神さま、あるいは君

われもこう

1. or you (亡霊)



 幾度となく見る夢がある。夢の中のわたしは年端もゆかぬ少女で、着の身着のまま、緩やかな風が吹きつける暗い山麓の高台に立っていて、そこから眼下の焔を見下ろしているの。


 焔は麓にあるひとつの邸宅を丸ごと呑み込んでいる。それはさながら地獄の様相だ。大きく膨れ上がった焔はまばゆいばかりの光を放ち、轟々と音を立てながらひとりでに燃え盛っている。その火勢は留まることを知らず、勢いはいよいよ増すばかり。消火は見込めず、このまま灰燼に帰すのを待つくらいしか、鎮火の術はないだろうと思われた。


 二月の深夜だった。極寒の夜に、けれどわたしは微塵も寒さを感じなかった。ただその恐ろしい光景を前にしてひどく怯えている。どくどくと心臓が脈打ち、顔は青ざめ、隣に佇む人の柔らかい裾を、強く握りしめている。

 その人は、無言だった。風に吹かれる柳のように自若としている。


「上手くできたね」


 焔を眺め始めてから、どのくらい経った頃だろう。傍らに佇むその人が、とつぜんぽつりと口を開く。その言葉があまりにも今の状況と不釣り合いなものだったから、わたしは思わず顔をあげた。その横顔には、遠い焔の光が映っている。けれど瞳にはなんの感傷も浮かんではいない。


 わたしたちはたった二人で眼下を見下ろしている。この高台には他に誰もいない。 

 わたしはこの人の名前を知らない。素性を知らない。

 にもかかわらずわたしは、その裾を跡がつくほど強く握りしめているのだ。まるであなた以外に縋る人がいないんだとばかりに。


 深々しんしんとした山の中には倒壊の轟音がとどろいている。眼下ではときおり、大量の火の粉が弾け飛ぶ。立ち昇る黒煙。煤を纏いながら身をくねらせて踊る焔。


 やがて、ひときわ大きな音を立てて火中の建物が――わたしの家が崩れ落ちた。

 灰が、灰が。空高くに吹き飛ばされた灰が、昼と見紛うほど明るい火の中に落ちていく。


 わたしは裾を持つ手を離して冷たい地面に座り込んでしまった。そうして立てた両膝の中に顔を埋めた。あなたは笑った。これが望みだったんだろう、という言外の嘲りを込めて。

 静まる音。海より果てない大きな夜が、全てを包みこんでいる。




  1




 目を覚ますと、そこはカーテンを閉め切ったうす暗い朝の内側だった。つい最近まで使われていなかった、黴臭い二階の寝室。わたしは動悸で痛む胸をおさえて、重たい上体をなんとか起こす。そうして項垂れたまま両手で顔を覆うと、澱んだ空気を吐き出すように、長い長い息をつく。またあの夢を見た。ママを殺した夜の夢。ママを眠らせ火を放った夜の夢。震えの止まない膝。鎮まらない鼓動。見下ろすわたし。そして傍らにいる、名前の知らない人。

 目覚めるたびに思うの。ああ、夢の中でわたしの隣にいたのはミクス.ラムだったんだって。


 外では小鳥たちが朗らかに鳴いている。婦人たちの軽やかな話し声が聞こえる。外界の明るさがわたしの病いに拍車をかける。わたしは沼のような寝台の上で、何も考えられずに呻いている。あたまの中では、いろんな声が交錯していて、わたしの指先をも支配する。


(おはよう、ローイア)

 ――おはようママ。


 とくにママの声はよく聞こえた。といっても、それはまやかしだ。

 幻聴、あるいは亡霊の声だ。

 ママは死んだあの夜から、ぴったりとわたしの傍に張り付いている。

 そうして時には呪いの言葉を、時には耐えがたい優しさをわたしに与える。


(今日はとってもいいお天気ね)

 ――そうね

(こんなに晴れた日にはサンドウィッチでも作って、庭で朝食を食べましょうか。パパもきっと、よろこんで賛同してくれるに違いないわ)

 ――そうね、ママ。


 わたしが身を置くのは冷たく暗い闇の底。誰も立ち入れない洞穴の最奥。ここには一寸の光さえも射さない。なにもかもが悪霊の語らいに聞こえる墓場にひとしく、はんぶん幽霊のわたしにはおあつらえ向きだとママが笑う。


 ふと、あたまの中でうじゃうじゃのたうち回る虫たちが鳴りを潜めて、二階の寝室が水を打ったように静まり返った。かしましい亡霊の声も止み、にわかにやってきた静寂に、わたしは顔を覆っていた両手をほどく。すると傍に誰かがいることを知った。

 となりを仰ぐと、カーテンの隙間から差し込む淡い陽ざしに反射して、その暗い瞳が鈍く光った。


「おはよう、ローイア」

「おはよう、ミクス.ラム」

「お取込み中だった?」

「いいえ」


 見え透いた嘘をつくと、ミクス.ラムは笑んだ。差し出されたその手を取って、寝台から降り立つ。うす明かりの中、窓際に近づいていくあなたの後ろ姿は、さながらガラスの人形だ。わたしを振り返ると、その輪郭が淡い光を帯びた。

 わたしの穏やかな、気が触れるほど穏やかな一日が、今日もまた始まりをつげようとしている。


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