振り返って、接吻

高野麦

第1話 低温火傷につき、

社員証を首からぶら下げて、欠伸を噛み殺しながら出勤する。



部下たちが、早朝とは思えない快活な挨拶を繰り出してくるのは、ぼけ社長が「やっぱ基本は挨拶だよね!」とかなんとか言うからだ。まじであいつなんなの。



俺はふらふらとまだ目が冴え切らない状態のまま、社長にだけは会ったりしないようにひたすら祈りつつ、副社長室という自分の部屋に向かう。


朝からあいつが「おっはよー」なんて声をかけてきたら、それはもう最悪としか言いようがない。


最悪の意味、わかる?最も悪いんだよ、これ以上なく悪いの。



都会の高層ビル群のなかでも引けを取らないこの建物は、それなりに新しく綺麗で清潔だ。朝の陽ざしが差し込み、爽やかな挨拶が交わされる。そんな会社であることは素晴らしいことと理解しながらも、その明るささえもが低血圧の俺には腹立た、



「あ!ゆづ、おっはよー」



———よし、逃げよう。



ヒールをかつかつと鳴らしながらこちらに向かってスキップをしてくる最強に奇妙な女を見つけて、俺はくるりと素早く方向転換した。


朝の俺の戦闘力は最低値。したがって、逃げるが勝ちだ。



そうして振り返ると。


 

「あ、おはよーございます副社長」


「ちっ」



ねえ、なんか悪いことしたの俺。



「社長に会えたのに舌打ちって、ひどくない?」


「ひどいですね、減給してやりましょう」



どうして、こんな爽やかな朝いちばんに、社長とその秘書に挟み撃ちされなきゃなんないの。


この数年でぐんぐん功績を伸ばして大きくなった広い社内。朝から遭遇したらしにたくなる2トップに同時に絡まれるって、相当治安悪いんじゃないの。もはや交通事故だ。は?



「おはよう!茅根」


「おはようございます社長、今朝もお綺麗ですねえ」


「あらやだこの子ったら!口が達者なんだから!」


「あはは、社長照れてる照れてる」



本気で胃がムカムカしてきた俺を挟んで繰り広げられる、胃もたれするような会話たち。もう、なんなのまじで。すぐそこなんだから、社長室でやれよ。



ていうか、お願いだから誰かこの女のどこが“お綺麗”なのか教えて。“お嫌い”の最高潮に達してるんだけど。ねえ。



明らかに逃げ道と気力を失い立往生した俺の肩に、社長は馴れ馴れしく両手をぽんと置いてきやがった。


それを間髪入れずに振り落とす。



「由鶴、機嫌悪いね?」


「オマエたちのせいなんだけど、気づかないかな」


「えーごめん気付かなかったなあ」



社長、もとい宇田は俺の嫌味にもすっかり慣れきってるようで、それがまた気持ち悪い。あまりにも長い付き合いなので、腹立たしいとかを通り越して、もはや気持ち悪さと気色悪さしかない。



正面に立つ社長秘書を務める男は、栗色の柔らかそうな髪を耳にかけて、ふわふわとこれまた柔らかい笑みを浮かべている。仕事中とは思えないほど甘ったるい奴だ。



その男は、上品な腕時計に視線を投げて、「そろそろ行きましょうか」と宇田にだけ声をかける。副社長と遊んでる場合じゃないですよ、とでもいうように。



完全に一方的に絡まれていたのは俺なのに。完全なる巻き込まれ事故、さらには当て逃げのようなそれは、すごく理不尽だ。


わざと聞こえるように舌打ちを鳴らすが、もちろん奴らは気にすることなく。



「じゃあ、また後でね!由鶴、例の企画よろしく」


「失礼します、では、きょうも一日がんばりましょうね」



それぞれにうざい言葉を投げかけて、去っていった。こちらの返事は期待していないらしく、言い捨てだ。



最悪なコンビのせいで何か大事なものを朝から失った俺は、とりあえず無心で副社長室を目指す。



仕事自体は好きだし、というか仕事くらいしか好きなものがないのだけど、とにかく、憂鬱な朝も出勤できるくらい俺はこの仕事が好きらしい。




ここは、まだ歴史の浅い化粧品会社。数年前に立ち上げたばかりだが、愛用してくれている有名人の紹介をきっかけに人気に火が付き、手が届くデパコスとして若い女性をターゲットに業績を伸ばしている。



