれない。

 守ってくれたかもしれない、傍に居てくれたかもしれない。


 しかしどれだけ願っても、望んでも……。

 そこに春斗の姿は無かったのだった。

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