花火の後の静けさ

紫陽花の花びら

夏の始まり

 浴衣を着た君が、僕を見つけて走ってきた。赤い花の髪飾りが揺れていた。僕は走り寄ってくる君が好きだ。君の走る姿はかわいい。

 駅のホームには強い日差しが差し込んでいた。日差しが僕を焼くようで、立っているだけで汗があふれた。君がそばに来ると、全身に手が込んでいることが分かった。白、赤、紺の浴衣に合わせるように、赤いネイルが塗られ、赤い鞄を下げていた。そして、足には黒い下駄をはいていた。

 浴衣の君は、かわいかった。浴衣の女性は綺麗に見えるというが、あれは本当だった。本当に綺麗だった。「浴衣似合ってる」だとか、「浴衣かわいいね」だとか言えればよかったが、僕は言えなかった。そういうセリフは、僕には、やはり少し恥ずかしい。

 電車の中で、僕たちはお互い持ってきた3DSを取り出していた。場所取りをしてから花火が打ちあがるまで、それで暇をつぶそうと考えていた。大学生にもなって、3DSを持っていくのが、僕ららしいと思った。3DSには、懐かしいソフトだとか、懐かしい写真があり、僕たちは過去に思いをはせていた。僕の飼い猫が子猫だった頃の写真。君がどこかで宇宙服を着ている写真。懐かしい思い出が、詰まっていた。

 この日の思い出も、いずれは遠い過去の思い出になるのだろうか。そう思うと、なんだか少し切なくなった。いつか、この日を思い出すときに、君が隣にいてくれればいいのにと、僕は思った。


 改札を抜けると、人があふれていた。僕は、初めての東京の花火大会だった。あまりの人の多さに驚きつつも、僕はなんだか嬉しかった。本当に東京の花火大会に来たのだと実感できたからだ。

 僕らは群衆の流れについていった。周りは、家族連れとカップルで埋め尽くされていた。少し長い道のりを経て、会場である昭和記念公園のそばまで来た。蝉が叫んでいた。横断歩道の近くまで来たとき、君は段差につまずいてよろけた。僕は驚き、心配したが、君は笑っていた。僕は君の笑顔が好きだ。僕は君の素敵な笑顔を見ると、他の物事がどうでもよくなるのだ。それぐらい、君の笑顔には力があって、僕を虜にする。

 公園には緑が生い茂っていた。草が僕の背丈よりも高く伸びていた。まさに自然の姿だと感じた。蝉の声がよりうるさくなった。僕のすぐそばで蝉が鳴いているのだと分かった。僕らはメイン会場に進む道の中で、手前の広場の木陰にまだ場所があるのを見つけた。もう、ここでいいかということになり、僕たちは道を引き返して木陰の場所を目指した。

 まだ人の数は疎らだったが、木陰には人が集まっていた。けれど、まだ座れるスペースは残っていた。僕らはレジャーシートを広げ、腰を下ろした。花火まで時間があったので、僕たちは少し散歩をすることにした。まだ日差しは強く、肌にひりひりと刺さった。そんな僕を見て、君は日傘に一緒に入ろうと言ってくれた。僕はその言葉に甘えて、僕が日傘を持ち、一緒に日傘に入った。小さな日傘に入るために、僕らは肩を寄せ合った。僕の肩が、君の肩に触れる。そんな些細なことが、どうしようもなく幸せに思えた。

 屋台で買ったかき氷や、事前に買ってきた焼きそばを食べながら、僕らは花火が打ちあがる時間まで待った。日が暮れて、雲は鮮やかなオレンジ色に燃えていた。オレンジ色に燃え、鳥のような形の雲は、鳳凰のようだった。夕闇に染まりつつある空の中で、鳳凰は力強く羽ばたいていた。僕の左手にある木の奥で、沈んでゆく太陽が、輝いていた。

 花火が打ちあがる十九時を目前にしても、日は沈んでいなかった。夕陽が、雲の底を赤く燃やしていた。夕方から夜へと向かう鼠色の空に、花火が打ち上げられた。小さな花火は、可憐に花を咲かせた。赤色の火花が散った。その数秒後、ポンっ、と、花火の音が聞こえた。花火は、灰色の煙を残して、儚く消えていった。様々な花火が打ち上げられた。しだれ桜のように黄金色の火花が垂れ下がる花火。流れ星のように空を駆け抜ける花火。にこちゃんマーク、魚、ドラえもんの形をした花火。多くの火花に散った後、その火花が煌めく花を咲かせる花火。花火が広がると同時に、かしゃっ、と3DSのカメラのシャッター音が聞こえた。僕は思わず、君と笑った。

 花火に合わせて、子供たちの楽しそうな掛け声が聞こえる。蝉が懸命に鳴き続けている。綺麗だねと、君が言う。僕も綺麗だと呟く。そんな中、僕は考える。この思いをいつ伝えようかと。今日、好きと言わなければいけないような気がした。僕は、別れ際、思いを伝えようと思った。

 花火が打ち上げられる中で、空は黒く染まってゆき、すっかり藍色の夜空になった。暗い夜空に打ちあがる花火は、美しく輝き、煌めき、消えてゆく。そして、遅れて音がやってくる。僕は花火に心が奪われてゆく。スマホのカメラに映る花火よりも、実際に目で見る花火のほうが、格段に美しかった。僕は目に焼き付けようと思った。そして、花火大会は終了の時間へと迫ってゆく。閃光を放つ大きな火の玉が空高くへと昇ってゆく。僕はそれを見上げた。そして、その火の玉は一気にはじけ、赤色の火花が丸く広がる周りに、黄金色の細長い火花が放射線状に広がってゆく、大きな、大きな花火へと姿を変えた。暗い夜空の中で、花火は美しく輝いていた。そして、重々しい爆音を轟かせ、爆風が僕らに届いた。黄金色の火花は消えることなく、美しい閃光を放ちながら下に垂れていった。無数の流れ星が下に向かって流れているかのようだった。下に落ちてゆく中で火花は静かに、ゆっくりと姿を消し、火花の先端に残された緑色の光が夜空をさまよった。蛍が夜空を舞っているかのようだった。


 花火大会が終わり、僕らは駅へと歩き出した。大きな混雑にもまれながら、僕らは歩く。綺麗な花火が見れてよかったと、君が言う。僕も、大きな花火大会に来てよかったと言った。なにより、君と花火が見れてよかった。混雑の中、君と手をつなごうかと、悩んだ。けれど、いきなりすぎる気がして、僕はやめた。

 駅は入場規制で人があふれていた。公園では涼しかったはずなのに、駅前に来ると驚くほどに蒸し暑くて、汗が止まらなかった。あまりに汗をかく僕を見て、君は笑っていた。駅に入って、電車に乗った。花火大会の帰り道、とんでもない混雑を心配していたけれど、人が少なくて安心した。浴衣の君と並んで、電車に揺られている時間は、幸せだった。

 新宿駅に着いて、僕らはそれぞれ、違う路線へと別れる時が来た。今日は楽しかったね。じゃあ、帰ろうか。君はそう言う。うん。じゃあね。と、僕は言った。ここで言わなきゃ。そう思っても、言葉が出てこない。頭の中でどうしようかと渦が巻いていた。じゃあね。君はそういって、去ってゆく。僕も反対方向を向いて、歩き始めた。少し進んで、やはり言わなきゃだめだと思い、僕は振り返った。すると、君と目が合った。僕は思わず目をそらした。もう一度振り返ると、もう、君の姿は雑踏の中に消えていた。

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