宇田の感性は、ほんとうに神からの授かりものだ。信じたくないけど、俺はそれを誰よりも知っている。そうでなきゃ、あんな気色悪い女と組んで、会社を立ち上げたりしていない。




俺たちは、大学生のときにあらゆる化粧品会社でバイトやインターンシップをして、就活生になると同時に起業した。もう、6年前のことだ。



宇田がつけた会社名を、俺はあんまり気に入っていない。というか、ちょっと恥ずかしい。自分の名前が入っている社名をどんな気持ちで俺が呼んでいるか、宇田は知っているのだろうか。




だがそんな会社名さえも、女の子たちから話題を呼び、商品が売れるわけで。社名のほんとうの由来を知っている人は少ない、というか、副社長の俺も知らないのだけど。



「働こ、」



誰もいない静かな副社長室に入り、今日のスケジュールを頭の中で整理する。あと数分もすれば、秘書の千賀が来るだろう。


彼女はわざと、俺よりも遅くこの部屋に入ってくる。数分でも、ひとりの時間がないと朝の俺にはしんどい。我ながら、起業せずにどこかの組織に就職していたら、短命だっただろうなと思う。


当然ながら、社会は俺を中心に回ってはくれない。それができるのは、宇田だけだ。




俺のボールペン字でメモされた白い付箋がいくつか貼られたデスクに、見慣れた字が書かれた黄色の付箋が1枚目立っている。



わざと右肩上がりに書く力強いその文字は、「業績も右肩上がりになるように!」という頭のおかしい女の願いが込められている。字は体を表すというけど、たしかにその字には自信と教養が映されていた。




『ハニーへ。午後3時から企画部のプレゼンあるのだけど、わたし行けないから記録おねがいしていい?』




ダーリンより、と記されたそれを読んで内容を理解した俺は、呪われる前に即座に破り捨てた。やば、鳥肌が立っている。



断じて、俺と宇田はハニーとダーリンの甘い男女仲ではない。そんなことは軽々しく言っちゃいけない、縁起でもない、不吉すぎる。




由来を説明すると、単純なこと。彼女の名前は、宇田凛子うだりんこという。で、その、ウダリンコから、ウ、ダリン、コ、それで、ダーリンとなったらしい。


ああああ、言葉にしただけで喉がかゆくなった。なるほど、これがアレルギー反応か。




俺がハニーと揶揄われるのも同じような理由で、深月由鶴みつきゆづるという名前のせいだ。ミツキユズル。ミツキのミツを蜂蜜の蜜と捉えて、ハニーと呼ぶのだ。もちろん、自称したことはないし認めたこともないし、気に入ってるはずもない。はいはい、どうぞ笑えば?




こうして朝から上司に根こそぎ精神力を奪われているのに、ほんと、よく仕事続けてるよね。自分に拍手を送りたい。ついでにあの女の口を縫いたい。



まあ、どうせ口を縫ったところで、声以外の何かで俺の精神力を削り落とすに違いない。そうでなきゃ、とっくにミシンで細かく丁寧に縫い付けている。



9時をまわったことを確認し、ようやく仕事に専念しようと指の関節を鳴らす。これは悪癖。


それと同時に、控えめなノックが聞こえた。相手を見るために視線を投げることもせず、「どうぞ」と応えると、ドアが開いて聞き慣れたヒールの音が副社長室に響いた。




「副社長、おはようございます」



「うん、おはよう」



秘書の千賀せんががどこか驚いたように俺を一瞬見て、冷静さを取り戻すように素早く持っていたタブレットに視線を落とす。




「本日のスケジュールは——、」




彼女の声を適当に聞き流しながら、パソコンを立ち上げる。早くひとりになって仕事したいけど、彼女もこれを伝えるのが仕事なのだから仕方ない。


いつも通りきちんと聞かない俺を咎めることもなく、千賀は今日のプレゼンについて説明している。なんか、秘書って大変そうだな。俺とか宇田とかに付き添って働くの、まともな人間ならやってられないと思う。


