9-4
「私は犠牲にならない」
目有は穏やかな声で宣言した。
スムヨアの手からナイフが落ち、床にぶつかる。からんからんという音が響く。
「ああ……」
スムヨアはさっきまでの勢いを失い、目を伏せた。
「お前が死ねば、許してやったのに。庵或留が欲しいのは、お前の命なんだ」
まるで、拗ねた子供のような様子だ。
「ねえ、それってどういうこと?」
目有が尋ねる。
「ラドメアは、又旅、名曳、魚冥不の継承候補なんじゃ」
ワロが答える。
スムヨアはどういうわけか、勢いを失ったまま、まだぼんやりしている。
「庵或留は、七人呪師を存続させたいというだけではなく、自分の手中に収めたいんじゃろう。おそらく、ワロドンののど骨にいれて管理したいんじゃ。だから、継承候補の目有が一番の目障りだったと、そんなところじゃろう」
スムヨアから目を離さずに、ワロが説明した。
「そして、さきほどからラドメアを殺そうとしてるのは、スムヨアの意思ではない。魚冥不の意思だ」
目有は魚冥不に目を向ける。
彼女はスムヨアの影に隠れるようにして、怯えた様子で立っているだけだ。
「スムヨアの隣にいるおなごは、魚冥不ではない。それに、名曳もそこにはいない」
「名曳も?」
四蛇は困惑する。そこにいないとは、どういうことだろう。
「私はヘドリアよ」
壇上の女性は、怯えた表情でワロを見下ろしながら言う。
名曳は先ほどから変わらず、宙を見つめている。
「わしはスムヨアのことを、幼い頃から知っておる。こんなとんでもないことをしていると知って、わしはスムヨア心配でたまらんかった。だから、お主の魂を見れば、何があったのか分かるだろうと思って、ここへ来たんじゃ」
スムヨアの顔から、感情が消えたように見えた。両手をだらりと下ろし、足元を見ている。
「スムヨアには、今三つの魂がついておる」
ワロは後ろを振り向き、みんなの方へ向かって説明した。
「スムヨア自身のものと、魚冥不のものと、名曳のものじゃ。おそらく、ワロドンののど骨を使って、庵或留が無理やりそんなことをしたのじゃろう」
目有は言葉を失う。
「うるさい」
スムヨアが短く叫んだが、すぐに静かになった。
「待て、じゃあ、あの女と名曳はどういう状態なんだ?」
四蛇が尋ねる。
「名曳は、おそらく本人の身体じゃろうが、魂のない抜け殻じゃ。呪術の力は魂に依存するから、スムヨアが人形の術を使い、名曳の身体を操っているのじゃろう」
じゃあ、もし私が死んだとしたら、スムヨアから名曳の魂を奪って、継承できるかもしれない。
目有は素早くそこまで考えたが、四蛇が強く手を握ったので、その考えを頭から振り払った。
「そこのおなごは……」
「うるさいうるさい!」
スムヨアが叫び、手をがむしゃらに振った。
ワロはスムヨアに近づいてゆく。
目有も近づこうとして、何かに躓きそうになった。鼓童が足元に倒れている。太ももから血を流した傘音が、鼓童の傷の具合を診ている。史紋も肩と頭から血を流し、膝をついている。入と句朗はいつの間にか、礼拝堂に誰かが入ってこないよう、長椅子を押して扉を塞いでいる。少なくとも二人には、大きな怪我はないようだ。句朗と潮も、腕や額に血が滲んでいるが、歩けはするようだ。
目有がスムヨアの方へ近づくと、彼女は言葉にならない声を上げて、喚いた。
「スムヨアや」
ワロがとても優しい声で名前を呼ぶ。
「うるさい」
「その子はヘドリアではない」
「この子はヘドリアよ!」
スムヨアが女を引き寄せようと、手を伸ばす。
その手が、女には触れず、すり抜けた。
目有ははっと息を呑む。
スムヨアは目の前のことが信じられないという顔をして、大きな口を開けた。
恐怖の叫び声が、長く響く。スムヨアと同様大きく口を開けた女は、瞬く間に、霧のように掻き消えた。
最後の叫び声は、どちらが発したのか、分からなかった。
「なんてことを。なんてことを」
スムヨアが暴れるのを、四蛇と潮が抑える。
「いったいどういうこと?」
目有がワロにそっと尋ねる。
「魚冥不の蜃の術によるものじゃろう。蜃の術は、目に見える幻覚を作り出すのではなく、呪術の対象者に幻覚を見せるものなんじゃが……」
ワロが言いにくそうに言葉を止めた。
「どういうわけか、あのヘドリアの幻覚は、誰からも見えるよう具現化していたようじゃ」
「どうしてあの幻覚はヘドリアを名乗っていたの?見た目も性格も全然違うのに」
ワロはひどく悲しい顔をした。
魂を見て、事情を知っているのかもしれない。今説明する気はないようだ。
「スムヨア」
潮が呼び掛ける。
スムヨアは脱力し、座り込んでいる。
「いかん、ハカゼになりかけておる」
ワロはスムヨアを寝かし、治療を始めた。
スムヨアは身体の力を抜いたまま、唇を震わせるように、何か言っている。耳を澄ませてみると、「やめて」「静かにして」と言っていることが分かった。
「一人の人間に、三人分の魂がくっついているんじゃ。ものすごく気力の削がれる生活だったんじゃろう。
あの子はどちらかと言うと、控えめな性格の子だったんじゃ。そんなあの子の中に、魚冥不と名曳という強烈な人格の魂が入り込んでいる。想像でしかないが、スムヨアはひどく苦しい思いをしているんじゃないだろうか。日常的に、何度もハカゼになっていたのかもしれん。
スムヨアの振る舞いを見て、名曳より魚冥不の方が表面に出てきているように感じたのは、名曳がスムヨアを守るために忍んでいたんじゃないかと思う」
目有はスムヨアの顔をじっと見た。
「名曳を元に戻さないと」
そんなこと本当にできるのか分からないが、目有は言った。
「そうじゃな」
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