茅根は同類だからいいとして、千賀は俺らよりも若いし。もう少し労ってあげようと思わないこともない。


ふと、あの気色悪いコンビも今頃社長室で同じようなことをしているのだろうか、と考えた。奴らは異様に息が合うから、もっと楽しくやるのかもしれない。


きっと茅根はお得意の甘ったるい仕草で、今日の仕事内容を説明するのだろう。あいつこそハニーなんじゃないの。



余計なことを思い出したせいで、胃がむかむかして気分が悪くなった。慰謝料とらなきゃ。




「本日のスケジュールはこのようなもので、」


「そう、ありがとう」


「はい、それと、あの、」



まだ話したいことがあるようなので、「なに?」と促す。興味は一切ないけど、マナーかなと思って。




すると、千賀は手帳を閉じて、俺の機嫌を伺うように、



「副社長、なにか良いことありましたか?」


「は?」


「す、すみません」



あまりにも負の感情を露わにした声だったらしい。年下の部下は申し訳なさそうに頭を下げだ。



「悪いけど、私語は後にしてくれる?」


「はい、失礼しました」




我ながらいつにも増して冷たい声が出たけど、ちがう。私語なんてどうでもいい。


機嫌が良くなっていることに自分でも気付かないふりしていたのだから、オマエも敏感に察しろよ。それができないなら、何も気付かないほど鈍感になれ。




機嫌が良く見えた原因なんて死んでも教えたくないし、さらに言うなら考えたくもない。黄色の付箋が貼ってあった場所が、やたら空白に感じて目につく。




———宇田が俺に仕事を押し付けてくれることが、頼ってくれることが嬉しいなんて、絶対に言いたくない。




それから仕事を進めていくと、冷静になり、秘書に対して完全に八つ当たりしてしまったことを恥ずかしく思えてきた。


あとで千賀にはお菓子でも買っていって謝ろう、と誓った。ほんと、秘書って大変だろうな。





企画のプレゼンに参加したこと以外、ずっと副社長室でひとり仕事をこなしていた俺は、優秀な秘書に呼ばれて、ようやく珈琲休憩をとった。外と関わるのはどうしても宇田のほうが得意なので、俺はこの部屋に引きこもりがちだ。




珈琲を淹れて時計を確認すると、21時を過ぎていた。これを飲んだら、そろそろ帰ろうか。



そう思っていると、「副社長、いま、お時間いいですかー?」と完全に舐めた態度の男の声がドア越しに届いた。



即座に迷わず「無理です」と断ったというのに、「失礼しまーす」という返事と共にドアが開いた。まったく、マナーもプライバシーもない。社会人失格だ大人やめろ。



冷たくそちらに目線を向けると、予想通りの人物が予想通りに胡散臭い笑みを浮かべながら、予想通り俺の座るデスクに歩み寄ってくる。



茅根は分厚いファイルを両手で抱えながら、ゆったりとマグカップに口づける俺を見て笑った。




「副社長、サボりじゃん」


「悪い?」


「いや?優雅っすねえ、絵になるよ」



会話をなぞるだけなら褒めてるように思われるかもしれないが、間違いなく馬鹿にされている。そのくせ、容姿だけは品の良い王子風なので腹が立つ。




茅根は、宇田がスカウトして秘書になった、俺らの同級生だ。ちなみに大学では、俺と宇田は経営学部だが、茅根は法学部に在籍していた。あいつが法学部って、なんか笑えるけど。


同級生だから、俺らと同じ28歳。そんなわけで友人の延長みたいなものだし、俺が一応は上司である宇田を全く敬っていないように、彼も俺を敬っていない。なんなら、舐めてるとしか思えない。




「今日の取引先の方が、副社長のこと婿に欲しがってたよ」


「うざい」


「そのひとの娘が由鶴くんの写真見たら一目惚れだってさ」



楽しそうに話す茅根は、どことなく俺の表情を見透かすようで気持ち悪い。気持ち悪い奴の秘書をしているからそうなるのかもしれない。かわいそうに。責任を持って、俺が辞めさせてあげなきゃ。



「で、社長は、優位になる取引のために俺を差し出したわけ?」



空になったマグカップを置くと、がつんと鈍い音がした。思ったより強く置いてしまったらしい。



そんな俺の様子を見て、なおさら愉快そうに微笑む茅根。だめだ、もう手遅れ。宇田に限りなく近い人間になってきている。



「安心してくださいよ、社長は由鶴くんにベタ惚れなんですから」



そうだろうな、知ってるよ。


俺が、仕事のできる人間でいるうちは、宇田は俺を離さないだろう。ずっと一緒にやってきた俺しか、知らないから。俺しかいないと信じ込んでいるに違いない。



だから、宇田は俺を離せない。ある意味でベタ惚れ、依存している。




「そろそろ俺は帰るよ」


「うわあ無視かよハニー」


「吐きそう」


「ご冗談を」



そして思い出したように、「そういえば社長が、プレゼンの記録を借りたいって仰ってましたよ」と。



「俺はあいつのパシリじゃない」


「その通りっすね、社長がその段階の企画に口出すことはないだろうし」


「うん、それじゃあね」



オマエも帰れという意図をしっかり察した茅根は、失礼しました~とゆるい挨拶をして出て行った。



俺も帰ろう。空腹を感じる。よく考えてみれば朝から何も食べてない。


明日のやることを頭の中で整理しながら、上着を羽織ると、「おつかれハニー!」という首を絞めたくなるような声と同時にヤツが入ってきた。



なに、わざと?ほんとタイミング悪い。あと2分後なら帰ってたのに。




「記録かしてー」


「やだ」


「なんで!」


「もう鞄にしまっちゃったし」


「わかったわかった、じゃあ由鶴の家とめて」


「金取るよ、いい加減」




こうして、宇田は週1以上のペースでうちに来るのだ。ほんと迷惑。存在するだけで迷惑なのに、図々しく泊まろうとするのだから害悪だ。



だけど、俺が拒否しないことを分かっている宇田は、「今夜は餃子だあ!」とこぶしを宙に突き上げた。


いいね、餃子。エビチリも食べたいな。中華の気分。



この人間のふりをした地球外生命体と極々珍しく気が合ったみたいだ。





帰宅して、宇田がものの数分で作りあげた中華風家庭料理を食べた。空腹のせいに違いないけど、悔しいくらい美味しいエビチリに「まずい」とコメントする。



それでももくもくと箸を進めで残さず食べた俺を見て、宇田は「次はもっと美味しく作るね」と笑った。ふうん、また作ってくれるらしい。




仕事が恋人のような独身の俺もそれなりに料理はできるけど、なにせ食事に対する意欲が低い。何においても抜群のセンスがある宇田は、料理のセンスも光っている。薄く切った大根を皮がわりにした餃子は、健康的なうえに美味しかった。


最悪なことに何年もの付き合いだが、未だに良いこと悪いこと驚かされるなと感服しながら風呂に入った。所要時間は15分。これが俺にはちょうど良く、身体を休めることができる入浴だ。




髪をタオルで雑に乾かしながらリビングに戻ると、ソファには俺のTシャツを我が物顔で着る宇田がいた。風呂に入る前に渡しておいたプレゼンの記録を熱心に読んでいる。


ぶつかる空気がやたらと暑いので空調のリモコンを見てみると、設定温度が30度だった。寒いならパーカーを着ろ。というか、勝手に俺の服を着るな。



とは言いつつも設定温度を下げない俺がいて、いや、相手は社長だから。風邪でも引かれたら困るし。心の中では饒舌な俺は、見えない敵に向かって言い訳をする。



「うわ、いつの間にあがったのー」



宇田は裸足を空中に放り投げるような格好で、ソファの上からこちらを振り返った。態度の大きさとは裏腹に小柄なので、俺のTシャツをワンピースとして着用しているらしい。



3人がけ程度のソファに身体を預けて、脚を投げ出している。正直、時と場合によっては、なかなか官能的な体制だが、いつもこうだから気付かないふりをした。

華奢なくせに艶のあるふとももに、ほんの少しでもくらりと目眩がしたなんて知られたら。俺は迷わずベランダから飛び降りる。



そんな心配は無用で、資料に興奮している馬鹿な宇田は、すごく嬉しそうに話し出した。


「もう、さすがだよねほんとマイハニー」


「エビチリ吐くよ」


「プレゼンの内容のメモじゃなくて、プレゼンした個人のレベルや質を記録してくれるんだもん」




それには答えず、水を飲みにキッチンのほうに向かう。



茅根の言う通り、社長であるため無関係とは言えないが、この段階では宇田が直接かかわりを持たない今回の企画。それについての記録を頼まれた。



俺は、それぞれのプレゼン内容よりも、プレゼンをしたグループがどんな内容だったか、どう伝わったか、資料の質はどうかなど、それぞれの人間性に視点を向けて記録したのだ。




「わたしのことをこんなに理解してくれるの、由鶴しかいないよ」


「理解したくないけど」


「わたし、由鶴と仕事できて良かったー」



頼りにされたいというのは、男の性だ。ましてや上司なのだから、当然かもしれない。

宇田のさりげないひとことで、俺はまた深く安心するのだ。良かった、まだ今日も、俺は彼女に捨てられないみたい。



宇田のことなんか、理解できない。理解したふりを続けて、いつまでも危うい距離感を保ちながらそばにいる。これは、寿命を1日ずつ延ばしているような感覚で、いつ断ち切れてもおかしくないのに、当たり前のような日々を何年も繰り返してきた。




「オマエも風呂入りなよ汚いんだから」



会話の流れを下手くそに変えた俺に、すべてをわかったうえで包み込むかのような笑みを見せた宇田。常に上手にいる彼女が、いつだって気に食わない。



宇田はご自慢の長い黒髪を揺らして、軽やかにソファから降りる。子どもの頃にバレエを習っていたせいか、しなやかな動きが猫みたいだ。



ストッキングとヒールを纏っていない今、頼りないほど細いその脚で、ぺたぺたと歩きながら「お風呂借りまーす、タオルと着替え用意しておいてねー」って。ふざけるな、俺はオマエの執事でも秘書でもない。



そう悪態つきつつも、どうせ用意してあげる俺を見透かしてるのだろう。俺って笑えないぐらい良い部下だと思うんだけど、どうかな。



ていうか、ある意味いまこの時間も仕事中みたいなものだよね。残業手当くれなきゃ困る。




いつものことだけど、宇田のお風呂は死んでるんじゃないかと思うほど長い。他人の家でよくもここまでくつろげるな、ともはや感心する。



浴室がばたばたとうるさいから、溺死しかけてるのかもしれない。たまにご機嫌な歌声が聞こえて、地味に腹が立つ。けっきょく、けろりと生きてお風呂から上がってくるし、当たり前だけど、宇田は今日も生きている。





彼女が洗い物を済ませておいてくれたおかげで、キッチンは綺麗に片付いていた。特にやることもないし、先に寝てしまおう。




軽く神経質な俺は眠りが病的に浅いのだが、何故か、宇田の気配があると熟睡できる。認めたくないけど。



あいつもあいつで、それを知っているから泊まりに来るのだ。すぐそばに自宅があるくせに、わざわざ好きでもない男の家に泊まるのって、それなりの理由がある。


まあ、俺や宇田の場合、長い間、恋愛という単語から遠ざかりすぎて、男女の概念が欠落しているせいもあるけど。


この会社が軌道にのるまで、有名になるまで、と思ってやってきたけど、いつの間にかその目標には到達していた。がむしゃらに駆けてきて、気付いたらここまできていた、という感覚だ。


それでもまだ、ゴールには届かなくて。若者向けコスメとして、斬新な切り口から現代的な化粧品を売り出している。老舗の高級ブランドなんかにはまだまだ及ばないけれど、成果は出ていると思っている。



あした、販売店舗のほうに行ってみよう。社長が行きたがると迷惑極まりないから、こっそり行ける時間を探さないといけないな。




相変わらず脳みその大半が仕事のことで占められている。ほぼ無意識の領域で、宇田のお風呂上がりセット一式を用意した。下着とパジャマは、こないだ宇田が勝手に自分でネットで購入して、この家に宅配したものだ。着払いだったら出禁にするところだった。



どうせ、きっと。湯船に浸かっている彼女も、同じく仕事のことばかり考えているのだろう。



ようやく寝室に向かうと、ふわっと眠気が襲ってきた。今日が終わるな、今日もよく働いた。最悪な朝だったけど、まあそこまで悪くない1日だった。


深い濃紺の布団が敷かれた、不必要に大きなベッド。いつまでひとりで使い続けるのだろう。ちなみに、宇田がこのベッドに入ることを許すつもりはない。そんなの気持ち悪すぎる。



そもそも宇田は、この寝室に入ってきたことがない。入るなと声に出したことはないけど、態度に表れているのかもしれない。




いちおうは副社長で、それなりの給料を貰っている身としては普通かもしれないけど、このマンションもひとり暮らしには豪華すぎるなあと思う。宇田しか来ないし。たまに茅根。やばい、切なくなってきた。



質の良い低反発のベッドに全身を預け、重たくなった瞼を逆らわずにおろす。ドアの外がうるさい、宇田がお風呂からあがったらしい。ドライヤー、使ったら片付けてよね。




俺はそのやさしい騒音を聞きながら、ゆっくりと眠りについた。

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